はじめに
海外で、特にアメリカで忍者(NINJA)が人気らしいが、私も子供の頃は忍者物の漫画やドラマ・映画が好きだった。何故、好きだったかという単純に手裏剣や忍術が使えるカッコよさにあこがれていたからだと思う。そして今とは違って昔は忍者を主人公にしたドラマがテレビでよく放映されていた。かつて野球人気がサッカー人気よりも高かったように、単に目にする機会が多かったからだと思うが、それでも忍者のカッコよさへの憧れは特別なものであったように思う。それが現在におけるアメリカでNINJAが注目される所以ではないかと勝手に想像する。
私の好きな司馬遼太郎の著書にも忍者が登場する小説がある。例えば、『風神の門』という長編小説では、霧隠才蔵【きりがくれさいぞう】という伊賀流忍者が主人公で、忍術が得意である。真田十勇士の筆頭として甲賀流忍者の猿飛佐助も登場する。
伊賀流忍者と甲賀流忍者は、忍者の世界では二大勢力とされている。忍者の主な任務は諜報活動であり、戦時には傭兵として戦いに参加して、敵陣の攪乱工作や破壊工作などを担ったらしい。
伊賀流忍者と甲賀流忍者の里は、それぞれ現在の三重県伊賀市と滋賀県甲賀市の山間部に位置し、それぞれの領地が山を隔てて接しているように比較的近い距離にある。
漫画やドラマではよく伊賀流忍者と甲賀流忍者はライバル関係にあって、いつも敵対しているように描かれているが、それはエンターテインメントとしてのことであろう。この両者の領地の位置関係からして決して熾烈な敵対はしていなかったはずである。むしろ良好な関係を築いていたはずである。その方が両者が共存できると合理的判断が働いたに違いない。そんなことをふと考えてしまった。隣人同士は仲良くしないと住み心地が良くないことは古からの道理である。
幸いなことに、私は今、三重県の名張市で生活する時間が長くなっている。かつては名張市も伊賀国に含まれていた。そして名張市からは伊賀流忍者の里・伊賀市へも甲賀流忍者の里・甲賀市へも比較的近い。この地の利を活かして、伊賀流忍者と甲賀流忍者の両者の里を訪ね、伊賀流忍者と甲賀流忍者の虚像と実像について学び、両流派の違いについて調べてみた。
本稿は、伊賀流忍者についての記事である。甲賀流忍者については別稿で記述したい。
<目次> はじめに 伊賀流忍者の里 伊賀流忍者博物館 伊賀流忍者の歴史 伊賀流忍者の政治・組織 伊賀流忍者の得意な忍術 伊賀流忍者の流儀 忍装束 変装術 忍者の食事 忍者の携帯食 忍者の遁走術 忍者の歩法と走法 忍者の体力(指で体重を支える腕力) 忍者の使用道具 忍者特有の武器 忍者文字 甲賀流忍者との相違点 あとがき |
伊賀流忍者の里
伊賀流忍者博物館
伊賀流忍者の里である伊賀市内には伊賀流忍者博物館がある。まずはそこを訪ねて伊賀流忍者について学ぶことにした。
伊賀流忍者博物館は、伊賀流忍者に関する博物館である。伊賀流忍者の歴史や実際の活動について解明された事実について学ぶことができる。
この博物館では伊賀流忍者の歴史や実際の活動について解明された事実について学ぶことができる。
館内には、伊賀流忍者が実際に使用されたとされる武器や道具、忍術書などが展示されている。
また、伊賀流忍者の実演ショーも行われており、忍者気分を味わうことができるということで人気を博している。
名 称 | 伊賀流忍者博物館 |
所在地 | 三重県伊賀市上野丸之内117(上野公園内) |
入館料 | 大人800円 |
Link | 伊賀流忍者博物館 | 忍者屋敷 伊賀流忍者博物館 – 伊賀上野観光協会 |
伊賀流忍者の歴史
忍者とは「忍術を使う人」であるが、忍術の起源には諸説があって、実のところ始祖は意外にも明確には分かっていないらしい。
一説によると、聖徳太子(厩戸皇子【うまやどのみこ】)に仕えた大伴細入【おおとものさいにゅう】という人物が、その働きから最初の忍者であったとも伝えられている。しかし、史料が少ないために伝説の域を出ないらしい。
