| <目次> はじめに 古墳の魅力について 美旗古墳群を歩く 馬塚古墳 女良塚古墳 殿塚古墳 毘沙門塚古墳 貴人塚古墳 赤井塚古墳 小塚古墳 歩いて感じた美旗古墳群 この古墳群に眠るのは誰なのか 1500年前の伊賀を想像する 古墳に眠る人々の姿を想う 私たちが古墳から学べること あとがき |
◆ はじめに
三重県には数多くの古墳が残されているが、そのなかでもひときわ大きな前方後円墳が存在する。三重県内で規模の大きい前方後円墳を挙げると、次の4基になる。
- 御墓山古墳(墳丘長188m・伊賀市佐那具町)
- 馬塚古墳(墳丘長142m・名張市美旗町〈美旗古墳群〉)
- 石山古墳(墳丘長120m・伊賀市才良)
- 宝塚一号墳(墳丘長111m・松阪市宝塚町・光町)
興味深いことに、この上位4基のうち3基が、かつての伊賀国の範囲に集中している。御墓山古墳と石山古墳は現在の伊賀市に、馬塚古墳は名張市に所在しており、古墳時代の伊賀地域に強力な首長勢力が存在していたことをうかがわせる。
しかし、これほど巨大な古墳でありながら、その被葬者が誰であったのかは今なお明確ではない。御墓山古墳については本格的な発掘調査が行われておらず、埋葬施設の実態すら分かっていない。
また石山古墳では発掘調査によって多くの副葬品や埴輪が発見されているものの、その被葬者の実名までは判明していない。
考古学の研究は着実に進められているが、古墳に眠る人物像を具体的に描き出せる段階にはまだ至っておらず、多くの謎が残されている。そのことは歴史研究者にとっては課題であろうが、私たち歴史愛好家にとっては、古代への想像力をかき立てる大きな魅力でもある。
そもそも前方後円墳とは、日本の古墳時代を代表する墳墓形式であり、3世紀後半から7世紀初頭にかけて各地で築造された。円形の後円部と方形の前方部を組み合わせた独特の形状を持ち、上空から眺めると鍵穴のように見える。
なぜこのような特徴的な形が生まれたのかについては、祭祀の場を備えた首長墓とみる説や、宗教観・世界観との関係を指摘する説などさまざまな見解がある。しかし、その本来の意味については現在も定説がない。これは前方後円墳が今なお多くの謎を秘めていることを示している。
奈良県桜井市の箸墓古墳は、最初期の巨大前方後円墳として知られ、古墳時代の幕開けを象徴する存在である。また、大阪府堺市の大仙陵古墳(伝仁徳天皇陵)は墳丘長約486メートルを誇り、日本最大の前方後円墳として知られている。
前方後円墳は大和地域で成立したのち、日本列島各地へ広がっていった。その分布は、当時のヤマト王権と各地の首長層との政治的・文化的な結びつきを示していると考えられている。大型前方後円墳の被葬者たちは、それぞれの地域を治めながら、ヤマト王権との関係を築いた有力者たちであった可能性が高い。
もちろん、伊賀に残る御墓山古墳や馬塚古墳、石山古墳の被葬者について確かなことは分かっていない。しかし、これほど大規模な前方後円墳を築くことができた人物である以上、古墳時代の伊賀地域を代表する首長層であったことは疑いないだろう。
では、その人々はどのような社会を築き、どのような役割を担っていたのだろうか。そして、なぜ巨大な古墳を築かなければならなかったのだろうか。
本稿では、限られた考古学的資料と歴史的背景を手掛かりに、伊賀の古墳に眠る人々の姿を想像してみたい。もちろん、それは厳密な歴史研究ではなく、一人の歴史愛好家としてのささやかな思索である。
今回は、私の住む地域にもほど近い 美旗古墳群を訪ねながら、約1500年前の伊賀を生きた人々の息遣いに思いを馳せてみたい。巨大な墳丘の前に立つとき、その土の下に眠る一人の首長だけでなく、古墳を築いた無数の人々の姿もまた見えてくるような気がするのである。
古墳の魅力について
旅行先にある古墳や遺跡について事前に調べておくことは、旅をより豊かなものにしてくれる。私は、それぞれの古墳や遺跡がどの時代に築かれ、どのような歴史的背景を持っているのかをあらかじめ理解しておくことで、現地での体験が格段に深まることを実感している。
