はじめに
九州中央山地【きゅうしゅうちゅうおうさんち】国定公園は、熊本・宮崎の両県にまたがる九州中央部(脊梁部)の森林山岳と渓谷を指定区域とする国定公園である。降水量が非常に多いため、常緑樹や落葉樹の森林が発達している。また綾北川【あやきたがわ】や綾南川【あやみなみがわ】の上流域には渓谷が発達している。指定区域に含まれる著名な山としては国見岳【くにみだけ】(標高1,739m)や市房山【いちふさやま】(1,721m)などがある。
また、国定公園の周辺には椎葉、五木、五家荘、米良荘など古くから平家の落ち武者が隠棲したといわれる隠れ里がある。これらの地域には民謡や伝承並びに説話が伝わり、民俗学の宝庫として知られ、観光客を多く集める要因となっている。
本稿は、主として五家荘について記載したものである。かつて車道が開通していなかった時代にはまさしく「隠田集落」であったことが実感できた。
五木
五木村【いつきむら】は、熊本県南部に位置する村で、「五木の子守唄」の発祥の地として有名である。
村全体が九州山地の山岳地帯にあるため、標高1,000m以上の山岳が連なり、平坦部は非常に少なく、峡谷が多い急峻な地形が特徴である。 総面積の96%超を山林が占め、村全域が九州山地の一角をなしている。
五木村の可住地域のほぼ全てが川辺川ダムの水没予定地のため、代替地と代替路の建設は完成しており、住民は順次移転しているという。
五木の子守唄
五木の子守唄【いつきのこもりうた】は、五木村に伝わる子守唄で、熊本県を代表する民謡として知られる。
五木の子守唄は、子供を寝かしつけるための子守唄ではなく、子守をする少女が、自分の不幸な境遇などを歌詞に織り込んで子供に唄って聴かせ、自らを慰めるために歌った歌であるとされる。
子守唄には子守女がみずからの貧しく恵まれない薄幸な境遇(年貢代わりに働かされる)を嘆き、悲しい日々の生活心情を基盤に、この種の子守唄は伝承されてきている。
かつて子守の少女たちは、家が貧しいために、年貢代わりに働かされたり、あるいは「口減らし」のために、地主に預けられることが多かったという。悲しい日々の生活心情を吐露した、少女たちの悲哀が五木の子守唄となって伝承されている。
おどま かんじん かんじん あん人たちゃ よかしゅ よかしゃ よかおび よかきもん | おどま勧進勧進 あん人たちゃ良か衆 良か者 良か帯 良か着物 |
歌詞の「おどま勧進勧進」における「勧進」とは、三十三人衆と呼ばれる地主層に対しての勧進(小作人)という意味で、ここでは「物乞い・乞食」という意味で用いられている。
歌詞の意味は「私は乞食のようなものだ。(それに比べて)あの人たちは良か衆(お金持ち・旦那衆)で、良い帯を締めて立派な着物を着ている」となる。
伝承によれば、源平の戦いに敗れた平氏一族が五家荘【ごかのそう】に定着したので、鎌倉幕府は梶原氏や土肥氏など東国の武士を送って隣の五木村に住まわせ、平氏の動向を監視させたという。その後、その武士の子孫を中心として「三十三人衆」と呼ばれる地主層が形成されたという。
「かんじん」と呼ばれた小作人たちは田畑はもちろん、家屋敷から農具に至るまで三十三人衆から借り受けて生計を立てなくてはならなかった。そして小作人の娘たちも10歳になれば、地主の家や他村へ子守奉公に出されたという。五木の子守唄はこの小作人の娘たちの悲哀を歌ったものであるとされる。
名 称 | 五木 |
所在地 | 熊本県球磨郡五木村甲 |
Link | 知る / 観光情報 / 五木村 |
五家荘
五家荘【ごかのしょう】は、熊本県八代市東部に位置する、久連子【くれこ】・椎原【しいばる】・仁田尾【にたお】・葉木【はぎ】・樅木【もみき】の5地域の総称である。
九州山地の西部に位置し、川辺川の水源となる山林地域にある。古来より秘境として知られ、平家の落人伝説でも知られる。
伝承によれば平清経が壇ノ浦の戦いの後に伊予国今治に落ち延び、阿波国祖谷を経て、伊予国八幡浜から九州に渡ったという。この伝承によると清経一行は豊後国の緒方家を頼ったとされ、姓を「緒方」に改め、その後は五家荘にある五つの地域のうち清経の長男の盛行が椎原、次男の近盛が久連子、三男の実明が葉木に移り住んだという。
また、別の伝承によれば平清経の曾孫たちが「緒方」を名乗って久連子・椎原・葉木を治め、菅原道真の子孫たちが「左座」【ぞうざ】を名乗って仁田尾・樅木を治めたと伝えられている。
平清経の一行が落ち延びたとされる五家荘は、紅葉の名所としても有名な所ではあるが、山深くに位置しており、車で行くにしても道は険しくかなり時間を要する。
車社会でなかった時代には、源氏の追討から避けるためには最適の地であったのだろう。この地には平家の落人の伝承と言われる「久連子古代踊り」があり、国選択無形民俗文化財として後世に残されている。
名 称 | 五家荘 |
所在地 | 熊本県八代市泉町五家荘 |
Link | 五家荘 | 【公式】熊本県観光サイト |
椎原
椎原【しいばる】地区に入ると道幅が狭くなり、典型的な山道になった。対向車は少ないとはいえ、対向車が全くないわけではないので、運転は緊張した。
五家荘は紅葉でも有名である。
名 称 | 椎原 |
Link | 緒方家|観光スポットを探す|きなっせやつしろ |
樅木
樅木の吊橋【もみきのつりばし】は、樅木地区の観光名所の一つになっている。この吊橋は、長さ72m、高さ35mのあやとり橋と、長さ59m、高さ17mのしゃくなげ橋の親子吊橋である。二つの吊橋を合わせて「樅木の吊橋」と呼ぶ。
