◆ はじめに
「伊賀の国」は、かつて日本の地方行政区分として設けられた令制国の一つで、現在の三重県西部・上野盆地一帯に相当し、東海道に属していた。「伊賀」という呼称は現在でも三重県の伊賀地方を指す名称として用いられ、伊賀市と名張市を中心に構成されている。伊賀は 伊賀流忍者の発祥地 として広く知られるほか、伊賀焼(陶器・炻器) や 伊賀組紐 の産地としても名高い。
やや唐突ではあるが、「仇討ち」【あだうち】とは、主君や親族を殺した相手を討ち取り、恨みを晴らす行為、すなわち「敵討ち」【かたきうち】を指す。武士社会における慣習であり、江戸時代には法制化された私的復讐制度として認められていたという。
明治時代に禁止されるまで、仇討ちは日本社会において「賞賛されるべき行い」として受け止められてきた歴史がある。武士の忠義や勇気を象徴するものとして、江戸時代には文学・芝居・講談などの題材として広く扱われ、民衆からも支持されていたからである。
武家社会が長く続いた日本史の中で、特に有名な三つの仇討ち事件は「日本三大仇討ち」と呼ばれ、次の三件が語り継がれてきた。
- 曾我兄弟の仇討ち(父の敵討ち)
- 赤穂浪士の討入り(主君の敵討ち)
- 鍵屋の辻の決闘(弟の敵討ち)
曾我兄弟の仇討ちは鎌倉時代初期に起きた事件で、武士社会における仇討ちの模範とされてきた。 赤穂浪士の討入りは江戸時代前期の事件で、「日本三大仇討ち」の中でも最も有名であろう。忠義と義侠の精神を示すものとして高く評価され、武士だけでなく民衆からも熱烈に支持されていたという。
そして、本稿で取り上げる 「鍵屋の辻の決闘」 は、江戸時代初期に起きた仇討ち事件で、剣豪としての技量と勇気を示すものとして民衆から称賛されてきた。
私は特に仇討ちそのものに強い関心があるわけではない。しかし、語弊を恐れずに言えば、現代の私たちから見れば日本史に大きな影響を与えたわけでもない「個人的な私怨による殺戮事件」が、史跡として三重県伊賀市の一角に今も残されている という事実に、驚きと興味を覚えずにはいられなかった。
歴史に関心を持つ者の一人として、もう少し詳しく調べてみたいと思った次第である。この話題についてきてくださる方は、きっと相当な歴史好きに違いない。
鍵屋の辻の決闘の概要
「鍵屋の辻の決闘」とは、江戸時代の寛永11年(1634年)に、渡辺数馬と荒木又右衛門が、数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀上野の鍵屋の辻で討ち果たした事件を指す。
この仇討ちの発端は、岡山藩主・池田忠雄の寵童(寵愛する小姓)であった渡辺源太夫(数馬の弟)が、河合又五郎に殺害されたことに始まる。 又五郎が源太夫を殺害した理由については、源太夫に横恋慕して関係を迫ったが拒絶され、逆上して斬り捨てたと伝わっている。現代の感覚で言えば、上司の寵愛を受ける若者に手を出し、思いどおりにならないから殺害したということであり、源太夫にとってはまさに理不尽な災難であった。又五郎は、現代の法制度であれば極刑に処されてもおかしくない凶行を犯したと言える。
殺害後、又五郎は江戸へ逃れ、旗本・安藤家に匿われた。しかし、この安藤家と池田家には、もともと相容れない因縁があった。 安藤家は足利義昭の重臣・安藤宗家の子孫で徳川家康の親戚筋にあたり、一方の池田家は織田信長・豊臣秀吉に仕えた池田恒興の家系である。両家は「小牧・長久手の戦い」で敵味方に分かれ、安藤宗家の長男・直次が池田恒興とその嫡男・元助を討ち取ったことが池田家の深い怨恨として残ったとされる。
このような因縁のある両家の間に、又五郎の存在が波風を立てないはずがない。池田家は藩士である又五郎の身柄引き渡しを幕府に訴え、旗本・安藤家と外様大名・池田家の対立はさらに激化した。
池田忠雄は死の間際に仇討ちを遺言し、渡辺数馬は旗本の庇護を受ける又五郎を討つために脱藩した。そして、剣術の達人であった義兄・荒木又右衛門に助太刀を依頼したのである。
数馬と又右衛門は、又五郎の居場所を突き止め、伊賀上野の鍵屋の辻で待ち伏せし、最終的に又五郎を討ち果たした。この事件が「鍵屋の辻の決闘」として後世に語り継がれ、多くの小説・映画・ドラマの題材となったのには理由がある。
◆ 不公平な戦力差
この決闘は、実は人数的に極めて不公平な戦いであった。 河合又五郎は、旗本・安藤家の近親者を中心とした 10名の護衛 を伴っていた。同行者は以下のとおりである。
- 河合又五郎(本人)
- 安藤次右衛門正珍(又五郎を匿った旗本)
- 安藤正勝(正珍の子)
- 安藤正重(正珍の弟)
- 安藤正利(正珍の弟)
- 安藤正信(正珍の弟)
- 安藤正勝(正珍の甥)
- 虎屋九左(右)衛門(護衛)
- 河合甚左衛門(又五郎の叔父・元郡山藩剣術指南役)
- 桜井半兵衛(槍の名人・摂津尼崎藩槍術指南役)
- 氏名不詳の護衛一名
一方、渡辺数馬側は、 数馬本人・荒木又右衛門・森(岩本)孫右衛門・河井武右衛門のわずか4名。 11名対4名、実に 2.75倍の戦力差 であり、数馬側は圧倒的不利であった。
それでも数馬と又右衛門は果敢に戦い、又五郎を含む4名を討ち取った。討たれたのは、又五郎のほか、河合甚左衛門、桜井半兵衛、虎屋九左(右)衛門であったとされる。
一方、数馬側の死者は河井武右衛門のみであった。 決闘後、数馬と又右衛門は岡山藩の分家である鳥取藩池田家に帰参したが、又右衛門は4年後の1638年に急死している。死因については毒殺説など諸説あり、定かではない。
荒木又右衛門は柳生新陰流の門人であり、鍵屋の辻の決闘で強敵二名を倒したことで剣豪としての名声を確立した。江戸時代には一躍人気者となり、後世の創作では「36人斬り」と誇張されることもあった。
一方、又五郎側で生き残った者たちは幕府の命で謹慎処分となり、安藤次右衛門が寛永13年(1636年)に死去した後に復帰を許されたものの、幕府や外様大名からの信頼を回復することはできなかったという。
以上が「鍵屋の辻の決闘」の概要である。 歴史に興味のある方なら、さらに深く知りたくなる題材ではないだろうか。
伊賀越資料館
伊賀越資料館は、「日本三大仇討ち」の一つに数えられる「伊賀越鍵屋の辻の決闘」に関する資料を展示する博物館である。

