はじめに
吉野熊野【よしのくまの】国立公園は、奈良・三重・和歌山の3県にまたがる国立公園であるが、その過半は奈良県に属する。
紀伊半島の中央部から南西岸までの山岳部・河谷部・海岸部で構成される広大な地域を占める公園で、大自然に富んでいる。
山岳部は、吉野山や大峰山を中心とする地域であり、河谷部は熊野川とその支流の北山川流域からなる。一方、海岸部は熊野灘や枯木灘に面し、那智山一帯を含んだ地域である。
この吉野熊野国立公園内には洞川温泉があるので、その温泉に浸かりに行くのも悪くない旅行プランであると思う。
<目次> はじめに 吉野山 下千本 中千本 上千本 奥千本 金峯山寺 吉野朝宮跡 吉水神社 吉野水分神社 金峯神社 櫻本坊(桜本坊) 竹林院 喜蔵院 東南院 如意輪寺 大峰山 山上ヶ岳 大峯山寺 稲村ヶ岳 大日山 八経ヶ岳 弥山 明星ヶ岳 洞川 洞川温泉 龍泉寺 天河大辨財天社 みたらい渓谷 大台ケ原 北山川・瀞峡 あとがき |
吉野山
吉野山【よしのやま】は、本来は1つの山を指す山名ではなく、金峯山寺【きんぷせんじ】を中心とした社寺が点在する地域の広域地名である。地理的には奈良県吉野町を流れる吉野川南岸から大峰山脈へと南北に続く約8kmに及ぶ尾根続きの山稜の総称である。
吉野山は、国の名勝・史跡に指定されているほか、『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成地域としてユネスコの世界遺産に登録されている。
吉野山には平安時代頃から桜が植え続けられてきて、古くから桜の名所として知られている。 かつて豊臣秀吉が花見をしたことから、全国的に名が知られるようになる。
植栽されている桜の種類の大半は、シロヤマザクラ(白山桜)で、その数は約3万本にも及ぶという。
吉野山で桜が数多く集まる所は一目千本と呼ばれる。北側の山下から南側の山上へと順に、下千本【しもせんぼん】・中千本【なかせんぼん】・上千本【かみせんぼん】・奥千本【おくせんぼん】と呼ばれている。
下千本
下千本【しもせんぼん】は、近鉄吉野駅から山上へ上がる七曲坂周辺にあたる。
中千本
中千本【なかせんぼん】は、五郎兵衛茶屋から如意輪寺にかけての一帯である。
上千本
上千本【かみせんぼん】は、火の見櫓から花矢倉にかけての坂周辺にあたる。
奥千本
奥千本【おくせんぼん】は、高城山付近・金峯神社付近と苔清水・西行庵付近を指す。
私たちが吉野山を訪ねたときは、奥千本はまだ三分咲きから五分咲きであった。
桜は、4月の初旬から月末にかけて、下千本から順に奥千本へと開花してゆく。この時期の吉野山は花見客で大いに賑わう。
名 称 | 吉野山 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | 吉野山と桜 | 吉野町公式ホームページ 吉野山観光協会【公式サイト】 おすすめコース – 吉野山観光協会【公式サイト】 |
金峯山寺
金峯山寺【きんぷせんじ】は、金峯山修験本宗(修験道)の総本山の寺院で、山号は国軸山である。役行者【えんのぎょうじゃ】と呼ばれる役小角【えんのおづぬ】によって開基(開創)されたと伝わっている。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣人を集めてきた。日本古来の山岳信仰が神道、仏教、道教などと習合し、日本独自の宗教として発達をとげたのが修験道であり、その開祖が役小角であるとされる。
近世までは吉野山の金峯山寺を「山下【さんげ】の蔵王堂」、山上ヶ岳(大峰山)の大峯山寺を「山上【さんじょう】の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」とは本来、山上と山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であったという。
御本尊は蔵王堂に安置されている3体の蔵王権現立像(秘仏)で、中尊は「日本最大の秘仏」と称され、高さが約7mもあるという。蔵王権現は、密教彫像などの影響を受けて日本で独自に創造されたものと考えられている。修験道の伝承では、蔵王権現は役行者が金峯山での修行の際に感得したものとされている。
