はじめに
海外で、特にアメリカで忍者(NINJA)が人気らしいが、私も子供の頃は忍者物の漫画やドラマ・映画が好きだった。何故、好きだったかという単純に手裏剣や忍術が使えるカッコよさにあこがれていたからだと思う。
そして今とは違って昔は忍者を主人公にしたドラマがテレビでよく放映されていた。かつて野球人気がサッカー人気よりも高かったように、単に目にする機会が多かったからだと思うが、それでも忍者のカッコよさへの憧れは特別なものであったように思う。それが現代におけるアメリカでNINJAが注目される所以ではないかと勝手に想像したりする。
私の好きな司馬遼太郎の著書にも忍者が登場する小説がある。例えば、『風神の門』という長編小説では、霧隠才蔵【きりがくれさいぞう】という伊賀流忍者が主人公で、忍術が得意である。真田十勇士の筆頭として甲賀流忍者の猿飛佐助も登場する。
伊賀流忍者と甲賀流忍者は、忍者の世界では二大勢力とされている。忍者の主な任務は諜報活動であり、戦時には傭兵として戦いに参加して、敵陣の攪乱工作や破壊工作などを担ったらしい。
伊賀流忍者と甲賀流忍者の里は、それぞれ現在の三重県伊賀市と滋賀県甲賀市の山間部に位置し、それぞれの領地が山を隔てて接しているように比較的近い距離にある。
漫画やドラマではよく伊賀流忍者と甲賀流忍者はライバル関係にあって、いつも敵対しているように描かれているが、それはエンターテインメントとしてのことであろう。この両者の領地の位置関係からして決して熾烈な敵対はしていなかったはずである。むしろ良好な関係を築いていたはずである。その方が両者が共存できると合理的判断が働いたに違いない。そんなことをふと考えてしまった。隣人同士は仲良くしないと住み心地が良くないことは古からの道理である。
幸いなことに、私は今、三重県の名張市で生活する時間が長くなっている。かつては名張市も伊賀国に含まれていた。そして名張市からは伊賀流忍者の里・伊賀市へも甲賀流忍者の里・甲賀市へも比較的近い。この地の利を活かして、伊賀流忍者と甲賀流忍者の両者の里を訪ね、伊賀流忍者と甲賀流忍者の虚像と実像について学び、両流派の違いについて調べてみた。その結果を本稿に記したいと思う。
<目次> はじめに 甲賀流忍者の里 甲賀流忍者屋敷 甲賀の里・忍術村 甲賀流忍者の歴史 甲賀流忍者の政治・組織 甲賀流忍者の得意な忍術 甲賀流忍者の流儀 甲賀流忍者の衣装と変装術 忍装束 変装術 甲賀流忍者の食事 携帯食 遁走術 歩法と走法 忍者の体力(指で体重を支える腕力) 甲賀流忍者の道具 忍者特有の武器 忍者文字 伊賀流忍者との相違点 あとがき |
甲賀流忍者の里
滋賀県甲賀市は、甲賀流忍者発祥の地である。そのため甲賀流忍者のテーマパークとして「甲賀の里 忍者村」が存在し、甲賀五十三家の筆頭格であった望月氏の旧邸を「甲賀流忍術屋敷」として公開したりしている。いずれも甲賀流忍者の実像や暮らしを今に伝えている。甲賀流忍者の秘伝の書や忍具などが展示され、当時のからくり屋敷も残されていて非常に興味深いものである。老若男女を問わず、人気が高いのも頷ける。
かつて私が甲賀市で勤務していた頃、業務出張先で初対面の人から居住地を尋ねられた際、「甲賀忍者の里」と答えれば大抵の人には納得して貰えた経験がある。それほどに甲賀市は甲賀流忍者の里としての知名度が高い。
甲賀流忍者の里、甲賀市には甲賀流忍者について学ぶところが複数ある。一つは、甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸)と、もう一つは甲賀の里・忍術村内にある甲賀忍術博物館である。その二つを訪ねて甲賀流忍者について学ぶことにした。
甲賀流忍術屋敷
甲賀流忍術屋敷は、甲賀五十三家の筆頭格であった望月家の旧邸を一般に公開している。当時のまま残されている防衛のための屋敷内の「からくり(仕掛け)」をガイド付きで見学することができる。
