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山麓に残る神々のふるさと葛城古道の社寺を訪ねる旅

はじめに

葛城古道【かつらぎこどう】は、葛城山の麓を南北に走る奈良県内の古道である。「葛城の道」とも呼ばれ、奈良県葛城市當麻付近から奈良県御所市内を通っている約20kmの道である。「葛城の道」は、大和平野を東西に走る「山辺の道」に相対するように走っている。

引用:葛城山および葛城古道2 (urano.org)

この辺りは5世紀末頃に、奈良盆地西部で勢力を振るっていた豪族の葛城氏の本拠地があったところとされている。葛城古道の道沿いには葛城氏や鴨氏ゆかりの古社が点在している。(引用:ウキペディア)

葛城古道に点在する葛城氏鴨氏ゆかりの古社、特に高天彦神社高鴨神社を訪ね、悠久の歴史を感じるためには事前学習も必要だろう。少なくとも葛城氏や鴨氏のルーツぐらいは事前に学習しておくことにしよう。

目次
はじめに
六地蔵石仏
九品寺
葛城一言主神社
佛頭山極楽寺
高天寺橋本院
高天彦神社
葛城氏のルーツ
高鴨神社
鴨(賀茂)氏のルーツ
鴨都波神社
葛木坐火雷神社(笛吹神社)
あとがき

六地蔵石仏

御所市の北西端、櫛羅【くじら】地区の旧道の坂道の真ん中に通行を遮るくらいの大きな石が置かれている。この大きな石の表面には6体の地蔵が彫られ、「六地蔵石仏」と呼ばれている。

この大きな石は、伝承によれば室町時代に発生した土石流によってこの地に流れ着いたものであるらしい。この石に村人たちが仏教の六道をもって衆生を救うという、仏法の精神に照らし極楽浄土を願って、六地蔵を彫ったと伝えられている。

この辺りの地区は、かつて兄川の出水による水害などで度々被災したという。村人たちの祈りが込められた六地蔵が現在に至るまで大切に残されており、後世にも伝えられていくことだろう。

六地蔵は、向かって右から天上道(日光菩薩)・人間道(除蓋障菩薩)・修羅道(持地菩薩)・畜生道(宝印菩薩)・餓鬼道(宝珠菩薩)・地獄道(壇蛇菩薩)であるとされる。

名 称六地蔵石仏
所在地奈良県御所市櫛羅
駐車場なし
Link六地蔵 | 御所市

九品寺

九品寺【くほんじ】は、浄土宗の寺院で、山号は戒那山【かいなさん】である。御本尊は、阿弥陀如来である。

詳細は不明であるが、奈良時代の僧・行基によって創建された寺院あると伝わる。中世には御所城主であった楢原氏の菩提所となり、永禄年間(1558年~1570年)に観誉弘誓によって現在の浄土宗に改宗したと言われている。

九品寺は「千体石仏」のある寺として知られている。

名 称戒那山 九品寺
所在地奈良県御所市楢原1188
駐車場あり(無料)
Link九品寺 | 御所市

葛城一言主神社

葛城一言主神社【かつらぎひとことぬしじんじゃ】は、奈良県御所市にある神社で、一言ならどんな願いも叶えてくれる霊験あらたかな「いちごんさん」の神様として親しまれている。

葛城一言主神社は、全国各地に鎮座する一言主神社の総本社であるという。

葛城古道に位置する一言主神社周辺は、彼岸花の名所として知られ、満開時はまさに絶景である。例年9月下旬になると、一言主神社へと続く参道脇の田んぼの畦にはたくさんの彼岸花が咲く。収穫前の稲穂と赤色の彼岸花のコントラストがとても鮮やかとなり、いわゆる「映える写真」が撮れるので人気が高い。

