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藤原鎌足ゆかりの談山神社から蘇我氏の石舞台古墳へ

はじめに

奈良県桜井市にある談山神社は紅葉の名所としても知られている。普通、仏塔は仏教寺院に存在するものだが、談山神社には世界的にも珍しい十三重塔があるという。

ちょうど紅葉の季節でもあり、ライトアップも始まっているらしいと知り、防寒具の準備をしっかりとして、妻と二人で談山神社に参拝した。談山神社の紅葉は、期待を裏切らない素晴らしいものであった。ライトアップされた紅葉も十分に堪能できた。


<目次>
はじめに
談山神社の由緒
  • 名称の起源
  • 藤原鎌足との関係
談山神社の主な社殿・建造物
  • 十三重塔
  • 神廟拝所(旧講堂)
  • 談山神社本殿
  • 談山神社拝殿・楼門・東西透廊
  • 摂社・東殿(恋神社)
  • 談山神社権殿
  • 末社・比叡神社本殿
  • 末社・総社本殿
  • 末社・総社拝殿
秋の談山神社
  • フォトギャラリー
石舞台古墳
あとがき

談山神社の由緒

談山神社の「談山」は、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が、大化元年(645年)、この多武峰【とうのみね】において宿敵の蘇我入鹿【そがのいるか】を討ち滅ぼそうと談合したという伝承に由来する。

そして、大化元年(645年)5月に、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち(乙巳の変いっしのへん】)、中央統一国家及び文治政治の完成、いわゆる「大化の改新」という歴史的偉業を成し遂げた。

その後、多武峰の地は「談峯」、「談い山【かたらいやま】」あるいは「談所の森」と呼ばれるようになったという。

「大化改新設合の地」の伝承と共に、現在の社号の「談山神社」は「談い山」からきているらしい。

西暦669年10月、中臣鎌足の病が重いと知った天智大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授け、同時に「藤原」の姓を与えたという。

こうして藤原氏の栄華は、ここから始まることになる。藤原鎌足の墓は摂津国・阿威山【あいさん】(現在の大阪府高槻市)に造られたが、西暦678年、唐より帰国した長男の定慧和尚【じょうえおしょう】が鎌足の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔講堂を建立して妙楽寺【みょうらくじ】と称した。さらに、701年、方三丈の神殿を建て、鎌足の神像を安置したという。

以上が「談山神社【たんざんじんじゃ】」の始まりであり、談山神社に藤原鎌足が祀られている理由である。


談山神社の主な社殿


十三重塔

十三重塔は、定慧和尚が、父・鎌足の供養のために678年に創建した塔婆で、現存のものは1532年に再建されたものであるという。現存する木造の十三重塔としては世界唯一のものであり、非常に貴重な建造物であるということだ。


神廟拝所(旧講堂)

神廟拝所は、定慧和尚が679年に父・鎌足の供養のため創建した妙楽寺の「講堂」であり、塔の正面に仏堂をつくる伽藍の特色をもち、内部壁面には羅漢と天女の像が描かれている。現存のものは寛文8年(1668年)に再建されたものであるという。


談山神社本殿

本殿の御祭神は藤原鎌足である。大宝元年(701年)の創建で、聖霊院、多武峯社【とうのみねしゃ】とも号する。藤原鎌足の神像もこの神殿に安置されたという。

現在の本殿は嘉永3年(1850年)に造り替えられたものであるという。三間社隅木入春日造という朱塗極彩色の豪華絢爛な建築様式で有名である。旧・別格官幣社であったなごりが残る。


談山神社拝殿・楼門・東西透廊

朱塗舞台造の拝殿は、永正17 年(1520年)に造営されたもので、檜皮葺の屋根が美しい。中央の天井は伽羅香木でつくられている。折れ曲る東西透廊は本殿を囲む特異な形態をもつ。


東宝庫


摂社・東殿(恋神社)

東殿の御祭神は、鏡女王、定慧和尚、藤原不比等の三柱である。東殿は若宮とも称する。縁結びの神として信仰が厚いという。

建造物は、元和5年(1619年)造替の談山神社本殿を寛文8年(1668年)に移築したものであるという。


談山神社権殿

天禄元年(970年)に摂政右大臣藤原伊尹の立願によって創建されたという。実弟の如覚(多武峰少将藤原高光)が阿弥陀像を安置したという元常行堂でもある。

現存の社殿は室町後期に再建されたものであるらしい。さらに500年後の平成の時代に大修理を終えて再生した。


末社・比叡神社本殿

比叡神社本殿は、寛永4年(1627年)に造営された桧皮葺の社殿である。一間社流造、千鳥破風及び軒唐破風付の豪華な建築様式をもつ。元は飛鳥の大原にあった大原宮を移築したものらしく、明治維新の頃までは山王宮と呼ばれたという。