現存の蔵王堂は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉の寄進によって再建されたものとされる。
名 称 | 金峯山寺 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山 |
Link | 金峯山修験本宗 総本山 金峯山寺 |
吉野朝宮跡
吉野朝宮跡【よしのちょうぐうあと】は、金峯山寺蔵王堂の西側に位置する、南北朝時代に南朝4代の天皇(後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇)の皇居があった場所である。つまり、建武の新政に失敗した後醍醐天皇が吉野山に開いた皇居(吉野行宮【よしののあんぐう】と呼ばれる)の跡地である。
建武3年(1336年)の暮、足利尊氏の京都占領(建武の乱)によって建武政権が崩壊し、幽閉されていた後醍醐天皇が京都を脱出して吉野山の吉水院【きっすいいん】(後述)に入り、数日後に近くの金峯山寺の塔頭・「実城寺」を「金輪王寺」と改名して行宮と定めたのが吉野行宮である。
金輪王寺は、江戸時代初期に家康に寺号を没収されて「実城寺」に戻され、明治時代の廃仏毀釈によって廃寺となる。その跡地は現在、公園および金峯山寺の妙法殿となっている。
名 称 | 吉野朝宮跡 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山2498 |
Link | 吉野朝宮跡|奈良県観光[公式サイト] |
𠮷水神社
𠮷水神社【よしみずじんじゃ】は、吉野山に位置し、白鳳年間に金峯山寺の僧坊・吉水院【きっすいいん】として役行者によって建立されたと伝えられている。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に潜幸した際には、吉水院に行宮を設け、一時居所としたと伝わる。
明治時代の神仏分離令と国家神道化の愚策によって、金峯山寺の廃止が迫る情勢となったことから、吉水院は後醍醐天皇社の名で神社になり、さらに明治8年(1875年)に社名を吉水神社に改称し、後醍醐天皇、楠木正成、吉水院宗信法印を祀っている。
吉水神社の境内からは中千本と上千本の桜がよく見えるので、「一目千本」と呼ばれている。
名勝「一目千本」は、別名を「一目十年」【ひとめじゅうねん】とも言われ、その景色を一目見ると十年長く生きることができるという「長寿のご利益」があると伝えられている。
名 称 | 𠮷水神社 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山579 |
Link | 吉水神社 | 𠮷水神社 | 奈良県 桜の名勝・一目千本 | 吉水神社 |
吉野水分神社
吉野水分神社【よしのみくまりじんじゃ】は、吉野山の上千本に位置する、別名を「子守宮」と称する神社である。創建年代は不詳である。
水分神社【みくまりじんじゃ】は「水の神様」を祀っていて、古くから信仰されてきたが、「みくまり」が「みこもり」と訛り、「御子守り」として、平安時代中期頃から「子守明神」と呼ばれるようになったとされる。
藤原道長は寛弘4年(1007年)に、金峰山山上の子守明神(吉野水分神社)に金銀五色等を奉ったと記録に残っているらしい。当時の権力者からも崇敬を受けて「子授けの神」としての信仰も集めていた証左となっている。
豊臣秀吉が文禄3年(1594年)に吉野の花見で吉水院(現吉水神社)を本陣として5日間滞在した際に、吉野水分神社を訪れて子授けを祈願したところ、秀頼を授かったと伝わる。
現在の社殿は秀吉の意志を継いだ秀頼によって慶長10年(1605年)に再建されたので、桃山建築の華麗な様式を伝えているとされる。
名 称 | 吉野水分神社 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町大字吉野山1612 |
Link | 吉野水分神社 吉野水分神社(子守宮) – 吉野山観光協会【公式サイト】 |
金峯神社
金峯神社【きんぷじんじゃ】は、吉野山最奥の青根ヶ峰のそばに位置し、吉野山の地主神である金山毘古命【かなやまひこのみこと】を祀っている神社である。