私は考古学に特別詳しいわけではない。しかし、自宅や旅先の近くに古墳があると知ると、自然と興味を惹かれてしまう。その理由は、そこに歴史のロマンを感じるからである。とりわけ、被葬者が誰であったのかについて学説が分かれていたり、確定的な証拠が十分に得られていなかったりする場合には、古代史への関心がそれほど強くない人であっても、大きな魅力を感じるのではないだろうか。
古墳は単なる土の盛り上がりではない。その一つひとつが、当時の権力者や地域社会、人々の信仰や価値観を今に伝える歴史の証人である。そこに眠る人々は何を考え、どのような時代を生きたのか。そうした物語に思いを巡らせながら古墳を訪ねる体験は、まさに時空を超えた旅と言えるだろう。
また、古墳や遺跡は、古代日本の社会構造や文化、人々の暮らしを知るための貴重な手がかりでもある。私たちは、それらに残された歴史や文化の断片を読み解くことで、現代へと続く日本の歩みをより深く理解することができる。
だからこそ、それぞれの古墳や遺跡が持つ独自の価値を認識し、後世へ受け継いでいくことが重要である。古墳や遺跡はかけがえのない文化遺産であり、訪れる際には敬意を持って接するとともに、その保存と継承の大切さについても意識したいと思う。
美旗古墳群を歩く
美旗古墳群(みはたこふんぐん)は、三重県名張市東部の美旗地区に所在する古墳群であり、国の史跡に指定されている。古墳時代前期から後期にかけて築造された伊賀地方最大規模の古墳群で、当時この地域を支配した有力首長層の墓域であったと考えられている。
現在確認されている主な古墳は、前方後円墳5基、円墳1基、方墳1基の計7基である。
- 馬塚古墳(全長約142mの前方後円墳)
- 女良塚古墳(全長約100mの帆立貝式古墳)
- 殿塚古墳(全長約92mの前方後円墳)
- 毘沙門塚古墳(全長約65mの帆立貝式古墳)
- 貴人塚古墳(全長約55mの前方後円墳)
- 赤井塚古墳(現存直径約22mの円墳)
- 小塚古墳(方墳)
国史跡の指定対象となっているのは、馬塚古墳・女良塚古墳・殿塚古墳・毘沙門塚古墳・貴人塚古墳・赤井塚古墳の6基で、小塚古墳は指定対象に含まれていない。
かつてこの周辺にはさらに多くの古墳が存在していた。記録によれば、カブト塚・矢羽塚・玉塚などの方墳や円墳が存在したが、開発などによって失われたとされている。
美旗古墳群の被葬者については、古墳時代の名張盆地から伊賀地方にかけて勢力を持った首長層と考えられているものの、個人名まで明らかになっているわけではない。後世の豪族である伊賀氏や名張氏との関連を推測する見方もあるが、確かな史料や考古学的証拠は確認されていない。
美旗古墳群の大きな特徴は、一つの地域において首長墓が継続的に築かれ、その変遷をたどることができる点にある。殿塚古墳から女良塚古墳、毘沙門塚古墳、馬塚古墳へと続く築造の流れは、古墳時代の地域支配者たちの系譜を今に伝えていると考えられている。
そのため美旗古墳群は、単に大型古墳が集まる場所というだけでなく、古墳時代の伊賀地域における政治的・社会的変遷を知るうえで極めて重要な古墳群として高く評価されている。

馬塚古墳
馬塚古墳【うまづかこふん】は、近鉄美旗駅の南側に位置し、美旗古墳群の中で最大の前方後円墳(全長142m)である。
前方先端部の幅は100mで、高さは6mである。一方、後円部の直径は98mで、高さが14mもある。
馬塚古墳の東には小塚古墳がある。また、馬塚古墳の東南方約600m先には貴人塚古墳がある。幅約6mの浅い周濠をもち、出土品から6世紀初頭前後のものと考えられている。
| 名 称 | 馬塚古墳 |
| 所在地 | 三重県名張市美旗町中一番 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 美旗古墳群 – 三重 なばりの観光ガイド |
女良塚古墳
女良塚古墳【じょろうづかこふん】は、全長約100mの前方後円墳(帆立貝式古墳)である。美旗古墳群の中では比較的早い時期に築造された帆立貝式古墳である。