名 称葛城一言主神社
所在地奈良県御所市森脇432
駐車場あり(無料)
Link葛城一言主神社 | 奈良県御所市
葛城一言主神社 | 御所市

佛頭山極楽寺

極楽寺【ごくらくじ】は、浄土宗の寺院である。一和上人によって創建された寺院であると伝わる。

極楽寺沿革の概略によれば、一和上人が修行修学のため静寂なる地を求めていたところ、あるときに金剛山の東麓に毎夜放つ不思議な光を見つけた。奇異に思い、その出所を探していたところ、生身の仏様のような仏頭(弥陀仏の頭)が発掘されたと伝わる。

一和上人はこの不思議なことに驚いたが、この地を有縁の地と考えて「仏頭山」と呼び、天暦5年(951年)に発掘した仏頭を本尊として草庵を結んで、「法眼院」と名付けたという。

一和上人はいよいよ善業【ぜんごう】を修め、念仏の功を積んだとされる。上人は正暦5年(993年)に大往生を逐げられたという。

そのため、この寺院は「佛頭山法眼院極楽寺」と称されるようになった云えられている。

名 称佛頭山極楽寺
所在地奈良県御所市南郷108
駐車場あり(無料)
Link浄土宗佛頭山極楽寺
極楽寺 | 御所市 (city.gose.nara.jp)

高天寺橋本院

縁起によれば、高天寺 橋本院【たかまでら はしもといん】は、延宝5年(1677年)に当時の住職、頼勇の手によって高天寺に付属する小寺院として橋本院が復興したという。

元々は葛城修験宗の根本道場であり、役の小角(634~701年)が修業した寺としても知られる大寺院であったという。

高天寺の修験僧高天行秀らが南朝方に陰から援助して味方していた事が北朝方にばれて、元弘の変(1331年)以降の1333年に北朝方の畠山基国、1348年に高師直らに攻められ、大規模な伽藍が焼き打ちされたと伝わる。その後は、橋本院として復興するまでのおよそ350年あまりは衰退の一途をたどっていたらしい。

高天寺の創建は、養老年間(717~724年;元正天皇【げんしょうてんのう】の時代)にまで遡るという。

養老2年(718年)に高天山【たかまやま】登拝のためにこの地を訪れた行基が霊地であることを感じて一精舎を建てて一心に冥応し祈った。すると、ある日のことに念想中に容体より光を放つと共に香気を漂わせて十一面観音菩薩の姿が現われたという。行基は、この霊応に深く感じ入り、さらに修業を続けて困難と苦悩に屈することなく祈念し続けたという。人々は、この姿に尊敬の念を抱き、「高天上人」と呼んだという。

元正天皇(715~724年)は、この行基の功徳を知り、高天が霊地であることを知って、寺地として与えたとされる。そして十一面観音菩薩の仏像を彫り、それを祀ることを許したとされる。

それ以来、参拝者が増えて繁栄したという。天平17年(745年)には聖武天皇(724~749年)が発病した折に病気平癒の祈願をしたことから、天皇より「宝宥山」の山号を賜ったという。

高天寺は、孝謙天皇(749~758年)も深く帰依され、高天千軒と呼ばれるほどの格式の高い大寺院であったという。晩年を唐招提寺で過ごした鑑真和上(735年来日)も一時は住職に任命されたと伝わっている。このように高天寺は、金剛山転法輪寺七坊の一つとして石寺や朝原寺などと共にかつては権威を誇った寺院であったという。

名 称高天寺橋本院
所在地奈良県御所市高天350
駐車場あり(無料)
Link高野山真言宗 高天寺橋本院 – 高天寺 橋本院
高天寺橋本院 | 御所市

高天彦神社

高天彦神社【たかまひこじんじゃ】は金剛山系の白雲岳の麓に鎮座する古社である。葛城山・金剛山系は、古代より「神宿る山」としての信仰を集めてきたという。

高天彦神社には主祭神として高皇産霊神【たかみむすひのかみ】が祀られている。高皇産霊神は、天地開闢の時に現れた造化三神の一柱であり、日本神話(日本書紀版)ではニニギノミコト(瓊々杵尊;天孫)の祖父として、ニニギノミコトのために出雲の大国主命に国譲りを要求した神として描かれている。