興味深いのは、外見は一般的な日本家屋だが、内部は外敵の襲撃に備え、また侵入した敵を捕らえるための「どんでん返し扉」(回転戸)や「落とし穴」、さらには「隠し梯子」と「隠し部屋」など「からくり(仕掛け)」が多く施されている点である。
望月家(望月出雲守)の旧邸は、住居として元禄年間(1688年~1704年)に建てられたものである。屋敷には望月家の家紋の「丸に九曜紋」が瓦など至る所に描かれている。
また、甲賀の地に伝わる甲賀流忍者の秘伝の書や忍具も紹介されている。甲賀忍者の奥義を記した甲賀流伝書(虎の巻)など数々の貴重な品が展示されており、忍者の生活を伺うことができる。
忍具として有名なのは、手裏剣や撒菱などであるが、資料室には勿論、実物が展示されているので、リアリティがある。
名 称 | 甲賀流忍術屋敷 |
所在地 | 滋賀県甲賀市甲南町竜法師2331 |
電 話 | 0748-86-2179 |
営業 | 営業時間:9:30~17:00 (入館は16:30まで) 休館日:毎週水曜日及び第4木曜日 |
入館料 | 大人650円 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 甲賀流忍術屋敷(甲賀望月氏本家旧邸)公式HP |
甲賀の里・忍術村
甲賀の里 忍術村は、甲賀流忍者発祥の地として、この地に伝わる甲賀流忍者の秘伝の書(忍術書)、忍者が使用する道具である忍具や忍者屋敷を紹介しているテーマパークである。
村内(園内)には旧岡田家(甲賀忍術博物館)と旧藤林家(からくり忍者屋敷)が移築されている。
甲賀忍術博物館には、世界一を標榜する忍術資料が収蔵されている。また、旧藤林家は、「万川集海」の著者として知られる藤林保武の一族の家を移築したものとされる。
村内(園内)では、忍者の技や道具(忍具)を見たり、忍具の手裏剣や水蜘蛛などの忍術を体験できる屋外型のアスレチックなどもあり、多くの観光客から人気を博している。
名 称 | 甲賀の里 忍術村 |
所在地 | 滋賀県甲賀市甲賀町隠岐394 |
電 話 | 0748-88-5000 |
入館料 | 大人1,100円 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 甲賀の里忍術村【オフィシャル】 |
甲賀流忍者の歴史
忍者とは「忍術を使う人」であるが、忍術の起源には諸説があって、実のところ始祖は意外にも明確には分かっていないらしい。
一説によると、聖徳太子(厩戸皇子【うまやどのみこ】)に仕えた大伴細入【おおとものさいにゅう】という人物が、その働きから最初の忍者であったとも伝えられている。しかし、史料が少ないために伝説の域を出ないらしい。
さて、甲賀流忍者がその存在を大きく認められたのは、1487年の「鈎の陣」【まがりのじん】の戦いであるとされる。幕府の命令に背いた佐々木六角氏の討伐に、九代将軍足利義尚が佐々木六角氏を追って甲賀城を攻めた。
佐々木六角氏は姿を隠し、甲賀山中でのゲリラ戦となったが、足利将軍の権威をかけたこの戦いは将軍足利義尚が1489年に鈎の陣屋で死ぬまでの約3年間続いたとされる。この戦いで佐々木六角氏に加担した甲賀武士(甲賀忍者)の活躍ぶりが全国に知られる結果となったという。
その5年後の明応元年(1492年)にも、将軍になった足利義種が甲賀総攻撃を命じるが、佐々木六角氏は甲賀忍者に護られ、甲賀山中から伊勢にまで落ち延びた。佐々木六角氏にとっては甲賀忍者との結びつきはなくてはならないものとなっていたようである。
ところが永禄11年(1568年)、織田信長からの近江路案内役の依頼を断った佐々木六角氏は、信長に居城・支城をことごとく攻略されてしまうことになる。
