はじめに
穏やかな瀬戸内海を眺めながらの旅は本当に癒される。同じ場所に滞在し、ゆっくりと瀬戸内海を眺めるのも良い。しかし、鞆の浦や仙酔島などで有名な福山と、千光寺や天寧寺で有名な尾道への旅に、しまなみ海道へのドライブを加えた旅は転地効果が抜群に高くなる。それは私自身の経験で実証済みである。
本稿は、そんな旅を私が撮影した写真で紹介したものである。
<目次> はじめに 福山 鞆の浦 弁天島 仙酔島 磐台寺観音堂 ばら公園 尾道 千光寺公園 千光寺 天寧寺 潮聲山耕三寺 瀬戸内しまなみ海道 新尾道大橋 因島大橋 因島水軍城 生口橋 多々羅大橋 大三島橋 伯方大島大橋 来島海峡大橋 亀老山展望公園 あとがき |
福山
福山市は、広島県東部に位置する人口約46万人の都市である。福山城が新幹線の駅から見えることでも有名である。
福山市にある「鞆の浦」は、古くから潮待ちの港として栄えた場所である。また無人島「仙酔島」は、瀬戸内海国立公園を代表する景勝地の一つである。
鞆の浦
鞆の浦【とものうら】は、福山駅から南へ14kmの瀬戸内海沿岸のほぼ中央に位置する。古くから「潮待ちの港」として栄え、瀬戸内海国立公園を代表する景勝地の1つとなっている。
「潮待ち」とは、潮流を利用して航行する船が潮流の向きが変わるのを待つことを意味する。
潮待ちの港として栄えた鞆の浦には古い土壁のつづく路地や情緒ある家並、昔の土蔵などがその当時のおもかげが残されている。
江戸時代には北前船の寄港地としても栄え、朝鮮通信使も幕府の慶賀などのために度々寄港したという。迎賓の場所として福禅寺が使われたようで、福禅寺本堂隣の「対潮楼」は1690年頃に客殿として建てられ、賓客の宿舎として使われたという。
座敷からは弁天島や瀬戸内海の絶景が眺められる。
朝鮮通信使であった李邦彦が鞆の浦の景色を眺めて「日東第一形勝」(朝鮮より東で一番美しい景勝地)と称賛したという話が残されている。
鞆の浦は国内外との交易で栄えた港であり、歴史的に名高い旧跡や遺構も多く残されている。幕末に坂本龍馬が乗船した「いろは丸」が紀州藩の軍艦「明光丸」と鞆の浦沖で衝突し、坂本龍馬と龍馬率いる海援隊が鞆の浦に上陸して賠償交渉を行ったという史跡もある。坂本龍馬が隠れ潜んだ部屋も公開されている。
名 称 | 鞆の浦 |
所在地 | 広島県福山市鞆の浦 |
Link | 鞆の浦(とものうら) – 福山市HP |
弁天島
弁天島【べんてんじま】は、鞆港と仙酔島【せんすいじま】との中間に位置する無人島である。鞆の浦から望む代表的な景観になっている。
鞆港から船で仙酔島へ渡る際には進行方向の右手に弁天島を見ることができる。一般観光客は弁天島へは渡れない。
仙酔島
仙酔島【せんすいじま】は、鞆の浦から船で5分のところに浮かぶ無人島であり、瀬戸内海国立公園を代表する景勝地でもある。
仙酔島には仙人が住んでいたという伝説があり、「仙人が酔う程に美しい島」というのが島の名前の由来と言われている。
江戸時代の学者・頼山陽は、仙酔島や瀬戸内海の美しさを見て「山紫水明」という言葉を生み出したと伝わる。
仙酔島の南側の海岸線沿いには、「五色岩」と呼ばれる、青・赤・黄・白・黒の5色の岩が200m以上続いている、全国でも珍しい貴重な岩場がある。
島内には、宿泊施設、海水浴場やキャンプ場がある他、ハイキングコースも整備されているので天候が良ければアウトドアの娯楽に最適な場所となる。
名 称 | 仙酔島 |
所在地 | 広島県福山市鞆町後地 |
Link | 仙酔島(せんすいじま) – 福山市HP |
磐台寺観音堂
磐台寺観音堂【ばんだいじかんのんどう】は、付近の航海の安全を祈願するために、石造十一面観音像を本尊に祀り、992年に創建されたお堂である。
本尊は、瀬戸内海に面する阿伏兎岬【あぶとみさき】で祀られているので阿伏兎観音【あぶとかんのん】とも呼ばれる。
朱塗りの観音堂は、は毛利輝元によって創建されたもので、国の重要文化財に指定されている。
磐台寺観音堂は、瀬戸内海に映える素晴らしい景観として広く知られている。昔から航海の安全、子授け・安産の祈願所としても有名である。
