はじめに
高天寺橋本院【たかまでらはしもといん】は、奈良県御所市に位置する、高野山真言宗の寺院である。山号を宝宥山 【ほうゆうざん】と称する。御本尊は、十一面観音菩薩立像である。この仏像は、高さ5.4mの木造で、「生かせいのちの本像」として信仰を集めている。
高天寺橋本院は、金剛山の中腹に位置し、古代から霊地とされてきた場所にある。奈良時代に、元正天皇の勅によって、養老2年 (718年)に、行基によって開基されたと伝わっている。また、鑑真和上が住職に一時とは言え、任命されるなど、非常に格式の高い歴史あるお寺であったようだ。
現在の高天寺橋本院の境内には、本堂(観音堂)、大師堂、護摩堂、慈恩堂(六角堂)、鐘楼、瞑想の庭、あじさいの小径などがある。
境内には四季折々の花々が咲き誇り、瞑想の庭もあり、訪れる人々に静寂と癒しを提供している。
高天寺橋本院
縁起によれば、高天寺 橋本院【たかまでら はしもといん】は、延宝5年(1677年)に当時の住職、頼勇の手によって高天寺に付属する小寺院として橋本院が復興したという。
元々は葛城修験宗の根本道場であり、役の小角(634~701年)が修業した寺としても知られる大寺院であったという。
高天寺の修験僧高天行秀らが南朝方に陰から援助して味方していた事が北朝方にばれて、元弘の変(1331年)以降の1333年に北朝方の畠山基国、1348年に高師直らに攻められ、大規模な伽藍が焼き打ちされたと伝わる。その後は、橋本院として復興するまでのおよそ350年あまりは衰退の一途をたどっていたらしい。
高天寺の創建は、養老年間(717~724年;元正天皇【げんしょうてんのう】の時代)にまで遡るという。
養老2年(718年)に高天山【たかまやま】登拝のためにこの地を訪れた行基が霊地であることを感じて一精舎を建てて一心に冥応し祈った。すると、ある日のことに念想中に容体より光を放つと共に香気を漂わせて十一面観音菩薩の姿が現われたという。行基は、この霊応に深く感じ入り、さらに修業を続けて困難と苦悩に屈することなく祈念し続けたという。人々は、この姿に尊敬の念を抱き、「高天上人」と呼んだという。
元正天皇(715~724年)は、この行基の功徳を知り、高天が霊地であることを知って、寺地として与えたとされる。そして十一面観音菩薩の仏像を彫り、それを祀ることを許したとされる。
それ以来、参拝者が増えて繁栄したという。天平17年(745年)には聖武天皇(724~749年)が発病した折に病気平癒の祈願をしたことから、天皇より「宝宥山」の山号を賜ったという。
高天寺は、孝謙天皇(749~758年)も深く帰依され、高天千軒と呼ばれるほどの格式の高い大寺院であったという。晩年を唐招提寺で過ごした鑑真和上(735年来日)も一時は住職に任命されたと伝わっている。このように高天寺は、金剛山転法輪寺七坊の一つとして石寺や朝原寺などと共にかつては権威を誇った寺院であったという。
名 称 | 高天寺橋本院 |
所在地 | 奈良県御所市高天350 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 高野山真言宗 高天寺橋本院 – 高天寺 橋本院 高天寺橋本院 | 御所市 |
あとがき
高天寺橋本院の歴史は、非常に興味深い。その概要をまとめると下記のようになる。
- 開創
- 奈良時代初期の718年に、行基によって創建
- 行基は、この地を霊地と感じ、一精舎を建てて祈りを捧げたと伝わっている
- 山号の由来
- 745年に第45代・聖武天皇が発病した際、病気平癒を祈願し、聖武天皇から「宝有山」の山号を賜った
- 鑑真和上の関与
- 唐(中国)から渡来した鑑真和上を住職に任命
- 第46代・孝謙天皇からも深く帰依される
- 戦乱による衰退と復興
- 1331年の「元弘の変」で焼き討ちされた
- 1677年に住職・頼勇によって高天寺の一子院・橋本院として復興されるまで、衰退が続いた
戦乱に巻き込まれていなかったならどうなっていたであろうか。歴史に「もしも」は詮無い事だとは思うが、高天寺の衰退には忍び難いものを感じてしまう。