そして天正9年(1581年)に、信長は約5万もの大軍を集め、「第二次天正伊賀の乱」を決行した。これにより近江の雄であった、佐々木六角氏の時代は終焉を迎えた。この大きな敗因には、甲賀の忍者集団が積極的に佐々木六角氏を支援しなかったことが挙げられている。
信長の佐々木六角氏攻めに甲賀の忍者集団が動かなかった理由としては、この戦いの裏で徳川家康が動いていたからだとする説がある。佐々木六角氏に加担しないことを条件に、家康が甲賀攻めをしないと約束し、それを甲賀の忍者集団が受け入れたからだといわれている。
甲賀忍者の生き方は、元々は攻撃的なものではないとされる。あくまでも自分たちの生活を守るために武力を行使してきたとされる。それまで甲賀の忍者集団が佐々木六角氏に加担したのは、近江の一大勢力であった佐々木六角氏に協力することが必要であると判断したためであり、佐々木六角氏の衰退を目の当たりした甲賀忍者たちは、信長寄りの姿勢を固めていったといえる。
しかし、信長の強大な武力の前に甲賀の忍者集団は屈したが、信長には内心は反発していたようだ。信長の実力・手腕を認めながらも、彼の強引なやり方には反感を持っていたという。また信長の方も甲賀の忍者集団には警戒の目を向けていたとされる。
第二次天正伊賀の乱からわずか8ヶ月後の天正10年(1582年)に、「本能寺の変」が起こる。明智光秀が、京都四条の本能寺において、織田信長の不意を襲って信長を自害に追い込んだ事件である。
この時、信長の招きで「都見物」に来ていた徳川家康は大阪の旅先でこの大事件を聞き、一刻も早く本拠地の三河に帰ろうとしたが明智光秀勢に帰路を阻まれ窮地に追い込まれていた。その窮地の際、徳川家康は、甲賀の忍者集団の好意的な援護により、宇治田原から信楽の地へ入り、甲賀53家の一つである多羅尾家の屋敷で一泊している。
その先は、服部半蔵率いる伊賀忍者らに護られ、伊賀から加太越え【かぶとごえ】して伊勢の白子浜に着き、そこから海路で三河まで逃れることができたという。この「伊賀越え」の功績によって、多羅尾氏は後に代官に取り立てられている。勿論、伊賀忍者たちも尾張の鳴海に呼ばれ、「伊賀二百人組」が組織された。
このように忍者集団には先見の明があり、天下の成り行きを十分に把握していたことが「忍者の活躍」の特徴であると言えよう。
信長・秀吉・家康、この稀代の3人の英雄(実力者)の内、時の流れの一歩先を見越して、最後に天下を取るのは三河の徳川家康であろうと見通していたかのような行動を忍者集団は選択しているようにもみえる。
また、戦国大名の中では、徳川家康が一番見事に忍者を活用していたとされる。家康は早くから忍者の実力に目を付け、永禄元年(1558年)には甲賀と伊賀の忍者を合わせて270名も雇い入れていたという。徳川家康は「情報収集」の重要性を一早く理解できていた大名であったと言えるかも知れない。
甲賀の忍者たちが江戸に移り住むようになったのは寛永11年(1634年)で、これは伊賀の忍者たちの江戸移住より約50年ほども後になってからのことである。
その理由は、甲賀の忍者集団には合議制の伝統が続いており、先祖代々の土地を離れて江戸に移住することに反対するものも多かったためとされている。意思決定に半世紀とは随分と時間を要したものであるが、甲賀の忍者集団が合議制で意思決定をしていたことの証左としては貴重な史実であるといえよう。
江戸幕府将軍の度々の勧めを断り続けるわけにもいかないので、最終的に大原氏以下数人の甲賀忍者が江戸への移住を決意したことで、甲賀百人組もようやく江戸に移住することになったと伝わっている。大原氏はいわゆる「ファーストペンギン」となった人物であったのだろう。