磐台寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、瀬戸内三十三観音霊場第二十四番札所、備後西国三十三観音霊場第四番札所でもある。
名 称 | 磐台寺観音堂(阿伏兎観音) |
所在地 | 広島県福山市沼隈町大字能登原阿伏兎1427-1 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 阿伏兎観音(磐台寺) | 福山観光コンベンション協会 阿伏兎観音/磐台寺観音堂 | 広島の観光・旅行情報サイト |
ばら公園
ばら公園【ばらこうえん】は、福山市花園町にある、バラが数多く植栽された公園である。毎年5月に「福山ばら祭」が開催されることで有名である。
名 称 | ばら公園 |
所在地 | 広島県福山市花園町1-6 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | ばら公園(バラ公園・ばらこうえん) – 福山市HP |
尾道
広島県尾道市は、しまなみ海道の中国側の拠点でもある。尾道は北の千光寺山と南の尾道水道に挟まれた東西に細長い町である。
運河のような尾道水道には江戸時代には北前船が寄港し、尾道は港町として栄えた。そのため江戸時代の名残りの波止場や職人町等の跡につくられた商店街が広がる。
江戸時代には、山陰地方の物産が尾道まで運ばれ、ここで船積みされて江戸へ向かったという。また尾道商人がここを北前船の寄港地としたため尾道は一層繁栄したという。
尾道の町並みは日本の原風景と言われ、市内のレトロな雰囲気や瀬戸内海の美しい景色は多くの人を魅了し、林芙美子や志賀直哉が移り住んだと言われている。
尾道は全国でも有数のお寺の町でもあり、市内に点在する古刹をめぐりながら、ゆっくりと街を散策できる。
千光寺公園
千光寺公園は、千光寺山の南山腹に位置し、千光寺を中心にした公園である。尾道市街や尾道水道、瀬戸内海を一望できる景勝地である。
春には桜やつつじが咲き、初夏にはフジの花が咲き誇る。秋には菊花展も開催されるという。
名 称 | 千光寺公園 |
所在地 | 広島県尾道市西土堂町19-1 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | 千光寺公園 – 尾道市HP |
千光寺
千光寺【せんこうじ】は、千光寺山の南山腹に位置し、平安時代の始めの大同元年(806年)に創建された古刹である。真言宗系の単立寺院で、千光寺公園内にある。山号を大宝山【たいほうざん】と称する。
本堂は貞享三年(1686年)の建立で、この地方には珍しい舞台造り、堂内に置かれた須弥壇は応永から永享(1394~1440年)頃の作で、和様に唐様を加味した形式である。本堂には本尊の秘仏・千手観世音菩薩が安置されている。
千光寺は、珍しい形状の巨石が多数あることで有名な寺である。
本堂は三重岩を背後に崖にせり出すように建てられいる
境内の中央にある巨岩「玉の岩」には、昔この岩の頂に如意宝珠があって、夜毎に海上を照らしていたという尾道で最も有名な「玉の岩伝説」が残されている。昔、烏帽子岩(玉の岩)の頂にはるか遠くを照らす「宝玉」があったと伝えられている。この山を大宝山といい、寺を千光寺、港を玉の浦と名付けられたのはこの伝説にもとづくものであるとされる。
いったい宝玉は何で出来ていたのだろうか? 異国人による盗難で紛失したらしいが、宝玉の行方を是非知りたいものだ。
現在は烏帽子岩の頂に宝玉の代わりに玉が置かれ、夜になると三色に輝く
玉の岩は、周り50 m、高さ15 mもある千光寺当山第三の巨岩である。この大岩の頂には直径14 cm、深さ17 cmの穴があるが、この穴が光を放つ宝玉があった跡だといわれている。
「玉の岩」の右には朱塗りの本堂、左には龍宮造りの鐘楼が建造されている。本堂と鐘楼は尾道の代表的な景観となっている。
千光寺第一の巨岩であるためこの巨岩の前に本堂を建立したのであろうか?
