はじめに
熊野本宮大社は、和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社で、熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)の一角である。全国の熊野神社の総本宮として知られている神社である。
熊野本宮大社の創建は、社伝によれば、崇神天皇65年(紀元前97年)とされているほど長い歴史のある神社である。平安時代には、鳥羽上皇や後白河法皇などが幾度も参詣し、大いに賑わったと記されている。
主祭神は、熊野坐大神【くまぬにますおおかみ】とも呼ばれる、家都美御子大神【けつみみこのおおかみ】の他、熊野牟須美大神【くまぬむすびのおおかみ】や速玉之男神【はやたまのおのかみ】が祀られているとされる。
恥ずかしい話ではあるが、私は、熊野牟須美大神と速玉之男神が、それぞれイザナミ(伊邪那美命)とイザナギ(伊邪那岐命)の別名であることには、熊本県の高森町上色見に鎮座する上色見熊野座神社【かみしきみくまのいますじんじゃ】に参拝するまで全く気付いてはいなかった。上色見熊野座神社は、熊野本宮大社から勧請【かんじょう】された神社であり、イザナギとイザナミを祀っていることから気付いたわけである。
熊野牟須美大神(=イザナミ)は、熊野那智大社の主祭神として祀られており、速玉之男神(=イザナギ)は、熊野速玉大社の主祭神として祀られている。
ちなみに、熊野本宮大社の主祭神である家都美御子大神は、スサノオノミコト(須佐之男命)の別名とされている。スサノオノミコトは、日本神話において天照大御神【あまてらすおおみかみ】の弟神であり、海や嵐を司る神である。また、ヤマタノオロチ退治の神話などでも有名である。
熊野本宮大社
熊野本宮大社は、熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)の中心であり、全国に4700社以上ある熊野神社の総本宮である。

御祭神は、熊野三山に共通する熊野十二所権現と呼ばれる十二柱の神々である。 奈良時代より神仏習合を取り入れ、御祭神に仏名を配するようになったとされる。

熊野本宮大社の主祭神は、熊野三山の他二社とは異なる家都美御子大神(けつみみこのおおかみ=素戔嗚尊【スサノオノミコト】)であるが、本宮の上四社の第一殿と第二殿にはそれぞれ伊邪那美神(夫須美大神)と 伊邪那岐神(速玉大神)が祀られている。
スサノオは荒ぶる神として知られているが、熊野では浄化と再生の神として信仰されている。
また、熊野は「黄泉の国(死者の国)」と「現世(生の世界)」をつなぐ場所ともされていて、死と再生の境界に立つ神域と考えられてきたという。

熊野本宮大社へ続く「熊野古道」は、かつて上皇や貴族、庶民までが歩いた祈りと再生の巡礼路である。
平安時代になると、皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、京都から熊野古道を通って上皇や女院の一行が何度も参拝に訪れた。
室町時代には、武士や庶民の間にも熊野信仰が広まっていった。男女や身分を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、大勢の人が絶え間なく参拝に訪れる様子は「蟻の熊野詣」と例えられるほどであったと伝わる。
長い道のりを歩くことで、心身を清め、神の前で新たな自分として生まれ変わる――そんな“魂の旅”が、今も多くの人を惹きつけてやまない。
熊野本宮大社の本殿や結宮、若宮などは、国の重要文化財に指定されている。
| 名 称 | 熊野本宮大社 |
| 御祭神 | 家都美御子大神 (=素戔嗚尊) 伊邪那美神 (夫須美大神=イナナミ) 伊邪那岐神 (速玉大神=イナナギ) 熊野十二所権現 |
| 所在地 | 和歌山県田辺市本宮町本宮 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 熊野本宮大社 |
あとがき
熊野本宮大社は、高さ約34m、横42mの日本一高い大鳥居があることでも有名である。
日本神話では、古代本宮の地に神が降臨したと伝えられている。三本の川の中州にあたる聖地、大斎原に社殿を建てたのは、崇神天皇65年(紀元前33年)のことであったと伝わる。
ところが、明治時代の大洪水で現在の場所に遷座されたという。しかし、今も大斎原は“元宮”として大切にされていて、「自然の力と人々の祈りが交差する場所」として、再生の象徴になっている。

熊野本宮大社の境内には八咫烏【やたがらす】と呼ばれる3本足のカラスがいたるところに配置されている。


八咫烏は、日本書紀・古事記の「神武東征」という物語に登場する。神武東征とは、神武天皇が 日向(現在の宮崎県)から橿原(現在の奈良県)に遷都し、大和朝廷を開いて初代天皇に即位するまでを描いた物語のことである。
神武天皇が熊野に到着された時、神の使者である八咫烏が奈良まで道案内をしたというエピソードから、熊野三山に共通する「導きの神鳥」として信仰されるようになったと伝承されている。
八咫烏は日本サッカー協会のシンボルとして全国的にも有名になっている。