高天【たかま】の広大な大地は、日本神話の天孫降臨の舞台となったところではないかと言い伝えられている。一般的には、天孫降臨の舞台は「高千穂の峰」 (宮崎県)とされているが、金剛山(奈良県/大阪府)にもその伝説が残されているという。

金剛山腹の台地の一帯は、天照大御神が統治した天上界 「高天原」【たかまがはら】の伝承地となっている場所であるという。高天原とは、日本神話において天照大御神をはじめとする天津神【あまつかみ】が住むとされた場所である。高天彦神社は、神代からの永い信仰の歴史と由緒を持つ地に鎮座する神社である。

ヤマト王権誕生の地とされる奈良盆地を眼下に見下ろす場所に高天彦神社が鎮座していることからも、この地が天津神が住む高天原であったと考えても不思議なことではないように思われる。

大神神社【おおみわじんじゃ】(桜井市)と同じように高天彦神社の御神体は山(白雲岳)であり、本殿は建造されていない。

神社の境内には神聖な「磐座」【いわくら】が鎮座している。この磐座は御神体山である白雲岳の中腹にあった磐座を神社創建の際に移されたものであるという。太古の昔には、山にあったこの磐座の周辺(聖林)で祭祀が執り行われていたと伝わっている。

主祭神の高皇産霊神は、大和朝廷が成立する以前の時代にこの山麓一帯を中心に居住し、葛城王朝を築いたとされる有力豪族・葛城氏の祖神であったと伝わっている。高天彦神社が葛城氏ゆかりの神社とされる所以である。

高天彦神社には、高皇産霊神のほかに市杵島姫命【イチキシマヒメ】(宗像三女神の一柱)と菅原道真が祀られているが、この二柱の神さまが合祀されたのはかなり後世のことであるという。

高天彦神社の鳥居に向かって右手には「幸せを呼ぶ福蛙」と呼ばれている石が置かれている。幸せを願って触れると幸運が舞い込むと伝えられているパワースポットであるらしいが、高天彦神社とは関係がないという。

高天彦神社への参道には、樹齢が数百年と言われる杉の巨樹が茂り、この巨樹の杉並木が神秘的な雰囲気を醸し出していた。

名 称高天彦神社
所在地奈良県御所市北窪158
駐車場あり(無料)
Link高天彦神社 | 御所市

葛城氏のルーツ

葛城氏【かつらぎうじ】は、古墳時代に大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な豪族であった。葛城氏の始祖は、葛城襲津彦【かずらぎのそつひこ】であるという。(引用:ウィキペディア)

葛城襲津彦は、4世紀末から5世紀前半頃に対朝鮮外交で活躍したとされる伝説上の人物である。当時、葛城の地には襲津彦が朝鮮から捕虜として連れて来た渡来人が居住しており製鉄作業に従事していたという。

また、襲津彦は、履中天皇(第17代)、反正天皇(第18代)、允恭天皇(第19代)の外祖父であったと伝わる。

襲津彦以降の氏人として、葦田宿禰、蟻臣、円大臣の名が知られている。葦田宿禰は、襲津彦の子であるが、その娘は履中天皇の妃となり、押磐皇子を生んだ。その押磐皇子の妃が蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘は雄略天皇の妃となり、清寧天皇の母である。驚くべきことに仁徳から仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母にしているという。

このように葛城氏はヤマト王権の大王(天皇)との姻戚関係を築き、権勢を誇っていたということであろう。当時のヤマト王権の基盤は未熟な段階であり、天皇の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかった事実を考慮すれば、5世紀のヤマト王権での葛城氏の影響力は強大であったに違いない。

しかしながら、権勢を誇った葛城氏もやがて権力基盤を強化しようする天皇によって敵対勢力として粛清され、没落することになったという。(参考:ウィキペディア)