千光寺境内には三重岩のほかにも巨岩・奇岩があるので、これらも必見の価値がある。
千光寺の鎮守は、熊野権現と石鎚蔵王権現であり、千光寺本堂裏には石の鳥居があって大正時代から石鎚蔵王権現が奉られていた。1926年3月に石鎚山へ登る鎖を取り付けたが、先の戦争が激化にした1943年に鐘と一緒に供出させられた。それ以来放置されていたが、2003年頃に住職(多田義信氏)による発案で石鎚山の整備が始まり、2005年から一般参拝客にも開放された。
石鎚権現は四国愛媛の石鎚山ではなく同地区にある浄土寺・瑠璃山(鎖山)にある石鎚権現を向いているという。
冬至には岩屋山山頂(向島)から朝日が昇るが、その御来光を真正面に拝める場所がすぐ横にある御船岩である。そのような配置を誰が考え、どのように実行したのか非常に興味深い。
「玉の岩」の宝珠または太陽や月の光を鏡のように反射させていたとの伝承がある。鏡には神が宿ると言われる。
岩の上を石で打つと「ポンポン」と鼓のような音がする。千光寺第二の巨岩
夫婦岩には烏天狗が刻まれている。自然にできたものでなく作者がいるはずだから烏天狗が描かれている理由もあるはずだ。理由を検索したが見つかない。謎が多いと人はそれを神秘的と言う。ミステリーはそのままにしておくのがよい場合もある。
千光寺境内からは尾道の市街地と瀬戸内海の尾道水道や向島などが一望できる。浄土寺山展望台に並ぶ尾道最高の展望台の一つだ。
名 称 | 大宝山 千光寺 |
所在地 | 広島県尾道市東土堂町15-1 |
駐車場 | なし(千光寺公園内駐車場(有料)を利用) |
Link | 尾道、千光寺、公式HP |
天寧寺
天寧寺【てんねいじ】は、千光寺山の山麓に、1367年に尾道の道円の発願により、足利義詮【あしかがよしあきら】が足利尊氏【あしかがたかうじ】の遺志を継いで工事を寄進し、普明国師を請して開山された寺院であると伝わる。
創建当時は東西三町にわたる七堂伽藍を配した大寺院であったという。創建当時は臨済宗であったが、元禄年間に現在の曹洞宗に転宗したとされる。御本尊は釈迦牟尼佛である。
天寧寺の三重塔(海雲塔)は重要文化財である。
創建当時は大寺院であったが、室町幕府の後ろ盾がなくなったことや、火災で塔以外の全てを焼失したことにより衰退した。現在の三重塔は、五重塔の傷みの激しい上二重を取り払って三重に改造したもので、一際目立つ外観となっている。最初に観たときの違和感がこれが理由であったと知り、合点したのを覚えている。天寧寺の三重塔は現在では尾道の風景を代表する存在の一つになっている。天寧寺は、五百羅漢像がある羅漢堂やしだれ桜と牡丹の名所としても知られている。
春には境内にシダレ桜やボタンが咲き誇るという。
名 称 | 天寧寺 |
所在地 | 広島県尾道市東土堂町17-29 |
駐車場 | なし(千光寺公園内駐車場(有料)を利用) |
Link | 天寧寺 | お寺 | 【公式】尾道 七佛めぐり |
潮聲山 耕三寺
耕三寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、山号を潮聲山、寺号を耕三寺という。堂塔は、国宝建造物を手本として建てられたもので、堂塔の15棟は国登録有形文化財に指定されている。特に、日光東照宮の陽明門を原寸大で再現した孝養門など圧巻である。
耕三寺耕三氏(技術者・実業家)が母親の死後、母への報恩感謝の意を込めて、自ら僧籍に入り菩提寺として1935年(昭和10年)から生涯を掛けて建立した寺院だという。
耕三寺の境内には日本各地の古建築を模して建てられた堂塔が建ち並び「西の日光」とも称され、「母の寺」として知られる。
耕三寺の五重塔は、奈良室生寺の五重塔をモデルにして昭和30年(1955年)11月に建立された仏塔である。この五重塔は、開山の母の納骨塔で「大慈母塔」と名付けられている。
境内の宝殿には、国の重要文化財などを展示している。
名 称 | 潮聲山 耕三寺【ちょうせいざん こうざんじ】 |
所在地 | 広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田553-2 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 耕三寺 – 瀬戸田 耕三寺博物館【公式サイト】 |
瀬戸内しまなみ海道
瀬戸内しまなみ海道は、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ西瀬戸自動車道のことで、瀬戸内海の島々とそれらを繋ぐ7つの橋で構成される絶景ロード(全長約60km)である。青い海、緑豊かな島、美しい橋が織り成す風景を存分に楽しむことができる。
