はじめに
滋賀県甲賀市は、甲賀流忍者発祥の地である。そのため甲賀流忍者のテーマパークとして「甲賀の里 忍者村」が存在し、甲賀五十三家の筆頭格であった望月氏の旧邸を「甲賀流忍術屋敷」として公開したりしている。いずれも甲賀流忍者の実像や暮らしを今に伝えている。甲賀流忍者の秘伝の書や忍具などが展示され、当時のからくり屋敷も残されていて非常に興味深いものである。老若男女を問わず、人気が高いのも頷ける。
かつて私が甲賀市で勤務していた頃、業務出張先で初対面の人から居住地を尋ねられた際、「甲賀忍者の里」と答えれば大抵の人には納得して貰えた経験がある。それほどに甲賀市は甲賀流忍者の里としての知名度が高い。
しかしながら、甲賀市は「忍者の里」としての一面ばかりではなく、長い歴史や独特の文化、そして大自然が造り出す景勝地に溢れた魅力的なエリアである。
私は今、三重県名張市で過ごす時間が増えていて、幸いにも甲賀市へのアクセスは比較的容易である。だから地の利を活かして、甲賀市の魅力を本稿で伝えたいと思う。
<目次>
はじめに
甲賀流忍術屋敷
甲賀の里 忍術村
大池寺
樂野寺
田村神社
十楽寺
油日神社
大鳥神社
信楽の里・信楽焼
滋賀県立 陶芸の森
信楽陶苑 たぬき村
ミホ・ミュージアム
あとがき
甲賀流忍術屋敷
甲賀流【こうかりゅう】忍術屋敷は、甲賀五十三家の筆頭格であった望月家の旧邸を一般に公開している。当時のまま残されている防衛のための屋敷内の「からくり(仕掛け)」をガイド付きで見学することができる。
興味深いのは、外見は一般的な日本家屋だが、内部は外敵の襲撃に備え、また侵入した敵を捕らえるための「どんでん返し扉」(回転戸)や「落とし穴」、さらには「隠し梯子」と「隠し部屋」など「からくり(仕掛け)」が多く施されている点である。
名 称 | 甲賀流忍術屋敷 |
所在地 | 滋賀県甲賀市甲南町竜法師2331 |
電 話 | 0748-86-2179 |
営業 | 営業時間:9:30~17:00 (入館は16:30まで) 休館日:毎週水曜日及び第4木曜日 |
入館料 | 大人650円 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸)公式HP |
甲賀の里 忍術村
甲賀の里 忍術村【こうかのさとにんじゅつむら】は、甲賀流忍者発祥の地として、この地に伝わる甲賀流忍者の秘伝の書(忍術書)、忍者が使用する道具である忍具や忍者屋敷を紹介しているテーマパークである。
村内(園内)には旧岡田家(甲賀忍術博物館)と旧藤林家(からくり忍者屋敷)が移築されている。
名 称 | 甲賀の里 忍術村 |
所在地 | 滋賀県甲賀市甲賀町隠岐394 |
電 話 | 0748-88-5000 |
入館料 | 大人1,100円 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 甲賀の里忍術村【オフィシャル】 |
大池寺
大池寺【だいちじ】は、臨済宗妙心寺派の寺院で、山号を龍護山と称する。御本尊は釈迦如来である。御本尊の釈迦如来坐像は「甲賀三大仏」の一つとされる。
創建については、天平年間(729年~784年)に行基がこの地を訪れた際に、農民のために「心」の字の形に4つの池を掘り、灌漑用水を作ったとされる。
そして、その中央に法相宗の「邯鄲山青蓮寺」を建立して、自分で彫った釈迦如来坐像を安置したとされる。その後に子院を8ヶ寺持つ七堂伽藍を備える天台宗の寺院となった。
鎌倉時代になり、聖一国師の孫弟子である無才智翁禅師が入寺して臨済宗の寺院に改宗することになる。
戦国時代の天正5年(1577年)、織田信長と六角承禎との合戦に巻き込まれて伽藍はことごとく焼失したが、御本尊の釈迦如来坐像はからくも焼け残ったという。しかしながら、約90年間もの間は粗末な草庵に安置され、風雨にさらされたという。
江戸時代の寛永11年(1634年)、江戸幕府3代将軍徳川家光が上洛するのに際して、この草庵の近くにが水口城が築城されることになった。そして小堀遠州【こぼりえんしゅう】(江戸時代の大名、茶人、建築家、作庭家、書家)が作事奉行を務めることになったという。小堀遠州は水口城の完成を祝して蓬莱庭園【ほうらいていえん】と呼ばれる枯山水の庭園をこの草庵に作庭したという。
この小堀遠州が作庭したとされる鑑賞式枯山水庭園「蓬莱庭園」は今では甲賀市指定の名勝となっている。
サツキの大刈り込みで表現した「宝船」や「大海原」は実に見事と言わざるを得ない。秋には後方のモミジが紅葉して見事であるが、サツキが開花する5月下旬から6月中旬頃の景色も是非見てみたいものである。