創建の経緯は不明であるが、明治以前の神仏習合時代には金精明神【こんしょうみょうじん】と呼ばれていたという。「金精」の名は金峯山は黄金を蔵する山という信仰があったことが背景にあると考えられている。
金峯神社の脇の小径を下った場所には「義経隠れ塔」と呼ばれる宝形造・檜皮葺きの簡素な塔が建っている。追っ手に囲まれた源義経が屋根を蹴破って逃げたといわれ、「蹴抜の塔」【けのけのとう】とも呼ばれる。現在の塔は大正初年に再建されたものであるらしい。
名 称 | 金峯神社 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山1651 |
Link | 金峯神社 – 吉野山観光協会【公式サイト】 金峯神社 新着情報 | 金峯神社 |
櫻本坊(桜本坊)
桜本坊【さくらもとぼう】の正式表記は「櫻本坊」であり、吉野山に位置する、金峯山修験本宗の別格本山の寺院である。御本尊は神変大菩薩(役行者)倚像である。大峯山寺の護持院5箇院の一つとなっている。多くの文化財が残されており、「山伏文化の殿堂」的な存在であるとされる。
元々は金峯山寺蔵王堂の前にあって「密乗院」と称していたが、明治の神仏分離と廃仏毀釈で大打撃を受けた後に現在の地に移転して「櫻本坊」に改称したと伝わる。
文禄3年(1594年)の豊臣秀吉の「吉野の花見」の際には、関白豊臣秀次の宿舎となったことでも知られる。
名 称 | 櫻本坊(桜本坊) |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山1269 |
Link | 大峯山護持院 櫻本坊(桜本坊) |
竹林院
竹林院【ちくりんいん】は、吉野山に位置する、大峯山寺の護持院(寺院)の一つである。御本尊として不動明王、蔵王権現、役行者、弘法大師が祀られている。
聖徳太子が開創した当時は「椿山寺」と号し、その後弘仁年間(810年~824年)には空海(弘法大師)が入り「常泉寺」と称したという。1385年に「竹林院」と改められたという。明治の神仏分離に伴い1874年に廃寺となった。その後、天台宗の寺院として復興したが、戦後の1948年に修験道系統の「単立寺院」として現在に至っている。単立寺院とは、いずれの宗派や上位組織に属していない特例的存在であることを指す。
名 称 | 竹林院 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山2142 |
Link | 竹林院 – 吉野山観光協会【公式サイト】 |
竹林院群芳園
竹林院群芳園【ちくりんいんぐんぽうえん】は、竹林院の宿坊である。広大な敷地の中には「大和三庭園」の一つに数えられる回遊式日本庭園の「庭園群芳園」がある。この庭園は、千利休の作で、細川幽斎が改修したと伝わっている。
名 称 | 竹林院群芳園 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山2142 |
Link | 吉野山 旅館 竹林院群芳園 「公式サイト」 竹林院群芳園 – 吉野山観光協会【公式サイト】 |
喜蔵院
喜蔵院【きぞういん】は、吉野山の中腹に位置する、大峰山の護持院で、山号は吉野山である。平安時代に京都聖護院の一院として円珍(智証大師)によって創建されたという。
現在は宿坊も営み、本山修験宗の大峯奥駈修行の重要寺院としても知られ、本山修験宗別格本山を名乗っている。
名 称 | 喜蔵院 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山1254 |
Link | 大峯山護持院 喜蔵院 |
東南院
東南院【とうなんいん】は、吉野山に位置する、金峯山修験本宗の別格本山の寺院である。山号は大峯山で、山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院である。御本尊は役行者像で、金峯山寺建立時にその東南にあたる場所に役行者によって建てられたと伝わる。
霊地霊山は、霊地を開くときに中心になる伽藍を建て、そこから巽(東南)の方角に当たる所に寺を建て、一山の安泰と興隆を祈願するのが当時の習わしであったらしい。