新尾道大橋
新尾道大橋【しんおのみちおおはし】は、尾道と向島【むかいじま】を繋ぐ橋で、隣接する尾道大橋と同じ中央支間長215mの斜張橋である。斜張橋とは、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造をもつ橋である。
地域のシンボルとして親しまれている尾道大橋は、我が国における本格的な斜張橋の先駆けである。その尾道大橋の西隣り(わずか55mの隣)に並列にして新尾道大橋は架かるため、尾道大橋との調和を考慮し、中央支間長を同じにして、橋梁形式も同じ斜張橋が選定されたという。一本塔柱で7段のケーブルを平行に張った形で、橋の長さは546mで、週末は日没から22時までライトアップされている。
因島大橋
因島大橋【いんのしまおおはし】は、向島と因島【いんのしま】を繋ぐ橋で、本州四国連絡橋(本四連絡橋)最初の吊橋として完成した(1983年)。
中央支間長770mは完成当時は日本最長であったという。この因島大橋の建設によって、その後の本四連絡橋の吊橋における標準となる技術が確立されたと言われている。
因島大橋の完成は、本四連絡橋の大吊橋が、安全性、信頼性、確実性、経済性を目指して吊橋の長大化への道を歩み始めることになったマイルストーンと言えるだろう。
因島水軍城
因島村上氏は、中世南北朝時代から室町・戦国時代にかけて、因島を拠点としていた。
当初は小勢力に過ぎなかった村上氏が次第に勢力を拡大して周辺海域の海運を掌握していく中で因島村上氏は本州側の主要航路である「安芸地乗り」を抑え、航路周辺に海城や見張り台を構築していき、その付近の岩礁には船の係留場所を設けた。
海岸部では平地を埋め立て兵站および生活拠点を形成した。そこには海産物の加工場や、造船および修理場もあったらしい。
また菩提寺として金蓮寺(因島で最初の寺院)を建立するなど、文化人としての側面も残されている。
因島村上氏と他の三島村上氏との大きな違いは、早くから山陽側の大名と結びついていき、所領を持っていたことである。
日明貿易の頃には因島村上氏(村上吉資)は備後守護大名の山名氏に取り入り遣明船の警固衆(護衛)を命じられている。
また、この島の西側は小早川水軍の縄張りであり小早川氏とも関係を深めていき、村上吉充の時代である天文24年(1555年)厳島の戦いの際には小早川水軍とともに毛利氏に加勢し、この勝利により北側の向島の所領を与えられた。
現在、因島水軍城に展示されている室町時代末期作の軽武装用鎧「白紫緋糸段威腹巻 附兜眉庇」は村上吉充が小早川隆景より拝領したと伝わっている。
以降、毛利氏の下につき(毛利水軍)、防長経略・門司城の戦い・第一次木津川口の戦いなどに従軍した。
(引用:ウィキペディア)
因島村上氏の縄張りの最大範囲は、東端が現在の福山市域になる走る島あたりで、田島・百島には城があった。南側は弓削島、岩城島や生名島にも支配権があったとされる。
豊臣秀吉が天下を統一して以降の事になる天正16年(1588年)海賊停止令により、海賊(水軍)勢力としての村上氏は解体された。(引用:ウィキペディア)
名 称 | 因島水軍城 |
所在地 | 広島県尾道市因島中庄町3228-2 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 因島水軍城 | いんのしま観光なび(因島観光協会) |
生口橋
生口橋【いくちばし】は、因島と生口島【いくちじま】を繋ぐ橋で、本四連絡橋5番目の吊橋として完成した(1991年)。
完成時点では世界最長の斜張橋であった。生口橋の最大の特徴は、側径間に重いコンクリート桁(PC桁)、中央径間に軽い鋼桁を使用する複合桁構造を日本で初めて採用したことであるという。さらに側径間部に中間橋脚を設けて橋梁全体の剛性を高めているらしい。
PC桁と鋼桁の接合部は、実験データを基に構造や設計法が開発されたという。生口橋の建造で培われた技術の蓄積が、完成時に世界最長の斜張橋であった多々羅大橋を誕生させる大きな力となったと言われている。
多々羅大橋
多々羅大橋【たたらおおはし】は、生口島と大三島【おおみしま】を繋ぐ橋で、完成時には世界最長(中央支間長890 m)の斜張橋であった。
計画当初は吊橋であった橋が、斜張橋の技術の進歩を背景に自然環境の保全や経済性などを考えて変更されたという。
斜張橋とは、塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に直接つなぎ支える構造をもつ橋である。強度的な安全性、信頼性、耐風性などについては言うに及ばず、塔・橋脚など景観に直接影響を及ぼす形状も十分に検討され、洗練された美しさが追求された橋であるという。
