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    伊賀に息づく忍びの実像──伊賀流発祥地で学ぶ伊賀忍者

    目次
    はじめに
    伊賀流忍者の里
    伊賀流忍者博物館
    伊賀流忍者の歴史
    伊賀流忍者の政治・組織
    伊賀流忍者の得意な忍術
    伊賀流忍者の流儀
    忍装束
    変装術
    忍者の食事
    忍者の携帯食
    忍者の遁走術
    忍者の歩法と走法
    忍者の体力(指で体重を支える腕力)
    忍者の使用道具
    忍者特有の武器
    忍者文字
    甲賀流忍者との相違点
    あとがき

    はじめに

    「伊賀の国」は、かつての日本の地方行政区分で、現在の三重県西部・上野盆地一帯に相当する令制国の一つであり、東海道に属していた。「伊賀」という呼称は現在でも三重県の伊賀地方を指す名称として用いられ、伊賀市と名張市を中心に構成されている。伊賀は伊賀流忍者の発祥地として広く知られ、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても名高い。

    海外、特にアメリカでは「NINJA」が人気だと聞くが、私自身も子どもの頃は忍者ものの漫画やドラマ、映画が大好きだった。理由は単純で、手裏剣や忍術を自在に操る姿がとにかく格好よく、強い憧れを抱いていたからだ。

    当時は忍者を主人公にしたテレビドラマがよく放映されていた。かつて野球中継がサッカーよりも多かったように、単に目にする機会が多かっただけかもしれない。しかし、それでも忍者への憧れは特別なものだったように思う。アメリカでNINJAが注目されるのも、そんな“格好よさ”が普遍的に響くからではないかと想像している。

    私の好きな司馬遼太郎の作品にも忍者が登場する。たとえば長編小説『風神の門』では、伊賀流忍者の霧隠才蔵【きりがくれさいぞう】が主人公として描かれ、真田十勇士の筆頭として甲賀流忍者の猿飛佐助も登場する。

    伊賀流忍者と甲賀流忍者は、忍者の世界における二大勢力とされる。忍者の主な任務は諜報活動であり、戦時には傭兵として戦いに参加し、敵陣の攪乱や破壊工作を担ったとされる。

    両者の里は、現在の三重県伊賀市と滋賀県甲賀市の山間部に位置し、山を隔てて隣接するほど近い距離にある。漫画やドラマでは伊賀と甲賀が常に敵対するように描かれるが、それはあくまでエンターテインメントの演出であろう。地理的な近さを考えれば、むしろ良好な関係を保っていたと考える方が自然である。隣人同士が協調して暮らすことは、古来より変わらぬ道理である。

    幸いにも、私は今、かつて伊賀国に属した名張市で過ごす時間が長くなっている。名張市からは、伊賀流忍者の里・伊賀市にも、甲賀流忍者の里・甲賀市にも比較的近い。この地の利を活かし、両者の里を訪ねて伊賀流と甲賀流の虚像と実像を学び、その違いを探ってみた。

    本稿では、まず伊賀流忍者について記す。甲賀流忍者については別稿にて紹介したい。


    伊賀流忍者の里

    伊賀流忍者博物館

    伊賀流忍者の里である伊賀市内には伊賀流忍者博物館がある。まずはそこを訪ねて伊賀流忍者について学ぶことにした。

    伊賀流忍者博物館は、伊賀流忍者に関する博物館である。伊賀流忍者の歴史や実際の活動について解明された事実について学ぶことができる。

    この博物館では伊賀流忍者の歴史や実際の活動について解明された事実について学ぶことができる。

    館内には、伊賀流忍者が実際に使用されたとされる武器や道具、忍術書などが展示されている。

    また、伊賀流忍者の実演ショーも行われており、忍者気分を味わうことができるということで人気を博している。

    名 称 伊賀流忍者博物館
    所在地三重県伊賀市上野丸之内117(上野公園内)
    入館料大人800円
    Link伊賀流忍者博物館 | 忍者屋敷
    伊賀流忍者博物館 – 伊賀上野観光協会

