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【伊賀の国】日本三大仇討ち「鍵屋の辻の決闘」史跡

はじめに

伊賀の国」は、かつての日本の地方行政区分で、現在の三重県西部、上野盆地一帯に該当する令制国の一つであり、東海道に属していた。「伊賀」は、現在でも三重県の伊賀地方を指す呼称として使われており、伊賀市と名張市を中心に構成されている。伊賀は、伊賀流忍者の発祥地として知られ、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても有名である。

唐突ではあるが、仇討ち【あだうち】は、自分の主君や親族などを殺した者を討ち取って、恨みを晴らすこと、すなわち敵討ち【かたきうち】を指す用語である。武士社会における慣習であり、江戸時代には法制化された私刑制度であったという。

明治時代になって禁止されるまで、日本社会では賞賛されるべき行いとして認知されてきた歴史がある。その理由は、武士の忠義や勇気を示すものとして、江戸時代には仇討ちが文化や芸術の題材にされてきたからである。

武家社会が長く続いた日本の歴史のなかでは、史実として、武士の生き様を象徴するような次のような3件の仇討ち事件が「日本三大仇討ち」として長らく語り継がれてきた。

  • 曾我兄弟の仇討ち(父の敵討ち)
  • 赤穂浪士の討入り(主君の敵討ち)
  • 鍵屋の辻の決闘(弟の敵討ち)

蘇我兄弟の仇討ちは、鎌倉時代初期に起きた仇討ち事件で、長らく武士社会における仇討ちの模範とされてきたらしい。

赤穂浪士の討入りは、江戸時代前期に起きた仇討ち事件で、「日本三大仇討ち」の中では最も有名なものかも知れない。この赤穂事件は、忠義と義侠の精神を示すものとして江戸時代には高く評価され、武士からだけでなく、民衆からも強く賞賛され、支持されていたらしい。

そして、本稿で取り上げる「鍵屋の辻の決闘」は、江戸時代初期に起きた仇討ち事件で、剣豪としての技量と勇気を示すものとして民衆からも称賛されてきたものらしい。

私は、特に仇討ちに興味があるわけではないが、語弊を恐れずに言えば、現代の私たちからすれば日本の歴史に大きなインパクトを与えたわけでもない、「個人的な私怨による殺戮事件」が史跡となって現在まで三重県伊賀市の一角に残されていることに大きな驚きと共に、興味を覚えずにはいられない。

歴史に興味がある者の一人として、もっと詳しく調べてみたくなった次第である。この話題についてきて下さる方は、きっと余程の歴史マニアであろう。

目次
はじめに
鍵屋の辻の決闘の概要
伊賀越資料館
あとがき

鍵屋の辻の決闘の概要

鍵屋の辻の決闘とは、江戸時代の寛永11年(1634年)に、渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀上野の鍵屋の辻で討った事件を指す。

この仇討ちの背景には、岡山藩主・池田忠雄の寵童(寵愛する小姓)であった渡辺源太夫(渡辺数馬の弟)が、河合又五郎に殺害されたことがそもそもの始まりである。

川合又五郎が渡辺源太夫を殺した理由というのが、又五郎が源太夫に横恋慕して関係を迫ったけれども拒絶されてしまい、それに逆上して切り捨ててしまったと伝わっている。又五郎は岡山藩の藩士であったから、今風に言えば上司の愛人に手を出したが、自分のいうとおりにならないので殺害したということになるだろうか。源太夫にすればとんだ災難であった。又五郎は狂気の殺人者で、現代の法律においても極刑の死刑もしくは終身刑のどちらかにはなっているはずだ。

又五郎は江戸に逃げて旗本の安藤家に匿【かくま】われたが、その安藤家というのが池田家とは相容れない因縁のある家柄同士であったという。

旗本の安藤家というのは、室町幕府の将軍・足利義昭の重臣であった安藤宗家の子孫で、徳川家康の親戚筋にもあたる。一方、池田家は、織田信長や豊臣秀吉の家臣であった池田恒興の子孫である。両家は、「小牧・長久手の戦い」で互いに敵味方となって戦い、安藤宗家の長男・直次が池田恒興とその嫡男・元助を討ち取ったことが、池田家の怨恨になったと言われている。

そんな因縁のある両家に、川合又五郎の存在が波風を立てないはずがない。池田家は、藩士の又五郎の返還を求めて幕府に訴えたことにより、旗本の安藤家と外様大名の池田家が対立する構図ができてしまい、両家の反目はさらに激化したという。

池田忠雄は死に臨んで仇討ちを遺言し、渡辺数馬は旗本の庇護を受ける又五郎を倒すために脱藩したという。そして、剣術の達人であった荒木又右衛門(姉婿)に仇討ちの助太刀を頼んだ。数馬と又右衛門の関係は、数馬の姉を介して義兄弟であった。

数馬と又右衛門の二人は、又五郎の居場所を突き止めて、伊賀上野の鍵屋の辻で待ち伏せし、最終的にはそこで又五郎を討ち果たしたという仇討ちの話であるが、「鍵屋の辻の決闘」と持て囃されて、数多くの小説や映画、ドラマの題材になったのには理由がある。