名 称 | 多々羅大橋展望台 |
所在地 | 今治市上浦町井口7505-7 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 多々羅展望台 | 観光スポット | 観光情報 | 今治市 多々羅大橋|しまなみ海道【公式サイト】 |
大三島橋
大三島橋【おおみしまばし】は、大三島と伯方島【はかたじま】を繋ぐ橋で、本四連絡橋としては唯一のアーチ橋である。1975年に本四連絡橋の中で最初の長大橋として着工し、1979年に開通した。アーチ支間297mで、完成当時は日本で最長であった。
大三島橋のライトグレーの塗装や、舗装の材料、施工方法などは、その後の本四連絡橋建設の先導的役割を果たしたという。
伯方大島大橋
伯方・大島大橋【はかたおおしまおおはし】は、伯方島と見近島の間に架かる伯方橋と、見近島と大島の間に架かる大島大橋を総称したものである。
伯方橋は、中央支間長145mの3径間連続鋼床版箱桁橋である。
大島大橋は中央支間長560mの単径間吊橋である。国内では初の鋼箱桁を補剛桁に採用した吊橋で、補剛桁の設計や架設方法等の随所に新技術が採用されている。
補剛桁の直下吊工法等の経験は来島海峡大橋の設計や施工に役立てられたという。直下吊り工法は、あらかじめ工場で製作された桁ブロックを輸送台船等で運び、架設地点の直下から吊り上げる工法のことである。大島大橋では補剛桁ブロックを積んだ台船を一点係留方式で定点保持し、直下吊りしたという。
しまなみ海道で直下吊り工法を採用した理由は、多くの船舶が航行する狭い海域では、短時間に作業を終え、工事期間を短くして航行船舶と工事の安全性を向上させるために必要であったからだという。
来島海峡大橋
来島海峡大橋【くるしまかいきょうおおはし】は、大島と今治の間の来島海峡(約4km)に架かる総延長4.1kmの3つの吊橋の総称である。
来島海峡は昔から鳴門海峡、関門海峡と並んで海の難所として有名であり、狭い海域に複雑な地形が作る潮の流れは速くて複雑に変化する。最大潮流速は10ノット(秒速約5m)にも達するが、瀬戸内海の中央海域へ行き来する船舶にとっては避けられない航路となっており、海上交通安全法に指定された航路である。
このために来島海峡大橋の建設計画に際しては、中渡島をはじめとする島々などの自然環境の保全、船舶航行の安全性、車両の走行性などを考慮して、共有アンカレイジを2基設けて3つの吊橋を直線的につなぐ世界初の三連吊橋が採用されたという。
この計画では、海中に多くの基礎を設けることになるが、瀬戸大橋での海中基礎の施工実績などによる建設技術の進歩が計画に反映されたという。
海中基礎の建設や、上部工架設工事にも様々な工夫がされ、合理的な設計で工事数量を減らし、大型作業船を使った効率的な施工で安全性と確実性を向上させ、工事期間を短縮したという。
特に、補剛桁の架設工事には、潮流下においても定点保持性能に優れた自航台船を開発し、狭い海峡部にわずかな占有域を使うだけで短時間に作業を終える直下吊り工法を開発したという。
安全・確実に、信頼できる品質を経済的に、環境保全を考えて建設するため、調査・設計・施工のすべての段階において、瀬戸大橋や明石海峡大橋などの建設で培われてきたあらゆる分野の最新で最先端の技術が結集されて、世界初の三連つり橋、来島海峡大橋が完成できたということだ。日本が世界に誇れる技術の一つと言えよう。
亀老山展望公園
亀老山展望公園【きろうさんてんぼうこうえん】は、大島(今治市)にある山上の展望スポットである。標高308mの山頂からは来島海峡【くるしまかいきょう】と来島海峡大橋を一望できる。
亀老山展望公園へは、車が利用できるのであれば、西瀬戸道(しまなみ海道)大島北ICより約15分、大島南ICより約10分で到着できる。
名 称 | 亀老山展望公園 |
所在地 | 愛媛県今治市吉海町南浦487-4 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 亀老山展望公園 | 観光情報 | 今治市 |
あとがき
本記事を書くにあたってしまなみ海道に架かる吊橋のことを調べてみて、あらためて日本の技術力の高さと進歩に驚くと共に誇らしく思った。実績と経験で培われた高度な技術を基に、さらに最新かつ最高レベルの技術を開発しながらより難易度の高い斜張橋を建造していく姿勢はプロジェクトとしては魅力的でもある。このプロジェクトに参画した技術者はきっとやりがいを感じていたはずである。
旅行に行ったときにはしまなみ海道を快適にドライブしただけで、橋の建設のことには思いを寄せなかった自分が恥ずかしい。次回に行った場合には、もっと橋に思いを寄せながら走りたいと思う。