    伊賀流忍者の歴史

    忍者とは「忍術を使う者」を指すが、その起源には諸説あり、誰が始祖であるかは明確ではない。一説には、聖徳太子(厩戸皇子)に仕えた大伴細入【おおとものさいにゅう】が最初の忍者であったとも伝えられるが、史料が乏しく、伝説の域を出ない。

    伊賀流忍者の起源については、現在の研究では、鎌倉時代に荘園内で反抗的な行動をとった「悪党」に求める説が現実的とされている。

    伊賀国(現在の三重県伊賀市・名張市)には奈良時代以降、東大寺・興福寺などの荘園が多く存在した。荘園領主に抵抗した土着の地主層は「伊賀惣国一揆」の首謀者として「悪党」と呼ばれたが、これはあくまで荘園領主側からの呼称であり、どちらが“悪”であったかは立場によって異なる。

    この悪党たちは、荘園領主に対して奇襲や撹乱などの戦法を用いて戦ったとされる。また、彼らの中には修験道と関わりを持つ者もおり、山伏の戦法を学び、先達【せんだつ】として各地を巡る際に情報収集を行ったと考えられている。

    伊賀上忍御三家の一つである百地氏も、もとは悪党と呼ばれた大江氏の一派とされる。大江氏が大峰山で修行した記録も残り、さらに伊賀周辺には笠置山や赤目四十八滝など修験の場が多いことから、修験道との関係は深かったと推測される。

    室町時代に入り、荘園領主が衰退すると悪党の活動は次第に消えるが、その血を引く「地侍」【じざむらい】が台頭する。戦国時代になると、彼らは「伊賀衆」【いがしゅう】と呼ばれ、畿内の戦国大名に傭兵として従軍し、京都・奈良・滋賀・和歌山などへ出陣したことが史料から確認されている。

    伊賀衆の戦法は、夜襲や潜入、放火などが中心であったと記されており、この頃から彼らは「忍び」と呼ばれるようになったとされる。

    天正9年(1581年)の「第二次天正伊賀の乱」では、織田信長の大軍によって伊賀全土が焼き払われ、多くの住民が犠牲となった。伊賀衆は最後まで抵抗したが、和議の末に降伏し、伊賀の地は壊滅的な打撃を受け、「伊賀の忍び」は諸国へ離散した。

    しかし、翌年の「本能寺の変」で信長が倒れると状況は一変する。徳川家康が堺から三河へ逃れる際、服部半蔵ら伊賀者に護衛されて難を逃れた(「神君伊賀越え」)ことを契機に、伊賀衆は徳川家に仕えるようになった。

    江戸時代に入り、伊賀国が藤堂家(津藩)の支配下に置かれると、「忍び」の子孫は「伊賀者」として藩主の護衛や情報収集を担った。また、「無足人」【むそくにん】と呼ばれる農兵として帯刀を許され、村の自治を任されるなど、武士に近い待遇を受けていたとされる。

    忍術の百科事典と称される『萬川集海』を著した藤林氏(伊賀上忍御三家の一つ)も地侍の家系で、江戸時代には「伊賀者」として上野の城下町に移り住んだと伝えられる。

    そのほか、商人などに転じた忍びの末裔も城下町に暮らし、先人の知恵の結晶である忍術伝書を大切に守り伝えてきた家もあるという。


    忍者の社会

    伊賀流忍者の政治・組織

    伊賀流忍者(伊賀の忍者集団)の社会には、上忍と下忍という身分的な上下関係があり、意思決定権は「伊賀上忍御三家」が握っていたとされる。

    伊賀上忍御三家とは、百地氏・藤林氏・服部氏の三家を指す。これらの家系が上忍として特権的な地位を占め、下忍を統率していたと考えられている。中でも御三家は伊賀の忍者集団の中で絶大な影響力を持ち、他の家の忍者たちもその判断に従うことが多かったという。