ちなみに「鍵屋の辻の決闘」が「伊賀越の仇討ち」とも呼ばれる理由は、仇討ちの舞台となった「鍵屋の辻」が伊賀国の上野城下にあり、仇討ちの相手である河合又五郎が10名の護衛に守られて伊賀国を越えて江戸に逃げ延びようとしたためで、そこから「伊賀越の仇討ち」とも呼ばれるようになったと言われている。

伊賀越資料館が位置しているのは、かつて「鍵屋の辻」と呼ばれた場所であり、まさしく「鍵屋の辻の決闘」があったとされる史跡である。

伊賀越資料館は、建物の老朽化や見学者の減少、さらには委託先の不在などが理由で、平成31年(2019年)4月1日から休館中である。現時点では再開の目途は立っていないという。
資料館では、仇討の経緯や使用された武具、当時の鍵屋の辻を再現したジオラマなどが展示されていたらしいが、現在は閉館中のため、それらを見学できない。残念である。

また、資料館の裏には、河合又五郎の首を洗ったとされる「洗首の池」があるが、現在は近づくことはできない。
資料館の周辺は公園として整備されており、仇討ちの待ち伏せをしていたとされる茶屋を再現した「数馬茶店」もあるが、現在は営業していない。

ごく最近まで営業していたような雰囲気があるだけに、資料館の休館が長引いていることが原因で閉店することになったのだと推測される。
| 名 称 | 伊賀越資料館 |
| 所在地 | 三重県伊賀市小田町1321 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 伊賀越資料館 – 伊賀上野観光協会 |
◆ あとがき
伊賀越資料館が休館中であり、当然ながら観光客はほとんどいない状態ではあるが、地元の人らしい数人がベンチでくつろいでいた。

公園内には池があり、池の周囲にはカエデが多く植栽されている。そのため春は若葉、夏は青葉、秋は紅葉、冬は寒樹と四季を通して市民を楽しませてくれる場所となっているのだろう。