名 称 | 東南院 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山2416 |
Link | 東南院 – 吉野山観光協会【公式サイト】 東南院(とうなんいん) | 吉野町公式ホームページ |
如意輪寺
如意輪寺【にょいりんじ】は、吉野山から谷ひとつ挟んで離れた山の中腹に位置する、浄土宗の寺院である。山号は塔尾山【とうのおさん】で、御本尊は如意輪観音である。平安時代の延喜年間(901年~922年)に日蔵上人により開かれたと伝わる。
南北朝時代、後醍醐天皇が吉野に行宮を定めた際に勅願所とされたが、天皇は還京叶わぬまま崩御して本堂の裏山に葬られた。
本堂の背後には、吉野の地で崩御した後醍醐天皇の陵と治定されている塔尾陵【とうのおのみささぎ】がある。
寺運は衰えたが、慶安3年(1650年)文誉鉄牛上人によって本堂が再興され、その際に真言宗から浄土宗に改宗したという。
名 称 | 如意輪寺 |
所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山1024 |
Link | 如意輪寺|南朝御歴代天皇の勅願寺 |
大峰山
大峰山【おおみねさん】は、奈良県南部に位置し、広義には大普賢岳、弥山、八経ヶ岳、釈迦ヶ岳などを含む大峯山系の山々の総称であり、狭義には山上ヶ岳【さんじょうがたけ】を指す。
山上ヶ岳
山上ヶ岳(標高1,719 m)は、奈良県天川村に位置する山である。頂上付近には修験道の根本道場である大峯山寺山上蔵王堂があり、山全体を聖域として現在でも女人禁制が維持されている。
山上ヶ岳へ通じる登山道には、宗教上の理由により女人禁制である旨を伝える大きな門があり(女人結界門)、平安時代から続く1300年の伝統を守るための協力を依頼した看板が設置されている。
洞川から母公堂【ははこどう】を経て、大峯大橋までは道路が整備されている。峯大橋駐車場の登山口から山頂まで参道が設けられているが、鎖場を登るなど長くて険しい山道が続く。コースタイムは約3時間ほどである。
「西の覗き」と称される行場は著名で、これは絶壁の縁から命綱をつけて身を乗り出し、仏の世界を垣間見ようとするものである。難所にはすべて安全な迂回路が整備されている。
名 称 | 大峰山(山上ヶ岳) |
駐車場 | あり(有料)大峯大橋駐車場 |
Link | 山上ヶ岳 | 天川村公式サイト(奈良県) |
大峯山寺
大峯山寺【おおみねさんじ】は、山上ヶ岳(標高1719m)の山頂近くに建つ修験道の寺院で、役小角(役行者神変大菩薩)が伝承的な開祖とされている。
大峯山寺本堂には蔵王権現像が祀られており、「山上の蔵王堂」とも呼ばれている。これは吉野山の金峯山寺本堂(蔵王堂)を「山下【さんげ】の蔵王堂」と称するのに呼応している。
直線距離にして20数km離れている、山上と山下の蔵王堂は、近代以前には共に「金峯山寺」という修験寺院の本堂であったという。「金峯山」とは、吉野山から山上ヶ岳に至る山岳聖地全体を指し、そこに点在する寺院群の総体が「金峯山寺」であったと伝わる。
本堂の裏手には鎖もない断崖絶壁で命綱もつけずに修行をする「裏の行場」があるが、そこは先達の案内なしでの立ち入りが禁止されている。
この一帯は古くから修験道の山として山伏の修行の場であった。道場としての「大峯山」は、単独の山を指す名前ではなく吉野山から熊野へ続く長い山脈全体を意味している。
吉野山から大峯山系を経て熊野の熊野本宮大社に至る約80kmの道を「大峯奥駈道」【おおみねおくがけみち】と言い、修験者の修行の道となっている。熊野古道の一つにもなっている。
名 称 | 大峯山寺 |
所在地 | 奈良県吉野郡天川村洞川703 |
Link | 大峰山寺 | 天川村公式サイト(奈良県) |
稲村ヶ岳
稲村ヶ岳【いなむらがたけ】(標高1,726m)は、山上ヶ岳の南西に位置する山である。山頂展望台からは、東に大普賢岳、南東に行者還岳、南に弥山や八経ヶ岳、西に観音峯、北に大天井ヶ岳の各ピークを望むことができる。
山上ヶ岳では女人禁制が維持されているが、稲村ヶ岳では、女性信者のための修行の場として昭和35年(1960年)より開放されており、「女人大峯」【にょにんおおみね】とも呼ばれる。