    御三家の一つである百地氏は、物語で有名な百地三太夫【ももちさんだゆう】を輩出した家系とされるが、三太夫は史実ではなく架空の人物と考えられている。実在の人物としては、織田信長に抵抗した伊賀国の武士・百地丹波【ももちたんば】(百地丹波守正西)がモデルとされる。

    藤林氏も御三家の一つであり、子孫の藤林保武は、忍術の百科事典とも称される『萬川集海』を著したことで知られる。伊賀流忍術を体系化した貴重な資料として、現在も高く評価されている。

    最後に服部氏である。服部氏といえば、全国的に名の知られた服部半蔵【はっとりはんぞう】を輩出した家系である。半蔵は徳川家康の「伊賀越え」を助けたことで特に有名で、伊賀者の代表的存在として語り継がれている。


    忍者の技術

    伊賀流忍者の得意な忍術

    伊賀流忍者が得意とした忍術には、催眠術や手品的な要素を含む呪術、そして火薬玉を用いて姿を隠す「火遁の術」があったと伝えられている。

    代表的な呪術として知られるのが「九字護身法」である。これは「印明護身法」や「十字の秘術」とともに用いられたとされる。

    印明護身法は、「浄三業」や「蓮華印」など五種類の印を結び、呪文を唱えるもの。一方、十字の秘術は、天・龍・虎など十の文字を手のひらに書き、それを飲み込んだり握ったりするという独特の作法を伴う。

    こうした呪術は、映像作品では非常に格好よく描かれるが、文字で説明されても理解しにくい。実際には、術者自身の精神統一を促し、強烈な自己暗示によって極限の集中力を引き出すための技法であったと考えられている。一定以上の身体能力と精神力を備えた者でなければ習得は難しく、凡人が真似をしても滑稽に見えてしまっただろう。

    伊賀流忍者は火術にも長けていた。火薬玉を爆発させ、煙に紛れて姿を消す「火遁の術」は、忍者の遁走術として私たちのイメージに深く刻まれている。伊賀流は特に火術を得意とし、火薬玉のほか、火矢・狼煙・ほうり火矢・埋め火、さらには鉄砲など、火を操る多様な技術を駆使したとされる。

    火薬や火を用いた攻撃は、敵に恐怖と混乱を与える効果が大きい。伊賀流忍者が畏れられた理由の一つは、この火術の巧みさにあったのだろう。

    伊賀流忍者が火術に精通した背景には、伊賀の地が火薬の原料を入手しやすい環境にあり、火薬に詳しい者が多かったという事情がある。火薬の調合方法は秘伝中の秘伝として家伝扱いされ、外部に漏らすことは固く禁じられていたと伝えられている。


    伊賀流忍者の流儀

    忍者集団と依頼者との関係は、現代のビジネスに似ていたとも言われる。戦国大名などの権力者が依頼人となる場合、伊賀上忍御三家が方針を決め、下忍を傭兵として派遣し、依頼者と互いに利益を得る「Win-Win」の関係を築いていたと考えられている。

    興味深いのは、敵対する大名同士から同時に依頼があった場合でも、伊賀忍者は双方の依頼に応じていたと伝わる点である。当然ながら、状況によっては伊賀忍者同士が戦場で相まみえることもあったようだ。実際に殺し合いにまで至ったかは定かではないが、そうした可能性があったことは否定できない。

    また、戦国時代の伊賀忍者は、織田信長とは険悪な関係にあり、徳川家康とは良好な関係を築いたとされる。

    その背景には、「天正伊賀の乱」で織田信長と伊賀の忍者集団が二度にわたり衝突した歴史がある。最初の戦いでは伊賀側が奇襲に成功し、織田軍を撃退した。しかし二度目の戦いでは、信長自らが大軍を率いて伊賀を攻め、伊賀の里は壊滅的な打撃を受けた。