一般的な吊橋はロープやワイヤーなどで吊り下げられているが、「樅木の吊橋」は下に張られたワイヤーで支えるという構造になっていて、橋板の上は手すりだけで、最初に見たときには不思議に感じたものである。
名 称 | 樅木の吊り橋 |
所在地 | 熊本県八代市泉町樅木 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 樅木の吊り橋 | 【公式】熊本県観光サイト |
葉木
梅の木轟【うめのきとどろき】公園吊り橋は、周囲の景観も良いことから葉木地区の観光名所の一つになっている。
梅の木轟公園吊り橋の長さは116mで、高さは55mもある。
吊橋の対岸にはかつて「幻の滝」と呼ばれていた「梅の木轟」という滝があり、この吊橋はその滝に行くための橋である。
この吊橋がない時代には滝を観ることが困難であったために「幻の滝」と呼ばれていたようだ。高所が苦手な私は橋を渡れないので、今でも「幻の滝」のままである。
名 称 | 梅の木轟公園吊り橋 |
所在地 | 熊本県八代市泉町葉木94 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 梅の木轟公園吊り橋|【公式】九州の今 |
椎葉
椎葉村【しいばそん】は、宮崎県北部の九州山地中央部に位置する村である。国見岳をはじめ九州山地中央部の標高1000mから1700m級の山々に囲まれている。村域の大部分は耳川【みみかわ】源流域で、一部が一ツ瀬川や小丸川の源流域にまたがる。
険しい地形のため可住地面積は村域のわずか4%に過ぎず、川沿いや山の中腹域の緩斜面に集落が点在している。村域の大半が九州中央山地国定公園の指定区域である。
伝承では、壇ノ浦の戦いで滅亡した平氏の残党が、この地に落ち延びたとされる。
椎葉村に伝わる平家の落人伝説では、那須大八郎(那須宗久)は平家残党を追討するために鎌倉から日向国椎葉村へ派遣されたが、平家の残党には平家再興の意思はなく、平和に暮らしていると判断して、追討せずに残党は討伐されたと鎌倉へは報告をしたという。そして、そのまま後椎葉村に留まったとされる。滞在中に大八郎は鶴富姫を寵愛し、彼女は妊娠するが、大八郎は鎌倉帰還の命令を受け、男の子なら連れてくるように、女の子ならここで育てるようにといって、太刀と系図を与えて鎌倉へ帰還した。その後、鶴富は女子を生んだという。
ひえつき節
ひえつき節は、稗搗節とも書き、椎葉村で代々歌われてきた労働歌であり、いまでは民謡になっている。
元々は稗を臼に入れ杵で搗(つ)く時に歌われた労働歌であるという。現在の「庭のさんしゅう(山椒)の木、鳴る鈴かけてヨーホイ」で始まる歌詞は昭和になって作られたもので、全国的に人気を博したらしい。毎年9月の第2土曜・日曜日には、椎葉村開発センターで「ひえつき節日本一大会」が開かれてきたという。
名 称 | 椎葉村 |
所在地 | 宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良 |
Link | 椎葉村ホームページ|椎葉村 |
米良荘
米良荘【めらのしょう】は、九州山地南東部の一ツ瀬川の上流域一帯を指す地名で、現在の宮崎県西米良村、西都市東米良地区・寒川地区辺りを指す。
平地が少ない山地の地形のため、集落は尾根の緩斜面に形成されている。米良荘の集落は谷底を通る米良街道からは見えない。村所の町並みには古い建物は僅かながら残っており、西暦1500年頃から幕末に至るまで米良荘を支配していた菊池氏の子孫が住んでいたとされる住宅が、記念館として村所に保存されている。
名 称 | 米良荘 |
所在地 | 宮崎県児湯郡西米良村 |
Link | 宮崎県:西米良村の隠田集落(一ッ瀬川) 西米良村 (nishimera.jp) |
あとがき
隠田集落【おんでんしゅうらく】という用語を今回の旅で学ぶ機会を得た。隠田集落は、中世末から近世初頭にかけて戦乱の落ち武者や貧農によって山野の奥深くに開かれた集落のことである。貧しい農民が年貢を免れるために開拓する場合もあったという。
隠田集落の例としては、九州山地の五家荘、米良荘や椎葉、四国山地の祖谷【いや】、中央高地の白川郷や五箇山郷などが知られている。平家の落人伝説が残されているのはこうした集落であることが多い。
これらの隠田集落では、長く他地域の村と隔絶した生活を続けたので、昔からの風習や伝承、独自の年中行事などを残しているところが多く、今日ではそれが観光資源にもなっている。(引用:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
五家荘の一部に車で旅しただけであるが、道幅も狭く、急坂が続く林道に近い道路から、かつて車道が開通していなかった時代には「隠田集落」であったことが容易に理解できた。平家の落人伝説や伝承が残る里と言われれば率直に信じてしまう説得力がこの地にはある。人が暮らすにはもっと便利になった方が良いと思う反面、この大自然を後世に残してほしい気もある。この地で暮らす人々の判断に託すしかない。
【参考資料】
知る / 観光情報 / 五木村 |
五家荘 | 【公式】熊本県観光サイト |
樅木の吊り橋 | 【公式】熊本県観光サイト |
梅の木轟公園吊り橋|【公式】九州の今 |
椎葉村ホームページ|椎葉村 |
西米良村 (nishimera.jp) |
宮崎県:西米良村の隠田集落(一ッ瀬川) |