山上辻に稲村ヶ岳の山小屋がある。周辺は亜高山植物に富む。
名 称 | 稲村ヶ岳 |
所在地 | 奈良県吉野郡天川村洞川287 |
Link | 稲村ヶ岳 | 天川村公式サイト(奈良県) |
大日山
大日山(標高1,689m)の山頂には大日如来を祀る祠があり、地元の村が干害に悩まされると、村人は雨乞いを行うために岸壁をよじ登り祈祷を行ったという。女性修験者のための行場として女人大峯【にょにんおおみね】の別名でも知られる。山頂付近はハシゴや鎖場、ロープが設置されている。
八経ヶ岳
八経ヶ岳【はっきょうがたけ】(標高1,915m)は、大峰山脈の主峰であり、大峰山の最高峰であるばかりか、近畿地方の最高峰である。
役行者が法華経八巻を埋納したと伝わることから仏経ヶ岳【ぶっきょうがたけ】とも、八剣山【はちけんざん】とも呼ばれる。
名 称 | 八経ヶ岳 |
Link | 弥山・八経ヶ岳 | 天川村公式サイト(奈良県) |
弥山
弥山【みせん】(標高1,895 m)は、八経ヶ岳の北側に位置する、大峯の中心的山岳である。仏教の世界観の中で中心にそびえる山、須弥山【しゅみせん】から名付けられた山である。
弥山は、命の源である「水の神」として古くから神聖な場所とされ、山頂には天河大辨財天社の奥宮が祭祀されている。
名 称 | 弥山 |
Link | 弥山・八経ヶ岳 | 天川村公式サイト(奈良県) |
明星ヶ岳
明星ヶ岳【みょうじょうがたけ】(標高1,894 m)は、八経ヶ岳の南側に位置する山である。
洞川
洞川温泉
洞川温泉【どろがわおんせん】は、山上ヶ岳の麓の奈良県天川村洞川に位置する温泉である。山上ヶ岳や稲村ヶ岳への登山口で、標高約820m余りの高地の冷涼な山里に位置する。
夏季には大峯山の門前町として山上ヶ岳の蔵王堂をめざす修験者や参詣者で非常に賑わう反面、冬季は寒さと雪で閉ざされることが多いという。
長い歴史のある純和風の木造建築の旅館や民宿などが20数軒と土産物店や陀羅尼介丸の製造販売店などの商店13軒余りが軒を連ねて温泉街を形成している。
名 称 | 洞川温泉 |
所在地 | 奈良県吉野郡天川村洞川 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 洞川温泉街 | 天川村公式サイト(奈良県) 大峯山洞川温泉観光協会 |
龍泉寺
龍泉寺【りゅうせんじ】は、奈良県天川村洞川【どろがわ】にある真言宗醍醐派の大本山の寺院である。山号は大峯山。吉野山の竹林院、桜本坊、喜蔵院、東南院と共に山上ヶ岳にある大峯山寺の護持院の一つである。御本尊は弥勒菩薩である。
龍泉寺の境内には、「龍の口」と呼ばれる湧水があり、修験者たちの「清めの水」で、大峰山の第一の水行場とされている。
伝承によれば、700年頃に大峰山で修行していた役小角がこの湧水を発見し、「龍の口」と名づけ、その側に小堂を建てて八大龍王を祀ったのが起源とされる。
洞川から大峰山(山上ヶ岳)へと登る修験者は、龍泉寺で水行した後、八大龍王堂に祀られている八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっている。
龍泉寺は、明治時代に大峯山寺蔵王堂の護持院となるも1946年の洞川地区の大火で本堂を焼失してしまう。1960年に再興されて、現在の本堂が建立されたという。
名 称 | 龍泉寺 |
所在地 | 吉野郡天川村洞川494 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 天川村|真言宗醍醐派大本山|大峯山 龍泉寺 大峯山龍泉寺|奈良県観光[公式サイト] |天川村 大峯山龍泉寺 | 天川村公式サイト(奈良県) |
天河大辨財天社
天河大弁財天社【てんかわだいべんざいてんしゃ】は、奈良県天川村坪内にある神社である。
天河大辨財天社の草創は、飛鳥時代に役行者が大峯開山の際に、蔵王権現に先立って勧請し、大峰山系最高峰の弥山【みせん】の鎮守として祀ったことに始まるとされる。
社殿の造営は、天武天皇が壬申の乱の際に戦勝を祈願し、勝利した後に寄進したためと伝わる。神殿の下には古代の磐座があり、社伝によれば神武天皇がここでヒノモトの言霊を賜ったらしい。