さて、伊賀流忍者の起源については、現時点での見解では、鎌倉時代に荘園の中で発生した「悪党」に起源を求めるのが現実的とされている。
伊賀国(現在の三重県伊賀市と名張市)には奈良時代以降、東大寺や興福寺などの多くの荘園があり、荘園に対して反抗的な行動をとった土着の地主は「伊賀惣国一揆」の首謀者として「悪党」と呼ばれた。勿論、荘園領主の立場から見た土着地主たちへの呼び名であって、立場が違えばどちらが本来の悪党(本当に悪い奴ら)であるかは分かったものではない。
その悪党と呼ばれた人たちは、荘園領主に対して奇襲や撹乱などの戦法を駆使して戦ったとされる。悪党の中には、修験道と関わりをもった者もいて、そこで「山伏の戦法」を学び、先達【せんだつ】(修行のために山に入る際の指導者・案内人)として各地を巡る際に情報収集を行ったと考えられている。
伊賀上忍御三家の一つとされる百地氏も、元々はその「悪党」であった大江氏の一派と考えられている。大江氏の一族が大峰山で修行したという記録が残っているらしい。それに伊賀周辺には、笠置山や赤目四十八滝など修験の場として使われた地が多い。
室町時代に入り、荘園領主が衰退していくなかで「悪党」の活動は徐々に消失していくが、今度は悪党の血を引く「地侍」【じざむらい】が頭角をあらわしてきたという。
戦国時代には、彼らは「伊賀衆」【いがしゅう】と呼ばれ、畿内の戦国大名に傭兵【ようへい】として従軍し、京都、奈良、滋賀や和歌山へと出陣していたことが明らかになっている。
伊賀衆の戦術は夜襲や密かに忍び入り、火を放つことが中心であったと記されているらしい。この頃から伊賀衆は「忍び」と呼ばれるようになったとされる。
天正9年(1581年)の「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長が率いる5万の大軍によって伊賀全土が焼き払われ、大人子ども関係なく殺戮されたという。伊賀衆は最後まで抵抗を続けたが、和議が成立し、降伏した。この乱で伊賀地域は壊滅的な打撃を受け、「伊賀の忍び」は諸国に離散したという。
織田信長が明智光秀の謀反で倒された「本能寺の変」以降は、伊賀衆は徳川家康に仕えるようになった。そのきっかけは、「本能寺の変」の際、徳川家康が堺から三河の国へ逃げ延びる際に服部半蔵ら(服部家も伊賀上忍御三家の一つ)に守られて難を逃れた出来事(「神君伊賀越え」と呼ばれる)であるとされる。
江戸時代に伊賀国が藤堂家(津藩)の治世になると、「忍び」と呼ばれた人々の子孫は「伊賀者」として、参勤交代の際の藩主の護衛役や国内の情報収集の任にあたったらしい。
また、「無足人」【むそくにん】という農兵(準士分の上層農民)として帯刀が許され、各村の自治を任されたりしたという。このことから「伊賀の忍者」は武士のような待遇であったと考えられている。
忍術の百科事典といわれる『萬川集海』を著した藤林氏(伊賀上忍御三家の一つ)も地侍の家系で、江戸時代になって「伊賀者」として上野の城下町に住まいを移したとされる。
他にも、商人などに職を変えた忍びの末裔は、城下町に住んだとされる。そのため先人の知恵の結晶である忍術伝書は、現在も伊賀の旧家では大切にしているところもあるという。
忍者の社会
伊賀流忍者の政治・組織
伊賀流忍者(伊賀の忍者集団)の社会には、上忍と下忍という上下関係(身分制度)があり、意思決定権は「伊賀上忍御三家」が握っていたとされる。
伊賀上忍御三家とは、百地氏、藤林氏、服部氏の三家のことである。つまり、上忍の家系がその特権(上下関係)を持って下忍を独占していたようである。中でも伊賀上忍御三家が伊賀の忍者集団の中で絶大な権力を握っていたとされる。その他の家の忍者たちは、御三家の意見を聞き入れることが多かったという。
伊賀上忍御三家の一つ、百地家は、物語で有名な百地三太夫【ももちさんだゆう】を輩出した家系であるとされるが、百地三太夫は架空の人物であったらしい。織田信長に抵抗した伊賀国の武士として知られているは百地丹波【ももちたんば】(本名は百地丹波守正西)がモデルではないかとされる。