前方先端部の幅は40mで、高さが3mである。一方、後円部の直径は約73mで、高さは9mである。
女良塚古墳の西方約400m先には、毘沙門塚古墳がある。
| 名 称 | 女良塚古墳 |
| 所在地 | 三重県名張市新田 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 美旗古墳群 – 三重 なばりの観光ガイド |
殿塚古墳
殿塚古墳【とのづかこふん】は、4世紀末頭前後の築造と推定されており、美旗古墳群のなかでは最初に築造された可能性が高いとされている、全長約92mの前方後円墳である。
前方部の幅は40mで、高さが6.2mである。一方、後円部の直径が56mで、高さが7.2mである。
殿塚古墳の西南約300m先には女良塚古墳がある。
| 名 称 | 殿塚古墳 |
| 所在地 | 三重県名張市新田 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 美旗古墳群 – 三重 なばりの観光ガイド |
毘沙門塚古墳
毘沙門塚古墳【びしゃもんづかこふん】は、全長が約65mの前方後円墳(帆立貝式古墳)である。美旗古墳群の中では最も高い位置に築造されている。
前方先端部の幅は20mで、高さが3mである。一方、後円部の直径は約44mで、高さは7mである。
毘沙門塚古墳の南方約800メートルには、美旗古墳群最大の馬塚古墳が位置している。
| 名 称 | 毘沙門塚古墳 |
| 所在地 | 三重県名張市新田 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 美旗古墳群 – 三重 なばりの観光ガイド |
貴人塚古墳
貴人塚古墳【きじんづかこふん】は、全長約55mの前方後円墳である。6世紀初頭の築造と推定され、美旗古墳群の中では最も小さい前方後円墳である。
前方先端部の幅は35mで、高さが4mである。一方、後円部の直径は35mで、高さは4.5mである。
貴人塚古墳より南方約1.5km先の小波田川を遡った右岸には赤井塚古墳が位置する。
| 名 称 | 貴人塚古墳 |
| 所在地 | 三重県名張市下小波田 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 美旗古墳群 – 三重 なばりの観光ガイド |
赤井塚古墳
赤井塚古墳【あかいづかこふん】は、直径が22mで、高さが8.5mの円墳であるが、元々は直径30m前後あったと考えられている。南側に開口する両袖型の横穴式石室がある。
この赤井塚古墳は、6世紀後半の築造であると推定されている。
| 名 称 | 赤井塚古墳 |
| 所在地 | 三重県名張市上小波田 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 美旗古墳群 – 三重 なばりの観光ガイド |
小塚古墳
美旗古墳群唯一の方墳で、一辺約15メートルを測る。馬塚古墳の東側に位置し、美旗古墳群の構成を理解するうえで貴重な存在である。
| 名 称 | 小塚古墳 |
| 所在地 | 三重県名張市上小波田 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 美旗古墳群 – 三重 なばりの観光ガイド |
歩いて感じた美旗古墳群
美旗古墳群最大の前方後円墳である馬塚古墳を実際に訪れてまず驚かされるのは、その規模の大きさである。数字の上では墳丘長142メートルと理解していても、現地に立つとその巨大さは想像をはるかに超えている。
後円部へと続く緩やかな斜面、木々に覆われた墳丘、そして周囲に広がる田園や住宅地の風景。その様子を眺めていると、これが約1500年前に人々の手によって築かれた巨大な墓であることが、にわかには信じられないほどである。
