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真言密教の聖地・高野山「壇上伽藍」

はじめに

壇上伽藍は、弘法大師空海が817年に弟子たちと共に高野山を開山して最初に開拓した場所であり、建造物である。この頃、空海は京都にも教王護国寺(東寺)という密教の根本中堂を有していたため、高野山の壇上伽藍の完成には15~20年という長い歳月を要したと言われている。

壇上伽藍は、密教の修行場としての役割を果たし、一般の人々が密教の世界を目で見てわかりやすいように作られたという。壇上伽藍の建物は、密教の主要な経典である「大日経」を根拠とする胎蔵界曼荼羅を表現していると言われている。

壇上伽藍の建物は、歴史の中で何度も再建されてきた。現在の建物は、昭和7年(1932年)に完成したものであるという。

壇上伽藍は、高野山の信仰の中心地であり、多くの参拝者が訪れる場所である。

目次
はじめに
壇上伽藍
根本大塔
金堂
六角経蔵
御影堂
三鈷の松
西塔
御社
山王院
大会堂
不動堂
東塔
あとがき

壇上伽藍

壇上伽藍【だんじょうがらん】は、弘法大師空海が高野山を開山した際、真っ先に造営に取り組んだ場所で、奥之院と共に高野山の二大聖地の一つである。

壇上伽藍の建造物配置図

壇上伽藍の「壇上」とは、仏教の修行や儀式を行うための高台や特別な場所を指す用語である。高野山の中でも高い台地に位置しているため、「壇上」と呼ばれている。

また、「伽藍」とは、サンスクリット語の「サンガ・アーラーマ(僧伽藍摩)」の音訳で、僧侶が集まり修行する場所を意味する用語である。高野山の壇上伽藍は、密教の修行場としての役割を果たし、密教の世界を具現化した場所である。

壇上伽藍には高野山全体の総本堂である金堂【こんどう】や高野山のシンボルである高さ48.5mの根本大塔【こんぽんだいとう】など19もの諸堂が建ち並ぶ。

弘法大師伝説の一つである三鈷杵が飛行してかかっていたとされる「三鈷の松」や「高野四郎」と呼ばれる鐘楼もある。

このように高野山の壇上伽藍は、弘法大師空海が高野山を開山して最初に開拓した場所であり、密教の教えを体現する重要なエリアとされている。

壇上伽藍には、根本大塔、金堂、六角経蔵、御影堂、西塔などの主要な法会が行われる重要な諸堂が建並んでいる。まさに高野山の中心エリアである。

名 称壇上伽藍
所在地和歌山県伊都郡高野町高野山132
駐車場あり(無料)
Link壇上伽藍 | 和歌山県公式観光サイト

根本大塔

根本大塔【こんぽんだいとう】は、壇上伽藍の中心に位置し、弘法大師空海が密教の教えを広めるために建立した重要な建物である。816年から887年頃に完成したと伝えられいる。

弘法大師空海は、根本大塔西塔を大日如来の密教世界を具体的に表現する法界体性塔【ほっかいたいしょうとう】として二基一対として建立する計画を持っていたと伝えられている。

この大塔は真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来より根本大塔【こんぽんだいとう】と呼ばれている。

多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、御本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏【しぶつ】が取り囲み、16本の柱には十六大菩薩【じゅうろくだいぼさつ】、四隅の壁には密教を伝えた八祖【はっそ】像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅【まんだら】となるよう構成されている。

つまり、根本大塔の内部の柱や装飾は密教思想に基づく曼荼羅の世界観を具現化したものといわれている。私たちは根本大塔の内部に足を踏み入れれば、曼荼羅の世界を体感できるようになる。


金堂

金堂【こんどう】は、高野山の総本堂であり、重要な儀式が行われる場所である。弘法大師空海は、高野山を開創した際に、御社【みやしろ】の次に建立したのが金堂であると伝えられている。金堂は、一般の寺院でいう本堂に相当し、高野山全体の総本堂で高野山での主な宗教行事が執り行なわれる。