寛文7年(1667年)、京都妙心寺の丈巌慈航禅師が来訪して草庵の釈迦如来坐像を見て、寺の再興のためにこの草庵に住むことを決意する。そして寛文9年(1669年)には寺名を「邯鄲山青蓮寺」から行基が作った大きな池に因んで「龍護山大池寺」に改名し、臨済宗妙心寺派の寺院となった。
寛文10年(1670年)、当地の地頭である織田正信(信長の甥)が大池寺の開基(出資者)となり、多くの寄進を行って仏殿と庫裡が完成した。こうしたことから大池寺の寺紋は織田木瓜【おだもっこう】(織田家の家紋)となっている。
この再興時には、後水尾天皇や伊達宗房(仙台藩第5代藩主伊達吉村の父)らも寄進を行っているという。
近代に入り、長らく住持が不在の時期があったため庫裏が崩壊するなどしていたが、昭和12年(1937年)に龍巌月泉が住持となって復興に当たったという。
大池寺には蓬莱庭園の他にも枯山水の庭園がある。大池寺の枯山水の特徴は、石組みの代わりにサツキの刈込みが用いられていることである。
庭木にも特徴的な剪定がなされており、実に見応えがある庭であると感心させられた。個人の庭ではなかなかこうはいかない。
大池寺の周辺は、行基が作ったという池を中心とした「名坂大池寺自然公園」として整備されている。
名 称 | 大池寺 |
所在地 | 滋賀県甲賀市水口町名坂1168 |
電 話 | 0748-62-0396 |
拝観料 | 大人400円 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 大池寺オフィシャルウェブサイト│蓬莱庭園 |
櫟野寺
櫟野寺【らくやじ】は、天台宗の寺院で、山号を福生山と称する。御本尊は十一面観音(櫟野観音)であるが、「甲賀三大仏」の一つとされる薬師如来像も安置されている。
櫟野寺の創建については、延暦11年(792年)に延暦寺根本中堂の用材を求めてこの地を訪れた最澄が十一面観音を安置したのが始まりと伝えられている。
延暦21年(802年)、征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂が蝦夷征討に赴いた際に、櫟野寺の十一面観音を参詣してから出陣したところ、蝦夷を平定することができたという。
それに感謝して田村麻呂は櫟野寺を祈願寺とし、大同元年(806年)に七堂伽藍を建立した上で、自ら等身大の毘沙門天像を彫刻したという。
さらに、家来に命じて相撲を奉納したという。
櫟野寺は、たびたび火災に合い、そのたびに伽藍を焼失しているが、そのつど再建もされている。
櫟野寺は延暦寺の有力末寺として、さらには甲賀六大寺の筆頭として、往時は広大な境内地を有していたと伝わる。
旧本堂は昭和43年(1968年)に焼失したが、仏像等は収蔵庫に保管されていたため無事であったという。
名 称 | 櫟野寺【らくやじ】 |
所在地 | 滋賀県甲賀市甲賀町櫟野1377 |
電 話 | 0748-88-3890 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 福生山 櫟野寺(いちいの観音) |
田村神社
田村神社【たむらじんじゃ】は、坂上田村麻呂を主祭神として祀る神社である。
創建については、西暦410年4月8日、甲可翁が天照大神を奉じて甲可日雲宮に鎮祀した倭姫命の生霊を鎮祭して高座大明神と称したのが田村神社の始まりであるという。
平安時代、坂上田村麻呂は嵯峨天皇に鈴鹿峠の悪鬼を平定するよう命じられ、たちまち悪鬼を平定した。その際、坂上田村麻呂は残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀りなさい」と言い、矢の落ちたところに本殿を建てさせたとされている。
坂上田村麻呂が亡くなった811年の翌年(812年)に、嵯峨天皇の勅によって坂上田村麻呂を祀る祭壇が鈴鹿峠の二子の峰に設けたという。そして同年、この近辺で疫病が発生したため嵯峨天皇の勅命により当社で厄除の大祈祷が行われたという。
このことが当社が「厄除の神」として崇敬されるようになったきっかけであるという。また、坂上田村麻呂が鈴鹿峠の悪鬼を討伐して交通を安全にしたことから、「交通安全の神」としても崇敬されるようになったされる。
822年4月8日に、二子の峰にあった坂上田村麻呂を祀る社を高座大明神の傍に移して高座田村大明神と称したとされる。
明治5年(1872年)に高座神社と名称を改め、さらに15年後の明治20年(1887年)4月6日に田村神社と改称したという。
