はじめに
岡城跡【おかじょうあと】は、大分県竹田市に位置する歴史的な山城である。岡城は1185年に、源義経を迎えるために緒方惟栄【おがたこれよし】によって築かれたと伝えられている。その後、1369年に志賀貞朝【しがさだとも】が城を修復・拡張し、志賀氏の居城となった。
1586年の豊薩戦争では、島津氏の大軍が岡城を攻撃したが、城主の志賀親次【しがちかつぐ】がこれを撃退し、「難攻不落の城」としてその名を広めたという。
1594年に中川秀成【なかがわひでしげ】が岡城の城主となり、大規模な改修を行い、それ以降、「石垣の名城」として知られるようになったと言われている。
江戸時代を通じて中川氏が城主を務め、城は度重なる火災や災害によって被害を受けるが、その都度、復旧されてきた。
明治7年(1874年)の廃城令により城は廃止され、建造物は取り壊されたという。明治34年(1901年)には、作曲家の滝廉太郎が「荒城の月」を作曲し、岡城の荒廃した姿を歌にしたという。
昭和11年(1936年)に、国の史跡に指定され、岡城跡は現在もその壮大な石垣が残り、訪れる私たちに歴史の重みを感じさせてくれる。
岡城跡
岡城跡【おかじょうあと】は、大分県竹田市に位置する歴史的な城跡である。岡城は、1185年に源義経を迎えるために築かれたと伝えられている。歴史の古い城であることが分かる。その後、南北朝期から戦国期までは志賀氏の支配下にあり、江戸時代には中川氏の居城として重要な役割を果たしたと伝わる。
岡城は、阿蘇山の火砕流でできた海抜325mの岩山の上に建てられた山城で、断崖絶壁の立地と壮大な石垣が特徴である。特に、この高石垣は「難攻不落」と呼ばれた岡城を象徴している。
岡城跡には、城内を巡る散策コースがあり、歴史的な遺構や美しい自然を楽しみながら散策ができる。天候が良ければ、岡城跡から阿蘇山やくじゅう連山を望むこともできる。
岡城跡は、四季折々の美しい景色を楽しむことができるようである。桜や紅葉の名所としても知られており、訪れる私たちの目を楽しませてくれる。
もし、秋の紅葉の季節に岡城跡を訪れるのであれば、紅葉と石垣の組み合わせで写真撮影すると、季節感あふれる一枚となるかも知れない。
岡城は、瀧廉太郎が名曲「荒城の月」の着想を得た場所としても知られている。この曲は、岡城の美しい景観と歴史的背景を反映している。つまり、「荒城の月」は、明治維新後の廃城令で取り壊された岡城がモデルとなったとされている。
幼少期を大分県竹田市で過ごした若き天才作曲家・瀧廉太郎は、若干22歳で「荒城の月」を作曲したと言われている。
名 称 | 岡城跡 |
所在地 | 大分県竹田市大字竹田2889 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 国指定史跡 岡城跡 – 大分県竹田市 |
あとがき
瀧廉太郎【たき れんたろう】は、明治時代の日本の作曲家で、クラシック音楽や童謡、唱歌の分野で活躍した人物である。
瀧廉太郎は、1879年8月24日、東京府東京市芝区南佐久間町(現在の東京都港区西新橋)で生まれた。幼少期に多くの転校を経験し、最終的に東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に入学した。そして、ここでピアノや作曲を学んだという。
瀧廉太郎の有名な代表作には、「荒城の月」「花」「箱根八里」などがある。特に「荒城の月」は、岡城跡の荒廃した姿にインスピレーションを受けて作曲したとされている。
1901年にドイツのライプツィヒ音楽院に留学したが、肺結核を患い、わずか5ヶ月で帰国を余儀なくされた。帰国後は大分県で療養生活を送っていたが、1903年6月29日に23歳の若さで亡くなった。瀧廉太郎の生涯は短かったものの、彼の作品は今もなお多くの人々の心に響き、日本の音楽史にも大きな影響を与えている。