はじめに
備中松山城【びっちゅうまつやまじょう】は、岡山県高梁市に位置する歴史的な城で、標高約430mの臥牛山【がぎゅうざん】に築かれている山城である。
備中松山城の歴史は、1240年に秋庭三郎重信【あきば さぶろう しげのぶ】が臥牛山に砦を築いたことに始まるとされる。その後、城の中心は小松山の峰に移り、城の縄張りも時代とともに変化したという。
戦国時代には、備中松山城は一大要塞として機能し、臥牛山全域に21もの砦が築かれたという。1575年には毛利輝元が城主となり、備中松山城は毛利氏の東方進出の拠点となった。
関ヶ原の戦い(1600年)後、備中松山城は徳川幕府の支配下に入り、小堀正次・政一(遠州)父子が城の修築を行った。その後、水谷勝隆が城主となり、1683年に大規模な修築が行われ、現在の姿となったと言われている。
明治維新後、備中松山城は廃城となったが、昭和初期に地元住民の努力により修復が行われたという。現在では、国の重要文化財として保存され、多くの観光客が訪れる景勝地となっている。
備中松山城
備中松山城は、臥牛山【がぎゅうざん】(標高約430m)の頂上に築城された山城で、雲海に浮かぶ「天空の城」としても知られている。特に秋から冬にかけての早朝には、幻想的な雲海の景色を楽しむことができる。確かに雲海に浮かぶ山城の姿は圧巻の美しさである。
日本三大山城(岩村城、高取城、備中松山城)の一つに数えられ、天守、二重櫓、土塀が現存する山城の名城である。
備中松山城の周囲には高さ10m以上の巨大な石垣(高石垣)があり、難攻不落の名城としての面影を残している。特に秋は紅葉が美しく、石垣とのコントラストが見事である。
備中松山城は、自然の岩と人工的な石垣が巧みに組み合わされて築かれている。特に大手門跡ではその融合を見ることができる。
備中松山城の天守は、現存12天守の一つで、国の重要文化財に指定されている。
天守と並んで見どころの一つである二重櫓は、年に数回特別公開されることがある。
備中松山城は、その歴史的価値と美しい景観から、多くの観光客に愛される景勝地である。
名 称 | 備中松山城 |
所在地 | 岡山県高梁市内山下1 |
TEL | 0866-21-0461 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 備中松山城 – 天空の山城 |
あとがき
小堀正次【こぼり まさつぐ】とその息子、小堀政一【こぼり まさかず】(通称、遠州)の努力によって備中松山城はその歴史的価値を高めたと言われている。そして現在でも多くの観光客に愛される景勝地となっている。
関ヶ原の戦い(1600年)後、徳川家康の命により、小堀正次は備中松山城の城主となった。正次は備中松山城の大規模な改修を行い、城の防御力を強化した。また、正次は備中松山城の城主として、幕府の直轄地である天領の管理も任されていた。
1604年に小堀正次が急死したため、息子の小堀政一(遠州)が備中松山城を継ぐことになった。政一(遠州)は父の遺志を継ぎ、城の改修を続けた。
政一(遠州)は、駿府城や名古屋城の修築、後陽成院御所の造営など、幕府や朝廷の重要な建築プロジェクトにも関わった人物とされている。
また、小堀政一(遠州)は、茶人、建築家、作庭家としても知られ、茶道の遠州流の祖としても名を馳せている。遠州の美意識と技術は、備中松山城の改修にも反映されており、その後の日本の建築や庭園文化に大きな影響を与えたと言われている。
小堀遠州が作庭した庭園には下記のような特徴があるとされる。
- 直線的な造形
- 直線的な石橋や石畳が多く見られる
- 遠州独自の美意識が反映されている
- この造形は当時としては斬新な発想であったという
- 自然と人工の調和
- 自然の景観と人工的な要素が巧みに組み合わされている
- その調和が美しい景観を生み出している
- 茶室との一体感
- 庭園と茶室が一体となった設計が特徴
- 庭園内の茶室からの眺めも楽しむことができる
- 小堀遠州は茶人でもあったことが影響している
小堀遠州が作庭した庭園には下記のような有名な庭園が含まれている。
- 龍潭寺庭園(静岡県浜松市の庭園)
- 遠州三名園の筆頭
- 井伊直虎・井伊直政の墓所も残る井伊家の菩提寺の庭園
- 小堀遠州が作庭したと伝わる国指定名勝の庭園
- 長楽寺庭園「満天星の庭」(静岡県浜松市の庭園)
- 遠州三名園の一つ
- 無数のドウダンツツジが春は白く、秋は紅葉に染まる
- 静岡県指定名勝
- 本興寺庭園(静岡県湖西市の庭園)
- 遠州三名園の一つ
- 小堀遠州作庭と伝わる池泉鑑賞式庭園
- 北原白秋が愛した庭園として知られる
- 大池寺庭園「蓬莱庭園」(滋賀県甲賀市の庭園)
- 水口城を築城した小堀遠州が作庭の枯山水庭園
- 日本国内屈指のサツキの大刈込庭園
- 甲賀市指定名勝。