田村神社において毎年2月17日~19日の3日間に執り行われる厄除大祭は特に有名である。
かつてはこの厄除大祭の初日には必ず大雪が降ることが地元では当たり前のように信じられていた。
私も甲賀に住んでいた頃に経験がある。スタットレスタイヤが普及していない頃で、通勤のために朝食後にタイヤチェーンを装着するのが億劫だった想い出がある。暖冬が続く現在ではどうなのだろうか。
名 称 | 田村神社 |
所在地 | 滋賀県甲賀市土山町北土山469 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 開運厄除・交通安全 田村神社 |
十楽寺
十楽寺【じゅうらくじ】は、浄土宗の寺院で、山号を清浄山【せいじょうざん】と称する。御本尊は阿弥陀如来である。本堂に安置されている御本尊の丈六阿弥陀如来坐像は「甲賀三大仏」の一つとされる。
文明18年(1486年)に天台宗の寂照法師【じゃくしょうほうし】によって創建されたと伝わっている。
しかしながら、天正年間(1573年~1593年)に織田信長と六角承禎との争いに巻き込まれて焼失してしまったのは残念である。
江戸時代の寛文元年(1661年)に、浄土宗の僧・広誉可厭【こうよかえん】によって再興され、本堂、庫裏、茶所が建てられたという。
名 称 | 十楽寺 |
所在地 | 滋賀県甲賀市土山町山中351 |
電 話 | 0748-68-0364 |
拝観料 | 大人500円 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 十楽寺 トップページ |
油日神社
油日神社【あぶらひじんじゃ】は、甲賀市甲賀町油日にある神社で、主祭神の油日大神【あぶらひのおおかみ】を祀っている。
油日大神は勝軍神として武士の崇敬を受け、社名から「油の火の神」としても信仰された。油日岳を神体山とする。油日岳の山頂には罔象女神【みつはのめのかみ】を祀る岳神社がある。
創建については、用明天皇または天武天皇の時代の創建と伝えられる。油日岳の山頂に「油の火のような光」とともに油日神が降臨したことから「油日」の名がついたと伝えられる。
また、聖徳太子が社殿を建立し、油日大明神を祀ったとの伝承もある。
長い歴史をもち、「甲賀の総社」として信仰され、中世には甲賀武士が軍神として崇め、信仰してきた。尚、主祭神は、油日大神であるが、罔象女神【みつはのめのかみ】(東相殿)と猿田彦神【さるたひこのかみ】(西相殿)が合祀されている。
神殿は、本殿・拝殿・楼門が一直線にならび、左右を廻廊でかこむように建てられている。これは、中世の建築様式で建てられているという。本殿・拝殿・楼門は、いずれも重要文化財になっている。
油日神社には推定樹齢が約750年と言われるコウヤマキ(高野槇)が本殿横に生育している。幹周りが6.5mで、樹高が約35mもある巨樹である。
この油日神社の高野槇は、その巨大さが全国的にも珍しいことから滋賀県指定の天然記念物となっている。
名 称 | 油日神社 |
所在地 | 滋賀県甲賀市甲賀町油日1042 |
電 話 | 0748-88-2106 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 油日神社公式ホームページ |
大鳥神社
大鳥神社【おおとりじんじゃ】は、甲賀市甲賀町鳥居野にある神社で、主祭神として素盞鳴命(スサノオ)を祀っている。そして相殿神としてスサノオの妻神である櫛名田比売【くしなだひめ】と大己貴命(=大国主命)も祀られている。
平安時代の元慶6年(882年)に、伊賀国阿拝郡河合郷篠山嶽より大原中に勧請されるが、その後鳥居野(現在地)に遷座する。
その際、神宮寺として天台宗の大原山河合寺も創建され、両者は神仏習合の下で一体化し、河合寺には子院が36院もあって、大いに栄えたという。
鎌倉時代から室町時代にかけ、近江守護の六角氏の崇敬が厚く、社名も河合社・河合祇園社・大原祇園社・牛頭大明神・牛頭天王社などと呼ばれるようになったという。
明治元年(1868年)の神仏分離令によって河合寺と分離され、河合寺は弥勒如来坐像などを櫟野寺に移して廃寺となった。
さらに令達によって旧大原荘の大の字と鳥居野の鳥の字を合わせて当社の名称は「大鳥神社」に改められたという。
大正5年(1916年)4月に、本殿のみを残して拝殿の一部、楼門、回廊、神楽殿、社務所、旧河合寺堂舎などを焼失するが、大正9年(1920年)に復興されたらしい。