    ところが、天正10年(1582年)の「本能寺の変」で信長が倒れると状況は一変する。徳川家康が堺から三河へ逃れる際、服部半蔵ら伊賀者に護衛されて難を逃れた──いわゆる「神君伊賀越え」である。この出来事を契機に、伊賀の忍者集団は徳川家に仕えるようになったとされる。


    忍装束

    忍者は、普段は一般の武士や農民と変わらない服装をしていたとされる。しかし、敵情を探るために忍びに出る際には、身軽で目立たない「忍装束」【しのびしょうぞく】を身に着けた。

    テレビドラマや映画では黒一色の忍装束が定番だが、実際には真っ黒ではなかったとされる。黒は月明かりの下で輪郭が浮き上がりやすいためである。赤やピンクなど派手な色の忍装束は、完全にフィクションの世界の演出であり、史実的な根拠はない。

    伊賀流忍者の実際の忍装束は、クレ染めの濃紺が主流であったという。この紺染めは、まむし除けの効果があると信じられており、機能性の面でも優れていた。また、忍装束の原型は伊賀地方の農民の作業着に覆面を加えたもので、夜間の行動に適した実用的な服装だったと考えられている。

    一方、甲賀流忍者は、表地が茶染・柿染などの茶系統、裏地が黒または鼠色の着物を着用していたと伝わる。自然の中で目立ちにくい色合いであり、こちらも合理的な選択であった。

    甲賀の忍装束の上着の内側には物入れが設けられ、そこにはシコロ(小型の両刃鋸)や三尺手拭などの細長い道具を収納した。また、胸元には銅鏡や渋紙・油紙・和紙などを入れ、簡易的な防弾具としても利用したという。

    身につけるものすべてが、防御と攻撃の両面に役立つよう工夫されていた。忍装束ひとつをとっても、忍者が常に合理性を追求し、知恵を凝らしていたことがよく分かる。


    変装術

    忍者の衣装には忍装束の他にも、情報収集のために出掛けるときの七方出【しちほうで】という変装術用の衣装がある。

    ただ変装するだけではなく、尺八を覚えたり、お経や呪術も学んで、ときには方言までも習得するなど、怪しまれないためのいろいろな工夫や鍛錬に努めていたという。

    忍者の変装術「七方出

    商人
    怪しまれることが少なく、品物を売り歩きながら 情報を収集できた。
    放下師【ほうかし】
    現在の手品師のこと。敵を油断させるのに都合がよかった。
    虚無僧
    編み笠をかぶっているので、顔を隠すことができた。
    出家
    お坊さんのことで、怪しまれにくく、 托鉢をしながら情報を集めた。
    山伏
    出家と同じように、人に怪しまれることが少なかった。
    猿楽師
    能役者のことで民衆に人気があった。また猿楽の好きな大名に招かれることもあり、敵城内を探ることもできた。
    常型
    表が普段の服装で、裏が別物の装束のこと。リバーシブルの着物で、いざというときには着替えて敵の目をごまかしたという。
    忍者の変装術七方出

    これらの七方出のほかにも、連歌師や琵琶法師、薬売りなどにも変装していたという。


    忍者の食事

    普段の食事は、アワ・ヒエ・玄米・麦などの穀物やイモ類と野菜を中心にした食事であったらしい。

    シイ、クワ、グミ、トチ、クリ、カヤなどの木の実やウズラの卵なども食していたという。これは、敵の屋敷に忍び込む時、居場所を悟られないように体臭に繋がる匂いの強い食材は食べないように気をつけていたからだという。ここにも合理性がある。

    ただし、食べたい食事を一切断ち切っていたわけではなく、体力をつけるために肉や魚を食べることもあったらしい。合理的な判断が栄養管理においてもなされている。今日流行のダイエットにも忍者の知恵を生かさない手はない。


