はじめに
竹田城は、兵庫県朝来市に位置する山城で、標高353.7mの山頂に築かれている。竹田城は、嘉吉年間(1441年~1443年)に但馬守護の山名宗全によって築かれた城とされる。初代城主は家臣の太田垣光景で、その後7代にわたって太田垣氏が城主を務めたという。
1580年、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の但馬攻めにより、竹田城は落城し、太田垣氏は没落した。その後、羽柴秀長や桑山重晴が城主を務めたという。
1585年、赤松広秀が竹田城の城主となり、現在に残る石垣遺構を整備したと言われている。広秀は「仁政の主君」として領民から慕われ、養蚕業や漆器産業を奨励し、地場産業の礎を築いたと伝わっている。
1600年の関ヶ原の戦いでは、赤松広秀は西軍に与し、丹後田辺城攻めに加勢したが、西軍の敗北後に竹田城に撤退した。その後、鳥取城攻めの際に城下町を放火した罪で自刃させられ、竹田城も廃城となっている。
竹田城址
竹田城址は、兵庫県朝来市にある歴史的な城跡で、「天空の城」として知られている。竹田城は、山名宗全が築かせたと伝わり、家臣の太田垣氏が代々城主を務め、赤松広秀が最後の城主となったと伝わっている。赤松広秀の突然の切腹によって廃城となったという歴史が残されている。
竹田城址は、秋から冬にかけての早朝に発生する雲海の中に浮かぶ姿が幻想的で美しいとされている。この光景は「日本のマチュピチュ」とも呼ばれ、私たち多くの観光客を魅了している。
竹田城址の石垣は、自然石を巧みに配置したもので、その豪壮な石垣の城郭は全国屈指の威容を誇っていると高く評価されているものである。江戸時代以前のものがそのまま残っており、特に野面積みや算木積みといった技法が見られる。これらの石垣は、自然石をほとんど加工せずに積み上げたもので、美しく耐久性が高いのが特徴であるとされる。
竹田城址は、四季折々の美しさを楽しむことができるという。春には桜が咲き誇り、夏には緑が鮮やかに、秋には紅葉が美しく、冬には雪化粧をした姿が見られるらしい。しかしながら、折角、訪れるなら秋から冬にかけての早朝に発生する雲海の中に浮かぶ竹田城跡を撮影したいと思うのが人情というものである。雲海が発生する時間帯を狙って、早朝に訪れる人の数はやはり多い。
名 称 | 竹田城址 |
所在地 | 兵庫県朝来市和田山町竹田 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 竹田城跡|朝来市観光協会 |
あとがき
赤松広秀(斎村政広)は、竹田城の歴史において非常に重要な人物である。赤松広秀は、1585年に竹田城の城主に任命され、豊臣秀吉の命を受けて竹田城の大規模な改修を行い、現在に残る総石垣の城郭を築いたとされる。広秀は、竹田城の石垣を築くために現地で石を調達し、滑車を使って人力で石を引き上げるなどの工夫を凝らしたという。
赤松広秀は、関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めたが、西軍の敗北後に竹田城に帰還した。その後、鳥取城攻めの際に城下町を放火した罪で徳川家康の命により切腹を命じられた。広秀の死後、竹田城は廃城となった。つまり、赤松広秀は竹田城の最後の城主でもある。