はじめに
「伊賀の国」は、かつての日本の地方行政区分で、現在の三重県西部、上野盆地一帯に該当する令制国の一つであり、東海道に属していた。「伊賀」は、現在でも三重県の伊賀地方を指す呼称として使われており、伊賀市と名張市を中心に構成されている。伊賀は、伊賀流忍者の発祥地として知られ、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても有名である。

「徒然草」の著者として知られる兼好法師(吉田兼好)の終焉の地とされるのが三重県伊賀市にある兼好塚である。今回は、兼好法師の足跡をたどりながら、静かな時間が流れる遺跡公園をめぐる歴史散策の旅を紹介したい。
私と同年代の日本人であれば誰もが、吉田兼好の『徒然草』の出だしの一節を諳んじることができるはずだ。学校で嫌と言うほどに暗記させられた経験があるからである。
「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」
(現代語訳:何もすることがなく手持ち無沙汰なのにまかせて、一日中、硯に向かって、心の中に浮かんでは消えていくたわいもないことを、とりとめもなく書きつけていると、(思わず熱中して)不思議と、気が変になることだ。)
徒然草は、兼好法師が日々の生活の中で感じたことや思ったことを、特に目的もなく書き留めていった随筆集であるとされる。
兼好法師の本名は、卜部兼好【うらべかねよし】で、吉田兼好【よしだけんこう】とも呼ばれいる。彼は出家後に兼好法師【けんこうほうし】と呼ばれるようになったと伝えられている。
最近、私は偶然にも伊賀市のある場所で兼好法師の墓所とされる兼好塚【けんこうつか】に立ち寄る機会を得た。兼好塚は、兼好法師遺跡公園内にあり、兼好塚の近くの草蒿寺跡には「兼好法師終焉の地」の石碑が建っている。
地元では兼好法師の晩年は、親交があった公卿の橘成忠の招きで伊賀国の種生国見に庵を開き、余生を送ったと伝わる。そして、兼好法師が伊賀国で余生を送りながら『徒然草』を執筆したとも信じられている。
しかしながら、私はこの伝承には少し違和感を覚えた。その違和感の原因を確かめるべく、考察したのが本稿である。
兼好法師遺跡公園・兼好塚
兼好法師は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した随筆家・歌人である。代表作「徒然草」は、日々の思索や自然、人間関係などを綴った名随筆として、今も多くの人に読まれ続けている。
その兼好法師が晩年を過ごしたとされるのが、ここ伊賀の地である。静寂と自然に包まれたこの場所は、彼の思想や美意識と不思議と調和しているように感じられる。
伊賀市の種生国見には「兼好法師遺跡公園」が整備されており、兼好法師の墓所とされる「兼好塚」がある。
この公園は、兼好法師が生前にこの眺めを見ながら過ごしたとされる場所で、兼好法師の墓所「兼好塚」を中心に整備されている。
石碑には「兼好法師終焉之地」と刻まれており、訪れる人々はその前で静かに手を合わせ、彼の言葉に思いを馳せる。華やかさはないけれど、心に染みるような落ち着きがある場所である。
また、松尾芭蕉の弟子、服部土芳がここを訪れて詠んだ句の句碑もある。
| 名 称 | 兼好法師遺跡公園・兼好塚 |
| 所在地 | 三重県伊賀市種生1131 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 兼好塚 – 伊賀上野観光協会 |
伊賀市の地元に残る伝承
兼好法師が伊賀国で過ごした具体的な年代については、明確な記録が残っていないため、はっきりとしたことは分かっていない。
しかしながら、兼好法師が晩年を伊賀国で過ごしたという伝承が伊賀市の地元には残されており、兼好の墳墓とされる「兼好塚」が存在する。
歴史に残る兼好法師の一生
兼好法師の生涯については、彼が1283年頃に生まれ、1352年以降に亡くなったとされている。つまり69歳以上で亡くなっていると考えてよい。当時としては、長寿と言える。
兼好法師の死については、いくつかの異説が存在する。一説では、観応元年(1350年)2月15日に兼好が伊賀国名張郡国見山で亡くなったとされる。しかし、この日付以降の活動を示す史料が複数発見されていて、最も遅いものでは1352年8月の『後普光園院殿御百首』奥書に名前が残っているらしい。そのため、現在の通説では1352年8月以後に亡くなったと考えられている。