    忍者の携帯食

    当時の主な携帯食である干し飯などの他に、下記のような忍者特有の携帯食もあったという。

    水渇丸(のどの渇きを抑えるための携帯食)
    梅肉を叩いた物に麦角(イネ科に寄生する菌)と砕いた氷砂糖を加えて丸薬にしたもの。
    飢渇丸(飢えをしのぐための携帯食)
    人参、そば粉、小麦粉、山芋、甘草、はと麦、もち米を粉末にして、酒に3年浸す。 酒が乾いたらモモの種ぐらいに丸めて丸薬状にしたもの。

    非常食として現代の登山の際にも使えそうなものである。


    忍者の遁走術

    忍術は武術ではないから、人と交戦することは最後の手段で、そのための護身術として手裏剣や武器を使用したという。

    忍者の使命は諜報活動、つまり情報を持ち帰ることを仕事としていたので逃げ延びる忍術が多種多様にあったという。中でも有名な遁走術としては下記のようなものがあったと伝わっている。

    火遁の術
    火事や火薬(ほうり火矢・埋め火・爆竹)を使って敵を混乱させ、そのすきをついて逃げる。テレビドラマや映画で、よく目にする遁走術の代表格である。
    水遁の術
    水の中に姿を隠す。テレビドラマや映画で、忍者が城の堀池に身を隠して近づき、そこから城壁を駆け登り、城内に忍び込むシーンがある。
    煙遁の術
    煙玉を爆発させて煙幕をはる。この忍術もテレビドラマや映画で、よく目にする遁走術の代表格の一つである。
    金遁の術
    撒き菱や、手裏剣を使った逃げ方である。撒き菱は、当時の主流の履物であった草履には有効であったと推察される。
    隠形術
    草叢【くさむら】に隠れたり(木の葉隠れ)、物陰に隠れる(観音隠れ)、石に擬態する(ウズラ隠れ)などの隠遁術を指す。私は「木の葉隠れ」は木の葉が舞う間に隠遁する忍術だとばかり思っていたが、実際はそうではなかった。私のイメージは漫画の世界での忍術であったということである。

    忍者の歩法と走法

    忍者の諜報活動は、情報の収集と伝達が主であるから忍び込むためのひっそり歩く技術と、得た情報をいち早く伝えるための走力を必要とした。

    歩くための代表的な忍術として、下記の5つが伝わっている。

    忍び足
    音を立てないよう足の小指から徐々に体重をおろして歩く方法を指す。現在でも「物音を立てずにゆっくりと歩くこと」を「忍び足」と呼ぶことがある。
    浮足
    つま先から足を下ろす。
    犬走
    立って歩けないところを四つんばいで歩く。
    狐走
    音を全くたてずに、立って歩けないところをつま先を立てた四つんばいで歩く。
    深草兎歩
    音を全くたてずに、手の上に足を乗せて歩く。

    速く走れなければ、忍者にはなれなかったと伝えられている。とりわけ「韋駄天」と呼ばれる俊足の忍者は、一日に50里(約200km)を走破したとも言われる。2022年の24時間テレビのチャリティーマラソンが100kmであったことを思えば、その倍の距離を走ったという伝承は驚異的である。

    呼吸法としては「二重息吹」が知られている。 「吸う・吐く・吐く・吸う・吐く・吸う・吸う・吐く」という独特のリズムで呼吸を繰り返し、酸素の摂取量を増やし、雑念を払って集中力を高めるための技法とされる。しかし、これだけで速く走れるわけではない。

    忍者の歩法や走法は、日々の鍛錬によって身につけられたものだろう。常人には到底まねできない身体能力と持久力が求められたに違いない。少なくとも私には、この走る訓練だけでも忍者になるのは不可能であるし、なりたいと願ったところで到底なれなかっただろう。