葛城氏に代わって、政治力や経済力、対朝鮮の外交ポストや渡来人との関係、さらには天皇家との婚姻関係などを継承して権勢を振るうことになるのが蘇我氏であるが、蘇我氏もまた葛城氏と同様の運命を辿る。まさに歴史は繰り返されたのである。


高鴨神社

高鴨神社【たかがもじんじゃ】は、大和の名門豪族であった鴨氏一族の守護神を祀った神社で、日本最古の神社の一つでもある。

弥生時代中期、この地から鴨氏の一族はひろく全国に移住してゆき、各地で鴨氏一族の守護神を祀った。そのために高鴨神社は全国の鴨(加茂) 社の総社である。京都にある世界遺産にも登録されている下鴨神社【しもがもじんじゃ】や上賀茂神社【かみがもじんじゃ】の総社もこの高鴨神社であるという。

高鴨神社の本殿には阿遅志貴高日子根命【アヂシキタカヒコネ】(迦毛之大御神【カモノオオミカミ】)が祀られている。

「大御神」と称される神様は、天照大御神、伊邪那岐大御神、迦毛之大御神の三柱の神様しか記紀には記されていないという。つまり偉大な神さまであるということらしい。

迦毛之大御神は、死した神をも甦えらせることができるという神力が強い神様で、病気平癒、初宮、大祓い等、甦りに関する信仰が深いとされる。また人の歩む道を目覚めさせてくれる神様として全国の信者によって篤く崇敬を受けているという。

境内の西神社には母神の多紀理毘売命【たぎりひめのみこと】、天御勝姫命【あめのみかじひめのみこと】、塩治彦命【やむやひこのみこと】、瀧津彦命【たきつひこのみこと】が祀られている。一方、東神社には天照大御神【あまてらすおおみかみ】、天兒屋根命【あめのこやねのみこと】、住吉大神【すみよしのおおかみ】が祀られている。

高鴨神社の神域は鉱脈の上と重なり、多くの「気」が出ていることでも有名らしい。「気」は身体に大変よく、神域を巡ることで心身が共にリフレッシュされると言われている。

高鴨神社では、社殿の写真撮影は禁止されている。そのため立派な社殿の写真が撮れず、紹介できないのが残念である。

名 称高鴨神社
所在地奈良県御所市鴨神1110
駐車場あり(無料)
Link【公式】高鴨神社|日本最古 全国鴨社元宮 | 御所市

鴨(賀茂)氏のルーツ

賀茂(加茂・鴨・加毛)を氏する氏族には、天神系・地祇【ちぎ】系・備前鴨(加茂)氏の3系統が知られているが、葛城の地との関係性が高い地祇系鴨(賀茂)氏のルーツを調べてみた。

地祇系鴨(賀茂)氏は、大鴨積命【おおかもつみのみこと】(大賀茂津美命・大賀茂都美命)を始祖とする。

大鴨積命は大物主神(三輪明神)の子または後裔の大田田根子【おおたたねこ】の孫で、速須佐之男命の11世の孫であるとされる、古墳時代の豪族であった。

鴨(加茂)氏は、大和国(葛城)葛上郡の高鴨神社・鴨都波神社・葛木御歳神社付近(現・奈良県御所市)を本貫【ほんがん】としていた。

高鴨神社と鴨都波神社の御祭神である阿遅志貴高日子根命【あじすきたかひこねのかみ】(迦毛之大御神【カモノオオミカミ】)や積羽八重事代主命【つみはやえことしろぬしのかみ】は、鴨氏の祖神であるとされている。(引用:ウィキペディア)