古墳の周囲を歩いていると、まるで自然の丘陵を散策しているような感覚になる。しかし、この墳丘は自然に生まれたものではない。大量の土を運び、形を整え、多くの人々が協力して築き上げた人工の構造物である。そう考えると、その背後にあった膨大な労力と高度な土木技術、そして首長の権威の大きさに圧倒される。
馬塚古墳は6世紀初頭頃に築造されたと考えられている。美旗古墳群に連なる首長墓の一つであり、その規模から見ても、この地域で強い影響力を持った人物の墓であったことは間違いないだろう。
また、美旗古墳群の魅力は、一つの巨大古墳だけにあるのではない。殿塚古墳、女良塚古墳、毘沙門塚古墳、貴人塚古墳などが点在し、それぞれが異なる時代の首長たちの墓として築かれている。これらを順に訪ねていくと、古墳時代の伊賀地域における権力者たちの系譜をたどっているような気持ちになる。
特に印象的だったのは、それぞれの古墳が決して孤立した存在ではなく、地域全体の歴史の流れの中で築かれてきたということである。一基の古墳だけを見ていると単なる巨大な土の山にも見えるが、古墳群全体を見渡すと、代々の首長たちがこの地を治め、その権威を示そうとした姿が浮かび上がってくる。
古墳を訪ねる楽しみは、解説板に書かれた知識を得ることだけではない。現地の空気を感じながら、目の前に広がる風景の中に古代の人々の営みを重ね合わせてみることにある。約1500年前、この地ではどのような人々が暮らし、どのような思いで首長を送り出したのだろうか。そんな想像を巡らせながら歩く時間は、歴史との静かな対話そのものであった。
私にとって美旗古墳群は、古墳時代の伊賀に生きた人々の息遣いを感じさせてくれる、貴重な歴史の舞台であった。
この古墳群に眠るのは誰なのか
美旗古墳群の最大の謎は、やはりそこに葬られた人々が誰であったのかという点であろう。
古墳群を構成する各古墳では、これまでに石室や埴輪、副葬品などの調査が行われており、それぞれの築造時期や構造については少しずつ解明が進んでいる。しかし、実際に埋葬された人物の名前や具体的な経歴については、現在も明らかになっていない。
考古学的には、美旗古墳群は古墳時代前期から後期にかけて、この地域を支配した有力首長層の墓群であったと考えられている。特に馬塚古墳は全長142メートルを誇り、三重県内でも有数の規模を持つ前方後円墳である。その被葬者は、当時の名張地域から伊賀地方にかけて強い影響力を持った首長であった可能性が高い。
さらに興味深いのは、美旗古墳群が単独の巨大古墳ではなく、複数の首長墓が世代を超えて築かれたと考えられていることである。
殿塚古墳から始まり、女良塚古墳、毘沙門塚古墳、馬塚古墳、そして貴人塚古墳へと続く築造の流れを見ると、一つの首長家系が代々この地域を治めていた可能性も想像される。もちろん、それを証明する確実な資料は存在しないが、古墳群全体からは地域支配者たちの系譜が浮かび上がってくるようにも感じられる。
一方で、地元では後世の豪族である伊賀氏や名張氏との関連を語る伝承も残されている。しかし、古墳時代と中世との間には長い時間的隔たりがあり、これを裏付ける考古学的証拠や歴史資料は確認されていない。そのため、現時点ではあくまでも伝承の域を出ないと考えられている。
それでは、この古墳群に眠る人々はどのような人生を歩んだのだろうか。
想像に過ぎないが、彼らは名張盆地を中心とする地域を治め、人々をまとめながら、ヤマト王権との関係を築いていた首長たちだったのかもしれない。また、農耕や交易を発展させ、地域の安定と繁栄に力を尽くした人物であった可能性もある。
しかし、私が古墳群を歩きながら考えるのは、その人々の権力や地位だけではない。
その首長たちにも家族がいたはずである。親がいて、子がいて、信頼する家臣や仲間がいたことだろう。そして亡くなった時には、その死を悲しみ、壮大な古墳を築いて見送った人々がいたに違いない。
私たちは巨大な墳丘を見ると、ついそこに眠る権力者に目を向けてしまう。しかし、その背景には、古墳を築いた多くの人々の汗や祈り、故人への敬意が存在していたはずである。