毎年7月23日と24日に行われる大鳥神社の祇園祭は、その歴史は古く、応永22年(1415年)から続く例祭で、「大原ぎおん」とも呼ばれる。
すべての災いや病気の疫神を払う祭礼で、華麓さと壮観(荒々しさ)で知られている。
名 称 | 大鳥神社 |
所在地 | 滋賀県甲賀市甲賀町鳥居野782 |
電 話 | 0748-88-2008 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 滋賀県甲賀市 大鳥神社 |
信楽の里・信楽焼
日本六古窯のなかで、信楽焼は最古のものの一つとされている。土味を生かした素朴な風合いが、長い年月を超えて多くの人々に愛されて来たからだと言われている。
信楽焼の歴史は古く、鎌倉時代後期から、あるいは奈良時代の中頃に信楽に遷都した頃から始まったとも伝わる。紫香楽宮の屋根瓦を信楽で焼いたという。
付近の丘陵から掘り出される信楽の良質の陶土は、ケイ石や長石が多く混じっているという。そのため、耐火性に富み、可塑性とともに腰(粘性)が強いといわれる。信楽の陶土は、大物づくりに適し、かつ、小物づくりにおいても細工しやすいという特徴がある。釉薬を用いずに焼成すると非常に温かみのある緋色(スカーレット)が発色するという。
信楽焼は狸【タヌキ】の焼き物でも有名である。信楽に行けば、どこへ行っても狸の焼き物に出会う。なんとも愛嬌のある狸の造形であるが、実はその造形は「八相縁起」と呼ばれる縁起を体現しているものであるという(下図参照)。
「信楽=狸」というイメージが定着した理由は、昭和26年(1951年)に昭和天皇が信楽を行幸された際に、天皇陛下を歓迎するために信楽狸に小旗を持たせ沿道に延々と並べたのが全国に報道されて人々が知るきっかけになったためと言われている。
信楽狸にはいろいろなバリエーションがあるので見ていて飽きない。しかし、信楽焼は狸の置物だけでない。
信楽の陶器店に行けば、茶器や食器などの日用品の他、めだか鉢・睡蓮鉢や傘立て、植木鉢など、あらゆる製品が手に入る。私も「信楽ブルー」の海鼠釉【なまこゆう】の植木鉢(化粧鉢)を趣味のガーデニング用として愛用している。
高価なのでなかなか手が届かないが、美術品のような花瓶や壺には素人でも素晴らしいと分かる逸品が多い。
滋賀県立 陶芸の森
滋賀県立 陶芸の森は、信楽焼の産地として有名な信楽の市街地を見下ろす丘陵地(信楽高原)に、やきものを素材に創造・研修・展示など多彩な機能をもった文化施設が造られている都市公園である。
公園内に信楽焼の歴史や技法を紹介する美術館(陶芸館)、信楽産業展示館、創作研修館を備え、信楽焼の情報発信と文化・産業の振興、人材育成、文化創造の環境を提供している。
陶芸体験ができる工房や現代アートの作品が展示された広場(野外展示場「星の広場」)などもある。公園内には遊歩道も整備されており、季節が良ければ散策には最適であるので、県民のレクリエーションの場にもなっている。
名 称 | 滋賀県立 陶芸の森 |
所在地 | 滋賀県甲賀市信楽町勅旨2188-7 |
電 話 | 0748-83-0909 |
入園料 | 無料(陶芸館(美術館)のみ有料) |
開 園 | 午前9時30分~午後5時00分 休園日:毎週 月曜日 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 滋賀県立陶芸の森:やきものの里 |
信楽陶苑 たぬき村
信楽と言えばタヌキの焼物が有名であるが、信楽陶苑【しがらきとうえん】たぬき村は、本館・たぬき館・作陶館と、BBQなどができる食事処が集まるPonpoko Factoryから成る観光施設である。
本館の出入口脇には巨大なたぬきの親子三体があり、たぬき村のシンボルとなっている。
施設内には信楽焼の販売所、陶芸教室やレストランがあり、観光バスも立ち寄る人気の観光施設となっている。
たぬき村は、とにかくタヌキの置物(陶器)の種類が多いのでそれらを眺めていると全く飽きない。ちょっと見かけないようなタヌキもいて実に楽しい。
大阪の通天閣展望台にいる「ビリケンさん」にどこか似ているようなタヌキや、個人的推しの「福狸」と呼ばれる愛嬌のあるタヌキもいる。
勿論、ご当地の甲賀流忍者に扮したタヌキもいる。
コロナ禍では疫病を退散させる力を秘めた「アマビエ」に注目が集まったことがあったが、そのアマビエを手にするタヌキにたぬき村で出会うとは予期すらできなかった。
時事を取り扱ったタヌキもいる。阪神タイガースの選手とファンの皆様、改めて優勝おめでとうございます!