    忍者の体力/指で体重を支える腕力

    忍者は天井裏での活動が多かったため、日頃から指の力を鍛えていたとされる。自分の体を持ち上げたり、梁にぶら下がったりするためには、強い握力と指力が不可欠だった。

    その訓練には米俵が使われたという。米俵は一俵およそ60kgとされるため、忍者自身の体重も60kg以下であった可能性が高い。もし体重が70kg以上あった忍者がいたとすれば、さらに重い俵で鍛えていたのだろうか──いや、そもそも当時の忍者に“太り気味”の者はほとんどいなかったはずである。

    俊敏さと軽さは忍者の必須条件であり、体重管理も含めて日々の鍛錬が欠かせなかった。少なくとも私には、この指力の訓練だけでも忍者になるのは到底無理であるし、たとえ憧れたとしても実際にはなれなかっただろう。


    忍者の使用道具

    忍者の代表的な武器といえば手裏剣が思い浮かぶ。しかし、実際には常に手裏剣を携帯していたわけではない。途中で身体検査を受ければ正体が露見する危険があるため、必要な場面以外では持ち歩かなかったとされる。

    では、手裏剣の代わりに何を携帯していたのか。忍者は、持ち歩いても不自然に見えない道具──すなわち農具を武器として活用していた。農民に扮することが多かった忍者にとって、農具は最も自然に携帯できる“カモフラージュ武器”であった。

    代表的なものとして、以下のような道具が知られている。

    • 鎌(かま):草刈り用だが、近接戦では斬撃武器になる
    • 鍬(くわ):土を掘る道具だが、柄の部分を使って打撃武器として使用
    • 縄・綱:拘束や登攀に使用
    • 鉤縄(かぎなわ):壁を登る際の必需品
    • 火打ち石・火打ち金:火術の準備に不可欠
    • 袋入りの砂や灰:目つぶしとして使用
    • 手棒:稲からお米をとる脱穀道具であるが、ヌンチャクのように振り回すと武器になる
    • 五徳:熱した鉄瓶を乗せるものであるが、足を取り外側を削って手裏剣代わりとすれば武器になる
    • 火箸:炭を持つ道具であるが、振り回したり、投げつければ武器となる
    • 龍た(吨):井戸に落とした物を引き上げる道具であるが、敵を引っ掛ける武器になる
    • 足鉤:滑りやすいところを歩く道具であるが、敵を蹴ったり、踏んだりすると武器として使える
    • 萬刀:植木挟みであるが、ふりまわせば武器として使える
    • 角指/手かぎ:稲刈りや草刈りに使用する農具の一種であるが、手にはめて攻撃用の武器にすることができる
    • 苦無:土を掘る道具
    • 坪錐:土塀に穴をあける道具
    • しころ:木を切る道具

    これらはすべて、農民の生活道具として自然に見える一方、状況次第で武器として転用できる優れた道具であった。忍者がいかに合理的で、環境に溶け込むことを重視していたかがよく分かる。


    忍者特有の武器

    手裏剣

    忍者の代表的な武器といえば手裏剣【しゅりけん】である。子どもの頃の忍者遊びでも、おもちゃの手裏剣は欠かせない存在だった。

    手裏剣には、平型手裏剣と棒状手裏剣があり、形状も四角・五角・六角・七角・八角など多種多様である。いずれも携帯性に優れ、奇襲や牽制に用いられた。

    刃先は短く、手裏剣そのものの殺傷能力は高くなかったとされる。しかし、刃に毒を塗るなどの工夫によって威力を高めることもあったという。ただし、手裏剣を常に持ち歩くと怪しまれるため、実際の潜入時には五寸釘や縫い針など、日用品に見えるものを代用したという説もある。

    手裏剣は「忍者の象徴」として広く知られているが、実際には状況に応じて使い分けられる補助武器であり、忍者の知恵と合理性を象徴する道具の一つであった。

    手裏剣 写真

    吹き矢

    吹き矢は、扉の隙間から吹き口だけを出して攻撃できるため、姿を隠して行動する忍者にとって適した武器だったとされる。もともとは狩猟に用いられていたが、吹き筒は長く、携帯すると怪しまれるため、忍者は笛など日用品に見えるものを吹き筒として利用したという。