鍵屋の辻の決闘は、実は人数的には不公平な戦いになっている。河合又五郎は、10名の護衛をつけていた。その護衛というのが因縁の旗本・安藤家の近親者を中心としたメンバーである。又五郎陣営の同行者の氏名は下記のとおりである。

  • 川合又五郎(本人)
  • 安藤次右衛門正珍(又五郎を匿って池田家と対立した旗本)
  • 安藤次右衛門正勝(正珍の子)
  • 安藤次右衛門正重(正珍の弟)
  • 安藤次右衛門正利(正珍の弟)
  • 安藤次右衛門正信(正珍の弟)
  • 安藤次右衛門正勝(正珍の甥)
  • 虎屋九左(右)衛門(又五郎の護衛)
  • 河合甚左衛門(又五郎の叔父。元郡山藩剣術指南役)
  • 桜井半兵衛(槍の名人。摂津尼崎藩槍術指南役)
  • 氏名不明の護衛一人

一方、渡辺数馬陣営は、数馬本人と荒木又右衛門の二名に数馬の若党(身分の低い家臣)である森(岩本)孫右衛門と河井武右衛門を加えて、わずかに4人であった。つまり、又五郎陣営11名に対して、数馬陣営は4名であるから、2.75倍の人数差があり、人数的には圧倒的に不利な条件であったと言わざる得ない。

数馬と又右衛門は果敢に戦い、本懐の又五郎を含めて4人を討ち取ったとされる。打ち取られた又五郎以外の3名は、又五郎の叔父の河合甚左衛門、槍の名人の桜井半兵衛、虎屋九左(右)衛門であったとされる。

一方、数馬陣営の死亡者は、川合武右衛門のみであったとされ、この決闘の後に、数馬と又右衛門は、岡山藩の分家筋である鳥取藩の池田家に帰参したが、又右衛門は4年後の1638年に急死している。死因については毒殺説など諸説があり、明らかではない。

荒木又右衛門は、柳生新陰流の門人で剣豪として知られていた。鍵屋の辻の決闘においては、強敵の河合甚左衛門と桜井半兵衛の二名を打ち倒したことから剣豪としての技量と勇気を天下に示すこととなり、江戸時代には一躍有名人になっている。そのため彼を主人公にした映画やドラマが後世においても制作されている。エンターテイメントの観点から「36人斬り」をしたことになっているのは御愛嬌ということらしい。

一方、又五郎陣営で生き残った者たちは、幕府の命令で謹慎処分となったらしい。安藤次右衛門が、二年後の寛永13年(1636年)に死去したことで、他の者たちは復帰を許されたが、幕府や外様大名からの信頼を失ったままで、彼らの名誉が回復されることはなかったという。

以上が、鍵屋の辻の決闘の概要(顛末)である。歴史に興味がある方ならもっと詳しく知りたいと思われるのではなかろうか。


伊賀越資料館

伊賀越資料館は、「日本三大仇討ち」の一つに数えられる「伊賀越鍵屋の辻の決闘」に関する資料を展示する博物館である。

ちなみに「鍵屋の辻の決闘」が「伊賀越の仇討ち」とも呼ばれる理由は、仇討ちの舞台となった「鍵屋の辻」が伊賀国の上野城下にあり、仇討ちの相手である河合又五郎が10名の護衛に守られて伊賀国を越えて江戸に逃げ延びようとしたためで、そこから「伊賀越の仇討ち」とも呼ばれるようになったと言われている。

伊賀越資料館が位置しているのは、かつて「鍵屋の辻」と呼ばれた場所であり、まさしく「鍵屋の辻の決闘」があったとされる史跡である。

伊賀越資料館は、建物の老朽化や見学者の減少、さらには委託先の不在などが理由で、平成31年(2019年)4月1日から休館中である。現時点では再開の目途は立っていないという。

資料館では、仇討の経緯や使用された武具、当時の鍵屋の辻を再現したジオラマなどが展示されていたらしいが、現在は閉館中のため、それらを見学できない。残念である。

また、資料館の裏には、河合又五郎の首を洗ったとされる「洗首の池」があるが、現在は近づくことはできない。

資料館の周辺は公園として整備されており、仇討ちの待ち伏せをしていたとされる茶屋を再現した「数馬茶店」もあるが、現在は営業していない。

ごく最近まで営業していたような雰囲気があるだけに、資料館の休館が長引いていることが原因で閉店することになったのだと推測される。

名 称伊賀越資料館
所在地三重県伊賀市小田町1321
駐車場あり(無料)
Link伊賀越資料館 – 伊賀上野観光協会

あとがき

伊賀越資料館が休館中であり、当然ながら観光客はほとんどいない状態ではあるが、地元の人らしい数人がベンチでくつろいでいた。

公園内には池があり、池の周囲にはカエデが多く植栽されている。そのため春は若葉、夏は青葉、秋は紅葉、冬は寒樹と四季を通して市民を楽しませてくれる場所となっているのだろう。


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