御本尊は薬師如来像であり、秘仏である。仏像は高村光雲仏師によって造立されたものとされる。秘仏であるため、特別な時期にのみ公開されている。

高野山開創当時は講堂と呼ばれていたが、平安時代半ばから、高野山の総本堂として重要な役割を果たしてきたという。

現在の建物は7度目の再建で、昭和7年(1932年)に完成した建物である。入母屋造りであるが、耐震耐火を考慮した鉄骨鉄筋コンクリート構造で設計、建立されている。国の史跡・世界遺産に登録されている。


六角経蔵

六角経蔵【ろっかくきょうぞう】は、鳥羽法皇の菩提を弔うためにその皇后であった美福門院が建立された経蔵である。この経蔵に納められた紺紙金泥一切経は、重要文化財として霊宝館に収蔵されている。

経蔵の基壇【きだん】付近のところに把手がついており、回すことができる作りになっている。この把手を持って内部の経巻を回すことで一切経を一通り読誦したのと同じ功徳が得られるとされている。

現在の建物は1934年2月に再建されたものである。


御影堂

御影堂【みかげどう】は、弘法大師空海の御影像が安置されている神聖な場所である。このお堂は高野山で最重要の聖域であり、限られた者しか堂内に入ることは許されていない。近年になり、旧暦3月21日に行われる「旧正御影供」の前夜だけ外陣への一般参拝が許されるようになったという。

御影堂は、当初は弘法大師空海の持仏堂として建立されたが、後に真如親王直筆の「弘法大師御影像」を奉安し、「御影堂」と名付けられた。

向背付宝形【ほうぎょう】造りで、堂内外陣には弘法大師空海のの十大弟子像が掲げられている。


三鈷の松

金堂と御影堂の中間に瑞垣で囲まれた一本の松の木があり、「三鈷の松」と呼ばれている。三本の葉が一つにまとまっている珍しい白松【はくしょう】(シロマツ;中国原産)である。この松の樹齢は約200年と推定されており、樹高は約15mである。

弘法大師空海が唐より帰国する際、明州の浜より真言密教をひろめるのに相応しい場所を求めるため、日本へ向けて三鈷杵【さんこしょう】と呼ばれる法具を投げたところ、たちまち紫雲【しうん】たなびき、雲に乗って日本へ向けて飛んで行ったという。

後に空海が高野近辺に訪れたところ、狩人から夜な夜な光を放つ松があるとのうわさを聞き、早速その松がある場所へ行ってみると、そこには唐より投げた三鈷杵が引っかかっていた。そこで、空海はこの地こそ密教をひろめるに相応しい土地であると決心したという。

その松は三鈷杵と同じく三葉の松であり、「三鈷の松」として祀られるようになったという。現在では参詣者が縁起物として松の葉の落ち葉を持ち帰り、お守りとして大切にされているという。

尚、現在の「三鈷の松」は、約200年前に植栽されたものであるという。


西塔

西塔は、根本大塔と対をなす塔で、密教の世界を象徴していると言われている。弘法大師空海は、根本大塔と西塔を大日如来の密教世界を具体的に表現する法界体性塔【ほっかいたいしょうとう】として二基一対として建立する計画を持っていたが、諸般の事情で建設が遅れてしまったという。完成したのは空海入定後の886年であった。弘法大師もさぞかし見たかったであろう。

根本大塔の御本尊が胎蔵大日如来であるのに対し、西塔では金剛界大日如来と胎蔵界四仏が奉安されている。

現在の塔は、1834年に再建されたもので、擬宝珠【ぎぼし】高欄付多宝塔と呼ばれ、高さは27.27mである。 


御社

御社【みやしろ】は、弘法大師空海が高野山を開創する際に最初に建立した重要な神社である。御社は、壇上伽藍の西端に位置しており、国の重要文化財に指定されている。

社殿は三つあり、一之宮には丹生明神、二之宮には高野明神、三之宮は総社として十二王子と百二十伴神が祀られている。

一之宮と二之宮の構造形式は春日造で、三之宮(総社)は三間社流見世棚造【さんげんしゃながれみせだなづくり】と呼ばれ、どちらも檜皮葺の屋根で仕上げられている。現在の社殿は1594年に再建されたものである。