    針は衣類の補修だけでなく、多用途の道具として重宝された。火で焼いた針を水に浮かべて方角を知る簡易磁石として使ったり、吹き矢の弾として攻撃に用いたりした。日用品として携帯しても不自然ではないため、忍者にとって非常に都合のよい道具だった。

    捲き菱

    逃走時、追手が通る道に撒いて足止めするために使われた。当時の追手は草鞋【わらじ】を履いていたため、捲き菱は大きな効果を発揮したとされる。現代のイメージ通り、忍者の代表的な防御用アイテムである。


    忍者文字

    忍者は密書を書く際、万一他人に見られても内容が分からないよう、仲間内でのみ通用する特殊な文字を用いた。いわば暗号文であり、「忍びイロハ」や「神代文字」などが忍者文字として知られている。


    伊賀流忍者と甲賀流忍者との相違点

    伊賀流忍者と甲賀流忍者の違いを考えると、主に次の三点に集約できるだろう。

    • ビジネススタイル(仕え方)
    • 組織構造
    • 得意とする忍術

    1. ビジネススタイル

    伊賀流忍者は、依頼主に忠実に働くものの、依頼主が変われば敵対勢力にも仕えることがあった。 つまり「依頼主ありき」のドライな契約関係であり、現代のフリーランスに近い働き方とも言える。

    一方、甲賀流忍者は一人の主君にのみ仕えることを基本とし、主従関係が強かった。 そのため忠誠心は伊賀よりも相対的に強いが、主君が没落すれば自らの立場も失われるというリスクを抱えていた。

    2. 組織構造

    伊賀流忍者には、上忍・中忍・下忍といった明確な上下関係が存在し、特に上忍御三家(百地・藤林・服部)の意思決定が絶対的であった。

    一方、甲賀流忍者は「惣(そう)」と呼ばれる自治組織を持ち、構成員がほぼ対等の立場で参加し、多数決による合議制で物事を決めていた。 封建社会の中で、早い段階から民主的な仕組みを持っていた点は非常に興味深い。

    3. 得意な忍術

    伊賀流忍者は「火遁の術」や呪術を得意とし、火薬を用いた派手な戦法が特徴とされる。 一方、甲賀流忍者は医療・毒薬・手妻(てづま=手品)による幻惑術など、より実務的で地味だが効果的な技術を得意とした。

    派手さでは伊賀、実務性では甲賀という対比が見られるが、地味な忍術ほど不気味で、敵にとっては脅威であったに違いない。

    また、現在でも甲賀流忍者の里である甲賀市甲賀町には医薬品会社(製薬会社)が多く立地しており、これは甲賀が古くから薬の知識に長けていた名残とも言われている。


    あとがき

    伊賀流忍者と甲賀流忍者は、どちらも「忍び」であるがゆえに、さまざまな作品では対立関係として描かれることが多い。これは、敵対構図のほうが物語として分かりやすく、エンターテインメントとして魅力的だからにほかならない。

    しかし、史実としての伊賀と甲賀の関係は、むしろ良好であったと伝えられている。合理的な思考を重んじた彼らにとって、同じ忍び同士が無用に争うことは双方にとって不利益であり、協調こそが最善であると理解していたのだろう。

    名張市の代表的な観光地である赤目四十八滝は、かつて伊賀流忍者の修行の場であったとされる場所である。名張市をはじめ、伊賀市を含む「伊賀の国」には、伊賀流忍者ゆかりの史跡や神社仏閣が数多く残されている。 これからも折に触れ、そうした史跡を巡りながら、伊賀の歴史と忍者の実像に思いを馳せてみたい。


    参考資料
    伊賀流忍者博物館 | 忍者屋敷
    伊賀流忍者博物館 – 伊賀上野観光協会
    忍びの里 伊賀・甲賀
    【刀剣ワールド】忍者の役割
    伊賀流忍者の故郷 | 忍者公式サイト

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