藤林氏も伊賀上忍御三家の一つで、子孫の藤林保武は今に忍者の姿を伝える貴重な資料と呼ばれる『万川集海』を著している。
最後に服部氏である。服部氏と言えば、言うまでもなく全国的に知名度の高い、服部半蔵【はっとりはんぞう】を輩出した家系である。
忍者の技術
伊賀流忍者の得意な忍術
伊賀流忍者の得意な忍術は、催眠術や手品なども含む呪術と、火薬玉を使って自分の姿を隠す火遁の術と言われている。
代表的な呪術は九字護身法であるとされる。九字護身法は、「印明護身法」と「十字の秘術」とともに用いられたようだ。
印明護身法は、「浄三業」や「蓮華印」など5種類の印を結び呪文を唱えるものである。一方、十字の秘術は天・龍・虎など十の文字を手のひらに書いて飲んだり握ったりするという。
これらの忍術は、テレビドラマや映画で見る分には非常に恰好が良くて、十分に楽しめるが、詳細を文字で説明されても全く理解できないものである。
これら呪術は、術者自身の「自己の精神統一」を促し、強烈な自己暗示をかけて自らの極限の力を出せるようにしたものだと理解されている。ある一定以上の身体能力に優れた者でないと凡人ではまねができなかっただろうと思う。凡人がやってもギャグにしか見えないだろう。お笑い芸人がやれば受けるだろうが、身体能力に優れた達人でなければ、発揮できなかった忍術であったということである、
伊賀流忍者は、火術も得意としたらしい。ピンチに陥った忍者が火薬玉を爆発させて煙とともに消える(逃げる)、すなわち「火遁の術」【かとんのじゅつ】は忍者の遁走術の常套手段として私たちには刷り込まれている。
このような火術は伊賀流忍者が最も得意としていたらしい。火薬玉のほかには、火矢や狼煙、ほうり火矢や埋め火・さらには鉄砲など火を操る術に伊賀流忍者はたけていたということである。
火薬や火による攻撃は恐怖やダメージを相手に与える。伊賀流忍者が皆に恐れられた理由はこの火術にたけていたことが理由かも知れない。
伊賀流忍者が火術に精通していた理由は、伊賀の地が火薬の材料が周囲から入手しやすい土地柄であり、火薬に詳しい人物が多かったために発達したとされている。
伊賀流忍術において、火薬の調合方法は秘伝中の秘伝(家伝)であったとされる。
伊賀流忍者の流儀
忍者集団と依頼者との関係は現代のビジネスに似ているとされる。例えば、戦国大名などの権力者が依頼人であった場合、伊賀上忍御三家が意思決定し、下忍を傭兵として派遣し、依頼人との間でWin-Winの関係を築いていたとされる。
面白いのは、例えば、戦さなどで敵対する双方の大名から依頼があった場合には、双方の依頼にも応えていたことである。そうするとどうなるかは火を見るより明らかである。伊賀忍者同士でも戦いを繰り広げることも特別なことではなかったようである。本当に殺しあうことはなかったと思いたい。
また、戦国時代の伊賀忍者は、歴史上では織田信長との仲は険悪で、徳川家康との仲は良好とされている。
その理由は、伊賀の忍者集団と織田信長は、「天正伊賀の乱」で2度ばかり争いを繰り広げているからである。最初の戦いでは伊賀忍者たちが織田軍への奇襲に成功し、織田軍を敗走へと追い込み、勝利している。しかし2度目の戦では、織田信長自らが伊賀の里に大軍で攻め込み、ほぼ壊滅状態にまで追い込んでいる。
織田信長が「本能寺の変」が倒れて以降は、伊賀の忍者集団は徳川家康に仕えるようになる。そのきっかけとなったのは、「本能寺の変」後であり、窮地の徳川家康が旅先の堺から本拠地の三河国へ逃げ延びる際に、服部半蔵らに守られて難を逃れた、いわゆる「神君伊賀越え」と呼ばれる歴史上の出来事があったからだとされる。
忍装束
忍者は普段家にいる時には一般の武士と同じ服装をしていたようだが、敵の状態を探りに忍びに出かけていく時は、身軽で目立たないように忍装束【しのびしょうぞく】を身に着けていたとされる。
忍装束は、テレビドラマや映画などではよく黒の忍装束が見られるが、実は真っ黒ではなかったらしい。黒の忍装束では、月明かりで輪郭が浮き出てしまうからである。派手な赤やピンクの派手な忍装束はテレビドラマや映画だけの世界であって、現実性は皆無である。