被葬者の名前は失われたかもしれない。しかし、その人々が生きた証と、彼らを送り出した人々の思いは、1500年以上の時を超えて今もなお、この美旗の地に静かに残されているのである。
1500年前の伊賀を想像する
美旗古墳群が築かれたのは、今からおよそ1500年前、古墳時代の5世紀から6世紀にかけてである。当時の日本列島ではヤマト王権が勢力を広げつつあり、各地の有力首長たちは王権と関係を結びながら、それぞれの地域を治めていた。
伊賀地方は盆地地形に恵まれ、大和と東国を結ぶ交通の要衝でもあった。現在のような道路や鉄道は存在しなかったが、人や物資、文化、情報が行き交う重要な地域であったことは想像に難くない。名張盆地もまた、そのネットワークの一端を担う地域であったと考えられている。
美旗古墳群最大の馬塚古墳の墳丘長は142メートルにも及ぶ。この巨大な古墳を築くためには、膨大な土木工事と多くの労働力が必要であったはずである。一人の有力者の意志だけで完成できるものではなく、地域社会全体の協力と組織力があって初めて実現した大事業であっただろう。
古墳の築造には、土を運ぶ人々、石材を加工する人々、埴輪を製作する職人、祭祀を執り行う人々、さらには食料や資材の供給を担う人々など、多くの人々が関わっていたに違いない。巨大な墳丘を前にすると、その頂に眠る首長だけでなく、古墳造営に携わった無数の人々の存在にも思いが及ぶ。
さらに、美旗古墳群の特徴は、単独の巨大古墳ではなく、複数の首長墓が世代を超えて築かれていることである。殿塚古墳から女良塚古墳、毘沙門塚古墳、馬塚古墳、貴人塚古墳へと続く流れを眺めると、この地域が長い年月にわたって安定した首長勢力によって統治されていたことを想像させる。
彼らはどのような暮らしを送り、どのような未来を思い描いていたのだろうか。春には田畑を耕し、秋には収穫を祝い、人々の暮らしを守るために周辺地域との交流や交渉を重ねていたのかもしれない。争いの時代であった一方で、家族を愛し、仲間と支え合いながら生きていたことも、私たちと変わらなかっただろう。
美旗古墳群は、地域を治めた首長たちの墓であると同時に、その時代を生きた人々の営みを今に伝える壮大な歴史の記念碑でもある。
巨大な墳丘を前にすると、私たちはつい被葬者である首長の姿に目を向けがちである。しかし、その背後には古墳を築いた人々、故人を見送った家族や仲間たちの存在があった。美旗古墳群は、そうした名もなき人々の足跡までも静かに語りかけてくれるのである。
古墳に眠る人々の姿を想う
馬塚古墳をはじめとする美旗古墳群の被葬者が誰であったのか、現在のところ確かなことは分かっていない。考古学的には、古墳時代に名張盆地から伊賀地方にかけて勢力を持った有力首長層の墓群であったと考えられている。しかし、その人々の名前も、生涯も、どのような言葉を語り、どのような思いを抱いて生きたのかも記録には残されていない。
それでも私は、古墳の前に立つと、そこに眠る人々の姿を想像せずにはいられない。
美旗古墳群は、一人の人物のために築かれた墓ではない。殿塚古墳から女良塚古墳、毘沙門塚古墳、馬塚古墳、そして貴人塚古墳へと続く古墳の列は、代々この地域を治めた首長たちの歴史を静かに物語っているように見える。
彼らは地域の人々から尊敬されていたのだろうか。それとも厳格な統治者であったのだろうか。農耕に適した土地を開き、人々をまとめ、ヤマト王権との関係を築きながら地域の発展に力を尽くした人物たちだったのかもしれない。
さらに想像を広げれば、その周囲には家族がいたはずである。父母がいて、妻や夫がいて、子どもたちがいたことだろう。そして首長が亡くなったときには、その死を悼み、長い年月をかけて巨大な古墳を築き上げた人々がいたに違いない。
私たちは「巨大な古墳」という遺構そのものに目を奪われがちである。しかし、その背景には喜びや悲しみ、希望や不安を抱えながら生きた人々の姿があったはずである。
土を運んだ人々、埴輪を作った職人たち、葬送の儀式を執り行った人々、そして故人を見送った家族や仲間たち。美旗古墳群には、そうした無数の人々の営みが積み重なっている。