末社・神明神社

天照大御神を祀る神明神社は、談い山【かたらいやま】への登山口に鎮座する。


末社・総社本殿

総社本殿は、延長4年(926年)の勧請で、天神地祇・八百万神を祀っており、日本最古の総社といわれている。

現存する本殿は、寛文8年(1668年)造替の談山神社本殿を寛保2年(1742年)に移築したものであるという。


末社・総社拝殿

総社拝殿は、寛文8年(1668年)に造営されたものである。談山神社拝殿を小さくして簡略化したような様式で、正面と背面に唐破風をもつ美麗な建造物であるという。内外部小壁には狩野永納筆の壁画が残こされている。


如意輪観音堂

談山神社の建造物の配置図


秋の談山神社

私たちが談山神社を参拝したのはちょうど紅葉の季節であったので、紅葉のなかの社殿の景色は本当に綺麗であった。少しアングルが違うだけでも違った印象が得られるのは実に楽しい。

談山神社が紅葉シーズンに合わせてライトアップされると聞いていたので、防寒着をしっかり準備して行ったのは良かった。日が沈むと一段と寒さが増したからである。しかし、不思議なもので写真撮影に夢中になっている間は寒さのことを忘れていた。

今回、談山神社を参拝した私の理由の一つは唯一無二の十三重塔の写真を撮ることであったので、自然と十三重塔の写真が多くなった。他の社殿に興味がなかったわけでは決してないが、相対的に両者の差が開いてしまった。心のままにシャッターを押したからに相違ない。

同じような写真を何枚撮ったことであろうか。後でどれを選ぶか迷ってしまうことも考えずに・・・


ランチタイムは南山荘で

談山神社のすぐ近くに南山荘【みなみさんそう】という旅館がある。お昼には一般客にも釜飯セット(1000円)を提供してくれる。釜飯は、価格もリーズナブルで、美味しかった。普段は妻の分も私が食べることが多いが、今回だけは妻も完食したから本当に美味しいのだと思う。

名 称南山荘
所在地奈良県桜井市大字多武峰419
Link桜井市多武峰 南山荘 リニューアルオープン‼

多武峰観光ホテル

多武峰観光ホテル【とうのみねかんこうほてる】は、談山神社の真正面と好立地である。談山神社境内の散策、特に「談所の森」までハイキングした際や近くの明日香村を散策する場合には利用してみてはどうだろう。

名 称多武峰観光ホテル
所在地奈良県桜井市多武峰432
Link多武峰観光ホテル公式HP

石舞台古墳

奈良県明日香村にある石舞台古墳は、6世紀に築造されたと伝えられている。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳で、その規模は日本最大級を誇るとされている。

石室の長さは19.1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6mもあるという。石の総重量は推定2,300トン、古墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77トン、北側約64トンもあると推定されている。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことから「石舞台」と呼ばれているそうだ。

この巨大古墳が誰の墓なのかは不明なままであるが、付近に蘇我馬子【そがのうまこ】の庭園が見つかったことから、蘇我馬子の墓ではないかとも言われている。また、石室が露出しているのは、蘇我馬子の横暴な態度に反発した後世の人が封土を取り除いたためともいわれている。

古代から飛鳥時代にかけて権勢を振るったのは大和朝廷の有力豪族であった蘇我氏である。なかでも蘇我氏が最も栄えた時期が蘇我馬子【うまこ】、蝦夷【えみし】、入鹿【いるか】の3代の時代で、天皇を凌ぐほどの権力を握っていた。ちょうど西暦550年頃から645年乙巳の変いっしのへん】までの95年間という長い期間である。

蘇我氏がどのようにして強大な権力を得たかというと、蘇我馬子が娘達を次々と皇子に嫁がせて、天皇の外戚となって権勢を振るったからである。さらには政敵の物部氏を倒し、蘇我氏による政治の独占を成功させたためと言われている。

聖徳太子が政治の舞台に登場してからは、聖徳太子と蘇我馬子の二頭政治となった。しかし、聖徳太子の死後は、並ぶものが無くなり、蘇我馬子の権力はさらに強大となり、その権力はそのまま子孫へと引き継がれていった。