創建に関わった役行者と天武天皇は、伊勢神宮内宮の祭神のうち女神(瀬織津姫【せおりつひめ】)を「天の安河の日輪弁財天」として祀ったとされる。
江戸時代には「琵琶山白飯寺」と号し、本尊を弁才天(宇賀神王)としていたが、明治政府による神仏分離令と廃仏毀釈によって白飯寺は廃寺となり、本尊の弁才天は市杵島姫命【いちきしまひめのみこと】を主祭神とするようになったという。
大峯山における信仰の中心地しての地位は早期から確立していたようで、弘法大師・空海が高野山の開山に先立って3年間大峯山で修行した際も、最大の行場が天河大弁財天社であったと伝わっており、空海にまつわる遺品が多数奉納されているという。
本殿に祀られている弁財天像は非公開で、毎年7月16日と17日の例大祭においてのみ開帳されるという。また本殿に安置された日輪弁才天像の場合は、60年に1度だけ開帳されるようだ。
名 称 | 天河大弁財天社 |
所在地 | 奈良県吉野郡天川村坪内107 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 大峯本宮天河大辨財天社̠|天河神社|奈良県天川村 ご由緒 | 大峯本宮天河大辨財天社 天河大辨財天社 | 天川村公式サイト(奈良県) |
みたらい渓谷
御手洗渓谷【みたらいけいこく】は、奈良県天川村に位置する渓谷で、天ノ川【てんのかわ】支流の山上川【さんじょうがわ】下流部で、川迫川【こうせがわ】との合流地点付近の渓谷を指す。
渓谷沿いには遊歩道が設置されており、ハイキングコースにもなっている。渓谷は高低差が大きいため、大小の滝を遊歩道から眺めることができる。
渓谷の周辺は自然林で覆われているため、新緑と紅葉の季節の渓谷美は近畿一の絶景と言われている。
名 称 | 御手洗渓谷【みたらいけいこく】 |
所在地 | 奈良県吉野郡天川村北角 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | みたらい渓谷 | 天川村公式サイト(奈良県) みたらい遊歩道 | 天川村公式サイト(奈良県) みたらい渓谷|奈良県観光[公式サイト] |
大台ケ原
大台ヶ原山【おおだいがはらやま】(標高1695m)は、奈良と三重の県境に位置する山である。
三津河落山【さんずこうちさん】や経ヶ峰【きょうがみね】などの山と標高1400mから1600mの複数の山に囲まれた東西5kmほどの台地状の地帯は大台ヶ原【おおだいがはら】と呼ばれる隆起準平原である。
南東の急峻な斜面を海上から湿った風が吹き上げるため大台ヶ原では年間を通じて降水量が多く、屋久島と並ぶ多雨地帯である。
名 称 | 大台ヶ原 |
所在地 | 奈良県吉野郡上北山村小橡660-1 |
Link | 上北山村公式ホームページ | 観光情報 環境省_吉野熊野国立公園大台ヶ原 大台ヶ原|奈良県観光[公式サイト] |
北山川・瀞峡
瀞峡【どろきょう】は、和歌山・三重・奈良の3県を流れる熊野川水系北山川上流にある峡谷である。大台ヶ原周辺から流れを発した川が滝を形成し、侵食作用によって滝つぼが後退して形成された。上流から、奥瀞、上瀞、下瀞と呼ばれる。
特に下瀞の上流は瀞八丁【どろはっちょう】と呼ばれ有名である。峡谷の両岸には高さ50mに及ぶ断崖、巨岩、奇岩、洞窟が1km以上続く日本屈指の景勝渓谷であり、国の特別名勝および天然記念物に指定されている。
名 称 | 瀞峡 |
所在地 | 三重県熊野市紀和町木津呂 和歌山県新宮市熊野川町日足272 |
Link | 瀞峡 | 熊野観光開発株式会社 【十津川村観光協会】 瀞峡 瀞峡観光ウォータージェット船|新宮市観光協会 |
あとがき
吉野熊野国立公園は、紀伊半島の中央部から南西岸までの広大な地域を占め、山岳や渓谷の大自然に触れることができる素晴らしい自然公園であることを改めて知ることができた。
特に、山岳部は吉野山や大峰山を中心とする地域であり、長い歴史もあって興味深い地域である。
修験道についてはほとんど知識がなかったが、日本の神道や仏教にも強い影響を与えているのでこれを機会に少し勉強してみたくなった。予備知識があればこの地域の寺社を訪ねた際にはもう少しよく理解できたかも知れないと反省している。