また、兼好法師が伊賀国で亡くなったとする説は、現在では定説とはなっていないようだ。したがって、兼好法師が伊賀国で亡くなったという伝承は確定的なものとは言えないらしい。
しかしながら、兼好法師がなくなった日や場所が伊賀国以外であるという証拠も出てきていない。依然として確定的な情報がない状況が続いている。
また、彼が『徒然草』を執筆した時期は、出家後の1313年頃からと推定されている。
そして兼好法師が伊賀国で過ごしたのは、14世紀の中頃、つまり南北朝時代(1336年~1392年)の可能性が高いと考えられいる。
兼好法師の『徒然草』とは
『徒然草』【つれづれぐさ】は、兼好法師が書いたとされる随筆である。全243段の短編随筆が収められている。
兼好法師の『徒然草』は、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』と並んで日本古典文学の三大随筆に挙げられている。
『徒然草』には兼好法師自身の経験から得た考えや逸話などが書き綴られており、内容は多岐にわたっている。そして、兼好法師の深い洞察力と人間観が示された作品であると評価されている。
序段には「つれづれなるままに」書いたと述べられており、その後に続く各段では、兼好自身の思索や雑感、逸話が順不同に語られている。文章の長短は様々であって特にルールのようなものはない。
しかしながら、内容については兼好が歌人、古典学者、能書家などであったことが反映している。特に、兼好が仁和寺がある双ヶ丘【ならびがおか】に居を構えたためか、仁和寺に関する説話が多い。
また、『徒然草』が伝える説話の中には、同時代の事件や人物について知る史料となる記述が散見され、歴史史料としても広く利用されている。
『徒然草』の成立については、鎌倉時代末期、1330年8月から1331年9月頃にまとめられたとする説が主流である。しかし、数多くの説があって、残念ながら定説というものはない。
また、兼好法師が伊賀国で『徒然草』を執筆したという情報については、確定的なものではないらしい。
鎌倉時代の日本人の平均寿命
鎌倉時代における日本人の平均寿命は、約24歳と推定されている。2022年時点での日本人の平均寿命は、男性が約81歳、女性が約87歳であるから、鎌倉時代の平均寿命は非常に短い。
しかし、これは乳幼児の死亡数が圧倒的に多かったという時代背景がある。実際には、長生きする人では70〜80歳というように、現代の日本人の平均寿命とさほど大きくは変わらないような年齢まで生きていたらしい。
したがって、兼好法師の晩年と呼ぶ年齢は、具体的な年齢を定めるのは容易ではないが、60歳以上を指していると考えられる。
私の違和感に関する考察
一部の伝承に基づくと、兼好法師が晩年に伊賀国で『徒然草』を執筆したという説があるのは事実である。しかしながら、この説には確固たる証拠が存在しておらず、異説も多く存在する。
その原因は、兼好法師が『徒然草』を執筆した具体的な場所や状況についての明確な記録が残っていないためである。だから誰も明確な判断を下すことはできない状況のままとなっている。
兼好法師の生涯については、1283年頃に生まれ、1352年以降に亡くなったとされている。そして兼好法師が『徒然草』を執筆し始めた時期は、出家後の1313年頃からと推定されている。兼好法師がちょうど30歳の頃のようである。
これらの情報が正しいのであれば、兼好法師が晩年を伊賀国で過ごした可能性は否定できないが、いくつかの疑問が生じる。
『徒然草』として完成(完結)させた時期については、いくつかの説があり、一説によると鎌倉時代末期の1330年8月から1331年9月頃までの一年間でまとめられたとされている。もしこの説が正しいのであれば、兼好法師が48歳の頃であり、余生を送りながら『徒然草』を執筆した時期とは解離している。
一方、現在の通説では「長年書き溜めてきた文章を1349年頃にまとめた」とする説が有力とされている。この説が正しいのであれば、兼好法師が66歳の頃であり、確かに晩年と言える。しかし、30歳の頃から36年間もの長きにわたって書き溜めてきたものをわずか1年という短期間でまとめられるものなのだろうか。私にはそんな経験がないので、全く想像ができない。
あとがき
兼好法師が晩年を過ごしたとされる伊賀の地は、華やかさこそないものの、言葉と自然が静かに響き合う場所である。
兼好塚と遺跡公園を歩くことで、彼の思想や美意識に少しだけ触れられるような気がする。
喧騒の日常から少し離れて、徒然なるままに歩く時間や散策の旅も、たまには良いものである。