蘇我馬子の死後、息子の蘇我蝦夷と馬子の弟の境部摩理勢【かいべのまりせ】の間で、皇位継承をめぐり紛争が起こった。どういうことかというと、蝦夷が擁立する田村皇子(後の舒明天皇)と境部摩理勢が推薦する山背大兄王【やましろおおえのおう】のどちらを皇位につけるかという争いである。

山背大兄王は聖徳太子の息子にあたる人物であったらしい。母親が蘇我馬子の娘の刀自古郎女【とじこいらつめ】であったと言われている。馬子の政略結婚による権力掌握がここにも及んでいたということである。

結局、蝦夷の懐柔政策によって山背大兄王は皇位継承を辞退したが、境部摩理勢は納得したわけではなかった。

境部摩理勢は、馬子の墓の造営中にも関わらず、持ち場を放棄し屋敷に閉じこもったと伝えられている。彼はその後も抵抗を続けるが、最終的には蘇我蝦夷によって殺害されてしまった。

父親の蝦夷から大臣の座を引き継いだのが、息子の蘇我入鹿であるが、再び皇位継承問題が起きることになった。

そして643年、その皇位継承を巡って、山背大兄王とその一族が蘇我入鹿によって攻め滅ぼされる事件が起こる。この事件によって、聖徳太子の一族は滅亡した。

父親の蝦夷は事の顛末を聞いて、入鹿の強引なやり方に激怒したと言われている。入鹿の強引なやり方が蘇我氏の崩壊に繋がると危惧したらしい。

実際に、蝦夷の危惧したことが起こった。山背大兄王の殺害をきっかけに乙巳の変645年に起きたからである。

山背大兄王を殺害した後、蘇我入鹿の権力はさらに強くなり、天皇を凌ぐほどになったと言われている。

このような状況で登場するのが、中大兄皇子中臣鎌足である。彼らは、蘇我氏打倒の計画を立て(談山神社の項参照)、645年 朝廷の儀式の最中に計画を実行した。

蘇我入鹿は中大兄皇子に直接殺害され、翌日父親の蝦夷も自害に追い込まれたという。これら一連の事件を乙巳の変と呼ぶ。私たちが学校の教科書で学んだ「大化改新」の前哨戦、クーデターに相当する。

乙巳の変によって、蘇我宗家は滅亡したが、蘇我氏が滅亡したわけではない。実は、乙巳の変には蘇我氏の人間も協力しており、乙巳の変後も権力の中枢に関わっているからである。乙巳の変が成功した要因の一つとして、蘇我氏の内部分裂を利用したことが挙げられている。

中大兄皇子に協力した蘇我氏の人間というのが、蘇我山田倉石川麻呂【そがのやまだくらいしかわまろ】という蘇我氏の長老と呼ばれていた人物である。乙巳の変の後、蘇我山田倉石川麻呂は、右大臣に任じられるが、やがて謀反の疑いをかけられ、自殺に追い込まれたらしい。後に無実とされ、生き残った蘇我氏は、政治の世界で生き続けるが、かつてのような栄光を掴むことは二度となかったという。

歴史は繰り返すというが、栄華必衰を描いた「平家物語」よりもはるか以前に「蘇我氏の物語」もあったということである。蘇我氏の時代に代わって、その後は藤原氏の時代になっていくわけであるが藤原氏も同じような運命を辿っていく。人間は強大な権力を掴むと辿る運命は同じ道だというのは人間の性【さが】に帰することであるからだろうか。明日香村にある石舞台古墳を眺めながらそんな想いが脳裏を駆け巡った。

名 称石舞台古墳
所在地奈良県高市郡明日香村島庄133
Link石舞台古墳 | 国営飛鳥歴史公園 (asuka-park.jp)
石舞台古墳|奈良県観光[公式サイト]

あとがき

談山神社や近くの明日香村は、日本に誕生した大和朝廷が律令国家として生まれ変わっていく歴史の舞台となった場所である。

談山神社や明日香村の石舞台古墳を訪れることによってはるか昔の日本の歴史の一端を感じることができたような気がする。

秋の紅葉の季節は素晴らしく、大満足した。今度は是非、春の桜の季節に再訪してみたいものである。


【参考資料】
【公式】大和多武峰鎮座|談山神社
大化の改新 – Wikipedia
名物「義経鍋」と歴史を味わうお宿 – 多武峰観光ホテル公式HP
石舞台古墳 | 国営飛鳥歴史公園 (asuka-park.jp)
石舞台古墳|奈良県観光[公式サイト]