1500年前の人々もまた、家族を愛し、仲間と協力し、より良い暮らしを願いながら日々を送っていたことだろう。時代や生活様式は大きく異なっていても、人を想う気持ちや未来への願いは、現代の私たちと大きく変わらなかったのではないだろうか。
そう考えると、古代と現代の間には長い年月が横たわっているものの、人間の本質はそれほど変わっていないようにも思える。
古墳を訪ねる旅の魅力は、歴史的事実や考古学的知識を学ぶことだけではない。遠い昔を生きた人々との静かな対話を楽しみ、その人生に思いを馳せることにもあるのではないだろうか。
美旗古墳群を歩きながら私は、歴史に名を残した首長たちだけでなく、その時代を懸命に生きた名もなき人々の存在にも心を向けたいと思った。そして、それこそが古墳を訪ねる旅の最大の魅力なのかもしれない。
私たちが古墳から学べること
古墳は単なる観光資源でも、土で造られた巨大な構造物でもない。そこには古代社会の政治、文化、信仰、土木技術、そして人々の暮らしの営みが刻み込まれている。
一基の古墳を見学するだけでも、その時代の社会の姿や人々の価値観について、多くのことを考えさせられる。だからこそ、旅行先で古墳や遺跡を訪れる際には、その形や規模だけでなく、背景にある歴史にも目を向けてみたい。
美旗古墳群を歩いていて特に印象的だったのは、単独の巨大古墳ではなく、複数の首長墓が長い年月をかけて築かれていることである。そこからは、一人の権力者だけでなく、その時代を生きた地域社会全体の姿が見えてくるように思えた。
また、古墳は一度失われれば二度と元に戻すことのできない貴重な文化遺産でもある。約1500年もの間、人々によって守り伝えられてきたからこそ、私たちは今日、その姿を目にすることができる。
私たちに求められているのは、先人たちが残してくれた歴史の証人を大切に守り、その価値を次の世代へ伝えていくことであろう。
被葬者の名前は分からない。生涯の詳細も分からない。しかし、その人々が生きた証は確かに残されている。そして、その痕跡を通して私たちは古代社会の姿や人々の思いに触れることができる。
古墳を訪ねることは、単に過去を振り返る旅ではない。そこに生きた人々の足跡に耳を傾け、自分自身の生き方や人生について静かに考える旅でもある。
美旗古墳群は、今もなお静かに佇みながら、私たちに多くのことを語りかけているように思えるのである。
◆ あとがき
美旗古墳群を訪れる前、私が抱いていたのは「三重県を代表する古墳群の一つ」という程度の知識に過ぎなかった。しかし実際にその地を歩いてみると、そこが単なる史跡ではなく、長い年月をかけて受け継がれてきた歴史の舞台であることを強く実感した。
そこには地域を治めた首長たちの歴史があり、古墳を築いた人々の汗があり、故人を送り出した家族や仲間たちの祈りがあった。
私たちが目にしているのは巨大な墳丘や石室である。しかし、その背後には数え切れないほどの人々の人生が存在していたはずである。
被葬者が誰であったのかは分からない。おそらく今後も、そのすべてが明らかになることはないだろう。しかし、その謎こそが古墳の大きな魅力の一つでもある。分からないからこそ想像が広がり、遠い古代との対話が始まるのである。
旅先で古墳や遺跡を訪れるたびに感じるのは、歴史とは教科書の中だけに存在するものではないということだ。現地を歩き、その土地の空気に触れ、ときには立ち止まって想像してみることで、過去は驚くほど身近なものになる。
美旗古墳群は、約1500年の時を超えて今も静かに佇んでいる。そして訪れる人々に、「この地に生きた人々は、どのような思いで日々を暮らしていたのだろうか」と問いかけているようにも感じられる。
私もまた、その問いへの答えを探しながら、これからも各地の古墳や遺跡を訪ねてみたいと思う。そして、歴史に名を残した人々だけでなく、その時代を懸命に生きた名もなき人々にも思いを寄せていきたい。
それこそが、古墳を訪ねる旅の本当の魅力なのかもしれない。