伊賀流忍者の実際の忍装束は、クレ染めの濃紺が主流であったという。この紺染めは、まむし除けの機能も果たしていたとされるから機能的であったと言える。
忍装束は、元々は伊賀地方の農民の服装に覆面をしたもので、夜に活動するときに着用したという。闇にまぎれる服装として適していたということである。
一方、甲賀流忍者の忍装束は、表が茶染・柿染などの茶系統の色で、裏が黒かネズミ色の着物を着ていたとされる。
この上着の内側には物入れが作られていて、そこにはシコロという小さな両刃の鋸や三尺手拭などの細長い物を入れ、胸のところには銅製の鏡や渋紙・油紙・和紙などを入れ、防弾の役割もさせたという。
身に付けるもの全てが敵の攻撃からの防御と、同時に攻撃の道具になるように、さまざまな工夫がなされていたという。常に合理性を追求した忍者の知恵が忍装束(衣装)一つを見ても感じとられるのは非常に興味深いことである。
変装術
忍者の衣装には忍装束の他にも、情報収集のために出掛けるときの七方出【しちほうで】という変装術用の衣装がある。
ただ変装するだけではなく、尺八を覚えたり、お経や呪術も学んで、ときには方言までも習得するなど、怪しまれないためのいろいろな工夫や鍛錬に努めていたという。
忍者の変装術「七方出」
商人 |
怪しまれることが少なく、品物を売り歩きながら 情報を収集できた。 |
放下師【ほうかし】 |
現在の手品師のこと。敵を油断させるのに都合がよかった。 |
虚無僧 |
編み笠をかぶっているので、顔を隠すことができた。 |
出家 |
お坊さんのことで、怪しまれにくく、 托鉢をしながら情報を集めた。 |
山伏 |
出家と同じように、人に怪しまれることが少なかった。 |
猿楽師 |
能役者のことで民衆に人気があった。また猿楽の好きな大名に招かれることもあり、敵城内を探ることもできた。 |
常型 |
表が普段の服装で、裏が別物の装束のこと。リバーシブルの着物で、いざというときには着替えて敵の目をごまかしたという。 |
これらの七方出のほかにも、連歌師や琵琶法師、薬売りなどにも変装していたという。
忍者の食事
普段の食事は、アワ・ヒエ・玄米・麦などの穀物やイモ類と野菜を中心にした食事であったらしい。
シイ、クワ、グミ、トチ、クリ、カヤなどの木の実やウズラの卵なども食していたという。これは、敵の屋敷に忍び込む時、居場所を悟られないように体臭に繋がる匂いの強い食材は食べないように気をつけていたからだという。ここにも合理性がある。
ただし、食べたい食事を一切断ち切っていたわけではなく、体力をつけるために肉や魚を食べることもあったらしい。合理的な判断が栄養管理においてもなされている。今日流行のダイエットにも忍者の知恵を生かさない手はない。
忍者の携帯食
当時の主な携帯食である干し飯などの他に、下記のような忍者特有の携帯食もあったという。
水渇丸(のどの渇きを抑えるための携帯食) |
梅肉を叩いた物に麦角(イネ科に寄生する菌)と砕いた氷砂糖を加えて丸薬にしたもの。 |
飢渇丸(飢えをしのぐための携帯食) |
人参、そば粉、小麦粉、山芋、甘草、はと麦、もち米を粉末にして、酒に3年浸す。 酒が乾いたらモモの種ぐらいに丸めて丸薬状にしたもの。 |
非常食として現代の登山の際にも使えそうなものである。
忍者の遁走術
忍術は武術ではないから、人と交戦することは最後の手段で、そのための護身術として手裏剣や武器を使用したという。
忍者の使命は諜報活動、つまり情報を持ち帰ることを仕事としていたので逃げ延びる忍術が多種多様にあったという。中でも有名な遁走術としては下記のようなものがあったと伝わっている。
火遁の術 |
火事や火薬(ほうり火矢・埋め火・爆竹)を使って敵を混乱させ、そのすきをついて逃げる。テレビドラマや映画で、よく目にする遁走術の代表格である。 |
水遁の術 |
