はじめに
姫路城【ひめじじょう】は、兵庫県姫路市にある歴史的な城で、別名で白鷺城【しらさぎじょう】とも呼ばれている。
姫路城の始まりは、1333年に赤松則村が姫山に砦を築いたことに始まるとされ、1346年に赤松貞範が本格的な城を築いた。
戦国時代には、黒田孝高(官兵衛)が城主となり、1580年には羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が城を受け継ぎ、三層の天守を築いたと伝わっている。
1600年の関ヶ原の戦いの後、池田輝政が姫路城主となり、1609年に現在の五層七階の連立式天守を完成させたと伝わる。
江戸時代には、本多忠政が城主となり、西の丸や三の丸を増築し、現在の姫路城の形態が完成したとされる。その後、松平氏、榊原氏、酒井氏などが城主を務めたが、戦塵にまみれることなく今日に至っているためほぼ当時のままの姿で残っている。
明治7年(1874年)の廃城令により姫路城は廃城となり、取り壊しの計画もあったが、中村重遠大佐の尽力により保存されたのは幸いというしかない。
1956年から1964年にかけて、天守の大規模な修理(昭和の大修理)が行われた。この大修理は、姫路城の保存と修復を目的としたもので、特に大天守の解体修理が行われた。また、2009年から2015年にかけて行われた修理(平成の大修理)では、外壁の漆喰の塗り替えや屋根瓦の葺き替え、耐震補強が行われた。
姫路城は、1993年にユネスコの世界文化遺産に登録されており、その美しい外観と歴史的価値で訪れる私たちを魅了する。
姫路城
姫路城の大天守は、白漆喰で塗られた美しい外観から別名、白鷺城【しらさぎじょう】とも呼ばれる。そんな美しい白亜の五層七階建ての天守は、国宝に指定されている。最上階からは姫路市内を一望することができる。
西の丸は、千姫が住んでいた場所で、長い廊下「百間廊下」が特徴である。ここからは天守の美しい姿を眺めることができる。
菱の門は、姫路城の主要な門の一つで、安土桃山時代の様式を残している。門の上部には菱の紋が彫られており、その名の由来となっている。
扇の勾配は、姫路城の石垣の一部で、その美しい曲線が扇の形に似ていることから名付けられたという。この石垣は防御のために設計されており、その技術の高さが伺える。
お菊井戸は、播州皿屋敷の伝説に登場する井戸で、お菊が投げ込まれたとされる場所である。
名 称 | 姫路城 |
所在地 | 兵庫県姫路市本町68 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | 姫路城公式サイト (himeji.lg.jp) |
あとがき
池田輝政(1565~1613)は、関ヶ原の戦いの功績により、徳川家康から姫路藩を与えられた。輝政は1601年から1609年にかけて、姫路城の大規模な改修を行い、現在の五重七階の連立式天守を完成させた。この改修により、姫路城はその美しい姿と堅固な防御力を兼ね備えた城郭となったと言われている。
尚、姫路城は「難攻不落の城」と称されているが、実際に戦いに使用されたことがなく、戦争時にも攻防戦が回避され、無血開城が行われている。つまり「難攻不落」が証明されていない城ではあるが、そのおかげで美しい天守が無傷で現存しているのは喜ばしいことである。
輝政は城下町の整備にも力を入れ、加古川の流域の改修工事や都市開発を積極的に推進したという。これにより、姫路は経済的にも文化的にも発展し、重要な拠点となったと言われている。
このように池田輝政の尽力で、姫路城は現在の美しい姿を持つ城郭として完成し、その後の歴史においても重要な役割を果たす城として存続したと伝わっている。池田輝政は、姫路城の歴史において非常に重要な人物であることに疑いの余地はない。