◆ はじめに
「伊賀の国」は、かつての日本の地方行政区分で、現在の三重県西部・上野盆地一帯に相当する令制国の一つであり、東海道に属していた。現在でも「伊賀」は三重県伊賀地方を指す呼称として用いられ、伊賀市と名張市を中心に構成されている。伊賀は伊賀流忍者の発祥地として知られるほか、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても名高い。
その伊賀市は、俳聖・松尾芭蕉の生まれ故郷でもある。市内には芭蕉の生家【せいか】が残されており、また、芭蕉の高弟である服部土芳が暮らした蓑虫庵【みのむしあん】も現存している。これらの史跡は、芭蕉の生涯や俳諧の世界を深く理解するうえで欠かせない場所となっている。
本稿では、史跡として整備されている芭蕉翁生家と蓑虫庵を訪ねた際の記録を紹介したい。
史跡芭蕉翁生家
史跡芭蕉翁生家は、寛永21年(1644年)に生まれた松尾芭蕉が30歳頃まで過ごした生家があった場所とされる。松尾芭蕉が生まれた地として、地元には「上野説」と「柘植説」が江戸時代からある。この史跡芭蕉翁生家は「上野説」によるものである。

現在の建物は、芭蕉が生きていた当時のものではないが、芭蕉ゆかりの地として長年大切にされてきたものである。伊賀市の有形文化財に指定されている。

松尾芭蕉は、藤堂新七郎家の嗣子・藤堂良忠に仕えていた。そのときに俳諧に出会って、俳諧を志すことになる。

句集『貝おほひ』は、生家の敷地内にあった釣月軒【ちょうげつけん】で執筆されたものとされる。この句集を上野天神宮へ奉納した後に、芭蕉は俳諧師になるべく江戸に出たと伝わる。

そのあとも、帰郷のたびにこの生家で過ごし、多くの名句を詠んだと伝わっている。

この生家の庭には芭蕉が自分の臍の緒【へそのお】を見つけた際に詠んだ「旧里や臍のをに泣としのくれ」という句碑が残っている。

元禄7年(1694年)には、伊賀の門人たちの尽力によって「無名庵」と称された庵が新たに敷地内に建てられたが、明治以降に失われ、句碑だけが残っている。

質実な町家風の間取りや、梁・柱の荒々しい木組みから「江戸時代の暮らし」を感じることができる。

中庭には石灯籠や飛び石を配し、わびさびを意識した簡素な佇まいを醸し出している。敷地内の小茶室「幽蕉庵」【ゆうしょうあん】では、定期的に茶席や俳句会が催され、訪れるたびに違う表情を見せてくれるという。
| 名 称 | 史跡芭蕉翁生家 |
| 所在地 | 三重県伊賀市上野赤坂町304 |
| 電 話 | 0595-24-2711 |
| 入館料 | 大人300円 |
| 営 業 | 開館時間:午前8時30分~午後5時 休館日: 毎週火曜日、年末年始 |
| 駐車場 | あり(有料) |
| Link |
蓑虫庵
蓑虫庵は芭蕉の高弟であった服部土芳【はっとりどほう】によって1688年に建てられた草庵(居宅)で、芭蕉も帰省した折には度々ここを訪れていたらしい。
服部土芳(1875–1951)は、俳人・書家としても知られ、自身の詩情を形にするため山林に草庵を築いた。素朴な外観ながら、軒先の絶妙な反りや木建具の緻密さに土芳らしさが宿っていると伝えられている。
蓑虫庵の由来は、芭蕉翁が庵開きの祝いとして服部土芳に贈った句「みの虫の音を聞きにこよ草の庵」に因んで名づけられたと伝わっている。

芭蕉の門人は地元では「伊賀連衆」と呼ばれ、高弟であった服部土芳は、この草庵(居宅)で芭蕉の遺語を集めて「三草子」を執筆したと伝わっている。
室内には床の間の掛け軸だけでなく、障子や襖にも土芳自身の書がびっしりと書かれている。野趣あふれる筆致と詩文が、静謐な空間をダイナミックに引き締めている。

蓑虫庵は、無名庵、西麓庵、東麓庵や瓢竹庵など「芭蕉翁五庵」と呼ばれた草庵の一つである。
蓑虫庵は、芭蕉翁五庵の中で唯一現存するもので、庭内には茶室が完備されている。庭園にも趣があり、四季を通じて楽しめる。
| 名 称 | 蓑虫庵 |
| 所在地 | 三重県伊賀市上野西日南町1820 |
| 電 話 | 0595-23-8921 |
| 入館料 | 大人300円 3館共通券(芭蕉翁生家・蓑虫庵・芭蕉翁記念館) は大人750円 |
| 駐車場 | あり(有料) |
| Link |
◆ あとがき
史跡芭蕉翁生家の展示棟は、芭蕉ゆかりの遺品や資料を収めた蔵を改装したもので、笈(旅用の箱)や草鞋【わらじ】、書簡など、芭蕉が実際に使用したと伝わる品々を含む約500点が常設展示されている。俳句だけでなく、『おくのほそ道』の下絵や直筆書簡を間近に見ることで、俳聖の「旅人」としての素顔に触れることができる。
一方、蓑虫庵の小さな坪庭には、飛石、蹲踞【つくばい】、苔、そして竹林が巧みに配置され、訪れる者をゆるやかな時間の流れへと誘ってくれる。
蓑虫庵はもともと非公開の私設茶室であったが、地域文化振興の一環として現在は予約制での見学が可能となっている。茶会や俳句会の場として借り切ることもでき、土芳が味わったとされる古き良き茶の湯の世界を追体験できると評判である。
伊賀市には、芭蕉が幼少期を過ごしたとされる街並みをたどるウォーキングコースが整備されているほか、市内各所に芭蕉の句碑が点在しており、季節ごとの風景と俳句の世界をあわせて楽しむことができる。
また、地域と連動した年間行事として、毎年10月には芭蕉祭が開催される。句会や記念講演、地元の縁日などが行われ、伊賀の里山文化と俳句の魅力を一度に味わえる催しとなっている。