水の中に姿を隠す。テレビドラマや映画で、忍者が城の堀池に身を隠して近づき、そこから城壁を駆け登り、城内に忍び込むシーンがある。 |
煙遁の術 |
煙玉を爆発させて煙幕をはる。この忍術もテレビドラマや映画で、よく目にする遁走術の代表格の一つである。 |
金遁の術 |
撒き菱や、手裏剣を使った逃げ方である。撒き菱は、当時の主流の履物であった草履には有効であったと推察される。 |
隠形術 |
草叢【くさむら】に隠れたり(木の葉隠れ)、物陰に隠れる(観音隠れ)、石に擬態する(ウズラ隠れ)などの隠遁術を指す。私は「木の葉隠れ」は木の葉が舞う間に隠遁する忍術だとばかり思っていたが、実際はそうではなかった。私のイメージは漫画の世界での忍術であったということである。 |
忍者の歩法と走法
忍者の諜報活動は、情報の収集と伝達が主であるから忍び込むためのひっそり歩く技術と、得た情報をいち早く伝えるための走力を必要とした。
歩くための代表的な忍術として、下記の5つが伝わっている。
忍び足 |
音を立てないよう足の小指から徐々に体重をおろして歩く方法を指す。現在でも「物音を立てずにゆっくりと歩くこと」を「忍び足」と呼ぶことがある。 |
浮足 |
つま先から足を下ろす。 |
犬走 |
立って歩けないところを四つんばいで歩く。 |
狐走 |
音を全くたてずに、立って歩けないところをつま先を立てた四つんばいで歩く。 |
深草兎歩 |
音を全くたてずに、手の上に足を乗せて歩く。 |
速く走れなければ、忍者にはなれなかったらしい。「韋駄天」と呼ばれる足の速い忍者の場合は、一日に50里(約200km)を走ることができたとされる。2022年24時間テレビのチャリティーマラソンの距離は100kmであったが、その2倍の距離を走っていたというのだから驚きである。
二重息吹という呼吸法、つまり「吸う、吐く、吐く、吸う、吐く、吸う、吸う、吐く」のリズムで呼吸を繰り返すと酸素の摂取量も増え、余計なことを考えず集中して走ることができるとされているが、それだけで速く走れるわけがない。
忍者の歩法と走法は、日々のたゆまぬ努力と訓練によって達成できたのだろう。私には到底無理であり、この走るという訓練だけでも私は忍者には決してなりたくない。なりたいと願ったところで、なれはしないとは思うが・・・
忍者の体力(指で体重を支える腕力)
忍者は天井裏での活動が多いため、日頃から指を鍛えていたという。自分の体を持ち上げたり、天井にぶら下がったりするためである。
忍者はその訓練のために米俵を使っていたとされている。その米俵は約60kgであったとされるから、自分の体重は60kg以下であった可能性が高い。
体重が70kg以上もある忍者はさらに重い米俵を使っていたのだろうか? 当時、そんなデブの忍者はいなかっただろう。
忍者の使用道具
忍者の代表的な武器は手裏剣であるが、そんなモノを持ち歩いていて途中身体検査をされたら正体がばれる恐れがある。だから実際には手裏剣は必要な時以外は持ち歩いていなかったらしい。
では、手裏剣の代わりに何をもっていたかというと、持ち歩いてもあやしまれない武器(=農具)を使用していたという。代表的なものとして下記のようなものが知られている。
鎌 |
草刈りや稲刈りに使用する農具であるが、切りつけたりできる武器になる。あるいは4個の鎌の柄の部分を重ねて紐で縛り、それに長い紐をつけて高いところに引っ掛ければそれをつたってよじ登ることができる。 |
手棒 |
稲からお米をとる脱穀道具であるが、ヌンチャクのように振り回すと武器になる。 |
五徳 |
熱した鉄瓶を乗せるものであるが、足を取り外側を削って手裏剣代わりとすれば武器になる。 |
火箸 |
炭を持つ道具であるが、振り回したり、投げつければ武器となる。 |
龍た(吨) |
井戸に落とした物を引き上げる道具であるが、敵を引っ掛ける武器になる。 |
足鉤 |
滑りやすいところを歩く道具であるが、敵を蹴ったり、踏んだりすると武器として使える。 |
萬刀 |
植木挟みであるが、ふりまわせば武器として使える。 |
角指/手かぎ |