切りがないので、タヌキ(陶器の置物)を紹介はこれくらいにしておこう。実際に自分の眼で確かめに訪ねてほしい。思わず笑みがこぼれるはずである。
名 称 | 信楽陶苑 たぬき村 |
所在地 | 滋賀県甲賀市信楽町牧1293-2 |
電 話 | 0748-83-0126 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 信楽陶苑たぬき村 |
ミホ・ミュージアム
MIHO MUSEUM【ミホ ミュージアム】は、ルーブル美術館のガラスピラミットを手掛けた、巨匠 I・M・ペイ氏が設計した私設の美術館である。自然と一体化した建築物や世界各地の美術品を見ることができるという。
宗教法人神慈秀明会の会主であった小山美秀子氏のコレクションを展示するため、1997年11月に開館し、運営は公益財団法人秀明文化財団が行っているとされる。
この美術館(展示館)は、「桃源郷」をイメージして造られているという。建物は、建築容積の約8割が地下に埋没しており、周囲の自然景観保全に配慮した造りとなっているのだそうだ。自然と一体化した建築や世界各地の美術品が見られるのはすごいことだと思う。
コレクションは、ギリシア、ローマ、エジプト、中近東、ガンダーラ、中国、日本など、幅広い地域と時代に渡っているという。多岐に渡る優れた美術品が約2,000点も所蔵されており、常時約500点が展示されているという。コレクションには数百億円以上を要したとも言われており、日本の私設美術館のコレクションとしては有数のものであるとされる。
展示館以外にもレセプション棟、トンネルや吊り橋が建造されており、壮大なスケール感を体験できるらしい。
レセプション棟から桜並木を通ってトンネルをくぐり、その先の吊り橋の向こうに展示館が位置している。利用者の移動を助けるためと環境にあわせて、電気自動車がレセプション棟と展示館の間を往復している。
春にはトンネルから枝垂れ桜がのぞき、桜の見物スポットとしての人気が高い。私はまだ行ったことがないが、入館者で混雑しているのではなかろうか。
名 称 | ミホ・ミュージアム |
所在地 | 滋賀県甲賀市信楽町田代桃谷300 |
電 話 | 0748-82-3411 |
入場料 | 大人1,300円 |
営 業 | 営業時間:午前10時~午後5時(最終入館午後4時) 休館日:開館期間中の月曜日(祝日の場合は各翌平日) |
駐車場 | あり(無料) |
Link | MIHO MUSEUM | I.M.Pei 設計の美術館 |
あとがき
私が社会人になって初めて暮らした場所は、実は甲賀市である。当時は甲賀郡甲賀町と呼ばれていた。独身時代を甲賀で過ごしたわりには、灯台下暗しで、ほとんど甲賀のことを知らなかったのは恥ずかしい限りである。
シニアになり、会社員生活もリタイアした今、甲賀市の景勝地に興味を抱き、訪ねた所はほとんど初めての場所であったのには実に驚くと共に独身時代にも訪ねておけば良かったと少し反省している。
しかし、リタイアメント世代になったからこそ興味を抱くようになったのかも知れない。「社畜」と軽蔑されるかも知れないが、会社員時代は、趣味のように仕事が楽しかった。だから、息抜き以上の趣味や娯楽は私には必要ではなかった。そんな仕事がなくなり、それに代わる趣味を探しているのが今の私かも知れない。