大鴨積命【おおかもつみのみこと】は、鴨の地に祖神の事代主神を祀った鴨都波神社を建てたことから、「鴨君」【かものきみ】の姓を賜与【しよ】された。

子孫は「鴨」の姓を名乗っていたが、鴨蝦夷が「壬申の乱」の功臣となり、684年に「賀茂朝臣」【かものあそん】の姓を賜与されたという。

賀茂蝦夷の子が、遣唐使として2度も唐に渡ったと伝わる賀茂吉備麻呂(飛鳥~奈良時代の貴族)である。

平安時代中期には陰陽頭の賀茂忠行・賀茂保憲父子を輩出し、その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道の宗家となった。保憲の子である賀茂光栄は、暦道を継ぎ、それ以降、子孫は暦道を伝えたという。


鴨都波神社

鴨都波神社【かもつばじんじゃ】も鴨氏一族の守護神を祀った神社で、高鴨神社(「上鴨社」と称される)に対して「下鴨社」とも呼ばれる。

主祭神は、都羽八重事代主命【つわやえのことしろぬしのみこと】である。

事代主神【ことしろぬしのかみ】は、元来「鴨氏」一族が信仰していた神であり、大神神社(奈良県桜井市)に祀られる大物主大神(=大国主神)の子にあたることから、「大神神社別宮」とも称されるという。

鴨都波神社の境内には、伊勢神宮宮中神殿への遥拝所がある。

名 称鴨都波神社
所在地奈良県御所市宮前町513
駐車場あり(無料)
Link【公式】鴨都波神社 | 大和葛城鴨大明神

葛木坐火雷神社
(笛吹神社)

葛木坐火雷神社【かつらきにいますほのいかづちじんじゃ】は、奈良県葛城市笛吹にある神社で、通称で笛吹神社と呼ばれる。

主祭神は、火雷大神【ほのいかづちのおおかみ】と天香山命【あめのかぐやまのみこと】である。葛木坐火雷神社の元々の祭神は火雷大神で、天香山命は笛吹神社の祭神である。

創建の年代は不詳であるが、社伝では神代とも神武天皇の御代とも伝えられている。そうするとかなり歴史の古い神社と言える。

また、社伝では平安時代に社勢が衰え、当地にあった笛吹神社の末社になったと伝えられている。

笛吹神社は、当地を拠点とした笛吹連によって作られた神社とみられ、祭神の天香山命は笛吹連の祖神であるとされる。本殿の背後には古墳があり、笛吹連の祖・櫂子【かじし】の父である建多析命【たけたおりのみこと】の墓であると伝えられている。

明治7年(1874年)、笛吹神社の末社であった火雷社を笛吹神社に合祀し、社名を現在の「葛木坐火雷神社」に改めたという。

境内には日露戦争で政府から与えられたロシア製大砲が残る。

名 称葛木坐火雷神社(笛吹神社)
所在地奈良県葛城市笛吹448
駐車場あり(無料)
Link葛木坐火雷神社(笛吹神社)公式ウェブサイト

あとがき

葛城古道に点在する葛城氏鴨氏ゆかりの古社について理解するには、葛城氏や鴨氏のルーツについても学ぶ必要があるだろうと思った。

葛城氏や鴨氏のルーツについて学び、葛城古道に点在する葛城氏や鴨氏ゆかりの古社、特に高天彦神社高鴨神社を訪ねたところ悠久の歴史を感じることができた。

また、葛城古道の沿道からは外れているが、鴨都波神社葛木坐火雷神社笛吹神社)を参拝することで、ヤマト王権が成立する頃、あるいは神代の頃から歴史が始まる古代ミステリーにさらに好奇心がそそられた。葛城古道を徒歩で歩いてみたくなった。


【参考資料】
九品寺 | 御所市
葛城一言主神社 | 奈良県御所市
葛城一言主神社 | 御所市
浄土宗佛頭山極楽寺
極楽寺 | 御所市 (city.gose.nara.jp)
高野山真言宗 高天寺橋本院 – 高天寺 橋本院
高天寺橋本院 | 御所市
高天彦神社 | 御所市
【公式】高鴨神社|日本最古 全国鴨社元宮 | 御所市
【公式】鴨都波神社 | 大和葛城鴨大明神
葛木坐火雷神社(笛吹神社)公式ウェブサイト