稲刈りや草刈りに使用する農具の一種であるが、手にはめて攻撃用の武器にすることができる。 |
苦無 |
土を掘る道具 |
坪錐 |
土塀に穴をあける道具 |
しころ |
木を切る道具 |
忍者特有の武器
手裏剣
忍者の代表的な武器は言えば、手裏剣【しゅりけん】である。幼い頃に流行った忍者遊びにはおもちゃの手裏剣は外せなかった。
手裏剣には、平型手裏剣や棒状手裏剣がある。その形状はいろいろで、四、五、六、七、八角形とさまざまな種類がある。
また、刃先は短くそれ自体に殺傷能力はないが、刃先に毒を塗るなど工夫を凝らせて、殺傷能力を高めたという。ただし、持ち歩くと怪しまれるので、五寸釘や縫い針で代用したという話もある。
吹き矢
扉の隙間から吹き口を出して利用するなど、姿を隠して行動する忍者にとっては適切な武器だったらしい。通常は狩りなどで吹き矢が使われていたが、吹き筒は長くて持ち歩くと怪しまれるので、笛などを利用していたという。
針
衣類を繕う以外にも、針を火で焼いて水に浮かべて磁石にしたり(方角を知るため)、吹き矢などといった攻撃用に用いたという。怪しまれずに持つこともできるので、忍者には好都合な道具だったらしい。
捲き菱
逃げる時に追手が来る道にまいて、追手をはばむのに用いたという。当時は草鞋【わらじ】を履いていたので効果があったようである。
忍者文字
忍者が手紙(密書)を書く時、誰かに見られても分からないように、仲間同士にしか通用しない特殊な文字を使っていたという。
忍者文字は、一種の暗号文のようなものである。忍者同士が使用した文字として忍びイロハや神代文字が知られている。
甲賀流忍者との相違点
伊賀流忍者と甲賀流忍者の相違点は何かについて考察したとき、両者の違いは主として次の3点に集約できるのではないだろうか。
- ビジネススタイル
- 組織構造
- 得意な忍術
ビジネススタイルについては、伊賀流忍者は仕事の依頼主に忠実であるが、仕事の依頼主が変われば敵対することもある。つまり依頼主ありきのビジネススタイルで、言わばドライな関係を依頼主とかわしていると言えよう。
一方、甲賀流忍者は1人の主君にのみ仕えるというビジネススタイルで、主従関係が強いと言える。そのため忠誠心は伊賀流忍者よりも相対的に強いが、その主君が没落してしまった場合には自身の仕事も同時に失うことになる。
組織構造については、伊賀流忍者には上忍・下忍をはじめとする上下関係が明確に存在し、上位者の命令は絶対的なものがある。特に意思決定に際しては、伊賀流忍者の社会では御三家の意思決定が重視されていた。
一方、甲賀流忍者の場合は「惣」が存在するが、全員がほぼ対等の立場で参加でき、多数決の合議制で意思決定がなされていた。封建時代にあって早くから民主的な社会が築かれていたとは驚きである。
得意な忍術については、伊賀流忍者は「火遁の術」と「呪術」が得意であり、甲賀流忍者は「医療」、「毒薬」や「手妻による幻惑術」が得意であったとされる。忍術と特徴としては、伊賀流忍術は「派手」であり、甲賀流忍術は「地味」であったと言えるかも知れない。しかし、地味な忍術の方が不気味であると言える。
今でも甲賀流忍者の里である甲賀市甲賀町には地場産業として医薬品会社(製薬会社)が多いのもその名残かも知れない。
あとがき
伊賀流忍者と甲賀流忍者はお互いが忍者(忍び)であるがゆえに、いろんな作品で対立しているように描かれている。それは敵対している方がエンターテイメントとして楽しめるからに他ならない。
事実としての伊賀流忍者と甲賀流忍者の関係は、比較的良好であったと伝えられている。合理的思考が得意な彼らは、同じ忍びとして対立することは双方にとって不利益であると互いに考えていたに違いない。
名張市の代表的な観光スポットである赤目四十八滝は、かつて伊賀流忍者たちの修行の場であったとされる場所である。名張市だけでなく、伊賀市を含めた伊賀の国には伊賀流忍者ゆかりの史跡や神社仏閣が多く存在している。機会を見つけ、それらの史跡を巡ってみたいものである。