819年に、弘法大師空海が高野山を開創する際に、山麓に鎮座する天野社の神(丹生明神と高野明神)を地主神としてこの地に勧請し、御社を建立したと伝わっている。

御社は、神仏習合の象徴としても重要である。弘法大師空海は、神道の神を真言密教の守護神として崇拝し、これが後に神仏習合思想の原動力となったとされる。御社は、高野山の鎮守としての役割を果たし、修行者や参拝者を守護する神社として信仰されてきた。

このように、御社は高野山の歴史と信仰を象徴する重要な場所である。参拝する際には、その歴史と文化を体感したい。


山王院

山王院【さんのういん】は、御社【みやしろ】の拝殿として建立された建物で、壇上伽藍の西端に位置している。

山王院とは地主の神を山王として礼拝する場所の意味であり、現在の建物は1594年に再建されたものである。両側面向拝付入母屋造り【りょうがわめんこうはいつきいりもやづくり】と呼ばれる建物は重厚感のある造りで、立派なお堂(仏教寺院)のように見えるが、実際には御社【みやしろ】の拝殿として建てられたものである。

山王院は、高野山の重要な神仏習合の象徴的な場所で、高野山の歴史と信仰を感じることができる場所でもある。参拝する際には、その歴史と文化を体感したい。


大会堂

大会堂は、1175年に鳥羽上皇の皇女である五辻斎院頌子内親王によって創建された建物である。当初は法幢院谷にあったが、1177年に西行法師の奉行により現在の場所に移されたという。その後、1848年に再建され、現在の建物は五間四面の檜皮葺の堂宇である。再建された建物は、江戸時代の建築様式を今に伝えているという。

その後、1848年に再建され、現在の建物は五間四面の檜皮葺の堂宇である。再建された建物は、江戸時代の建築様式を今に伝えているという。

大会堂の内部は広く、大法会などの大規模な法要や集会が行われる場所として、多くの人々を収容できるように設計されているという。


不動堂

不動堂は、1198年に鳥羽天皇の皇女、八条女院の発願により、行勝上人によって創建された建物である。明治41年(1908年)に一心院谷から現在の壇上伽藍に移築され、昭和27年(1952年)に国宝に指定されている。平成10年(1998年)に全面解体保存修理が行われた。

不動堂は入母屋造りで、檜皮葺の屋根を持ち、平安貴族の邸宅風の優美な趣を湛えている。堂内には木目漆塗に飾金具を打った須弥壇があり、天井は折上小組格天井となっているという。

通常の不動堂には護摩壇があるのが一般的であるというが、この不動堂には護摩壇がなく、素木造りが映える白い外観が特徴であるとされる。

不動堂はその美しい建築様式と歴史的背景から、多くの参拝者や観光客に愛されている。参拝するには、これらの特徴と歴史にも関心を持ちたいものである。


東塔

東塔は、1127年に白河上皇の寄進により、醍醐寺三宝院の勝覚権僧正によって建立されが、1843年に焼失してしまったという。長い間再建されていなかったが、1984年に再建されて、現在に至っている。高さは約18mである。

建築様式や装飾は当時の技術と芸術性を今に伝えているという。東塔の御本尊である尊勝仏頂尊は、白河上皇の身長を計測して等身大で造立された像であると伝えられている。不動明王降三世明王は尊勝仏頂尊の脇侍として祀られている。東塔内部は曼荼羅の世界感を立体的に表現しており、密教の深い教えを感じることができるという。


あとがき

高野山には何度も来ているが壇上伽藍にある建物をじっくりと見学するのは随分と久し振りである。正直に話せば、御社と西塔は初めてである。当然ながら山王院も初めてである。

かつての私は根本大塔と御影堂、そして金堂に参拝したら壇上伽藍に来たつもりになっていたからである。本ブログで壇上伽藍を紹介する機会がなければ、御社や山王院はおろか西塔も見ずに終わっていたかも知れない。きっと「灯台下暗し」とはこのような事をいうのだろう。

本稿を書くに際して、壇上伽藍のことを最も学ぶことができたのは私かも知れない。そして、西塔はじめ御社と山王院の存在を知ることによってより一層、壇上伽藍の素晴らしさに気付くことができた。本ブログを書き続けていることのご利益かも知れない。


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