戦国時代を生きた忍者たちは火術に長けていたことから鉄砲の名手も多く、江戸に移住した者は鉄砲隊の職などで活躍していたようである。しかし、江戸幕府の身分制と世襲制の中で、忍術を伝える必要もなく、新たに学ぶ必要もなくなって、世代交代と共に忍者は姿を消していったという。
甲賀の地で生まれ、戦国時代に育った甲賀流忍術は、太平の世となった江戸時代には不要と見做され、やがて消えざるを得ない運命にあったと言われている。
忍者の社会
甲賀流忍者の政治・組織
甲賀の忍者集団には、「惣」【そう】と呼ばれる共同体組織が存在したという。伊賀の忍者集団とは異なり、豪族と呼ばれる人たちとその他の忍びたちとの間には上下関係はなく、立場はほぼ対等であったという。
共同体組織の意思決定権は、多数決による合議制を採用していたそうである。日本社会全体が封建社会全盛の時代にあって、甲賀の地ではすでに民主主義が芽生えていたとは驚きである。
甲賀の忍者集団の領地は、現在の滋賀県の甲賀市【こうかし】と湖南市【こなんし】とされている。甲賀の忍者たちは、普段は農業や行商をしながら、各地の情報を得るという諜報員として活動していていたという。しかし、いったん指令があれば戦場へと赴いて、忍者としての活動をしていたということである。現代のフリーランスのような働きをしていたのかも知れない。これもまた当時から進歩的な働きをしていたものである。
忍者の技術
甲賀流忍術の得意な忍術
甲賀流忍者の得意分野は、医療や薬であったとされる。薬とは、つまり毒薬を使うことである。私の妻が好きな韓国ドラマの宮廷物では必ず登場する「毒薬による暗殺」である。甲賀忍者もこの毒薬による暗殺を得意としていたなら、恐怖というしかない。
甲賀の忍者たちは、普段は行商も行っていたので、行商で薬を売りながら普段の忍者活動(主として諜報活動)をしていたということである。その際には毒薬ではなく、治療用の医薬品を販売して医療に貢献していたのであろう。
その名残りからか、甲賀市近辺には、今でも製薬会社が多く存在する。そのため地元住民も医薬品製造業に対しての理解があり、製薬会社が工場を誘致しやすい土地柄でもある。
また、甲賀流忍術には「手妻」【てづま】という幻惑術の一種があるという。手妻とは、手品(マジック)のように手を素早く動かして相手を惑わす術のことである。甲賀の忍者集団はこのマジックに似た「手妻」にたけていたということである。マジックの原型が、甲賀流忍術にあったと考えることができるなら実に愉快である。
忍者の流儀
甲賀流忍者の流儀
甲賀の忍者集団も依頼者からの依頼に基づいてビジネスを請け負っていたが、伊賀の忍者集団とは異なり、依頼主を特定の家に絞り、1人の主君(依頼者)に仕えていたとされる。
しかし、特定の主君と命を共にするわけではなく、仕える大名(依頼者)が没落するごとに、主君(依頼者)を変えていったという。ここが最後まで運命を共にする武士とは異なる点であり、ある意味では非常に合理的と言える。
実際に、甲賀の忍者集団は、最初は佐々木六角氏の配下にあり、その後は織田家、豊臣家、徳川家の順番で主君(依頼主)を変えていっている。常に天下を取っていく主に仕えているのは、時代の先見性があったということかも知れない。
常に情報収集を行い、情報分析に長けていた甲賀の忍者集団であるならば、多分、常に次の天下人が誰であるかを分析し、その時代変化に対応しようとしていたに違いない。
忍者の衣装と変装術
忍装束
忍者は普段家にいる時には一般の武士と同じ服装をしていたようだが、敵の状態を探りに忍びに出かけていく時は、身軽で目立たないように忍装束【しのびしょうぞく】を身に着けていたとされる。
忍装束は、テレビドラマや映画などではよく黒の忍装束が見られるが、実は真っ黒ではなかったらしい。黒の忍装束では、月明かりで輪郭が浮き出てしまうからである。派手な赤やピンクの派手な忍装束はテレビドラマや映画だけの世界であって、現実性は皆無である。
伊賀流忍者の実際の忍装束は、クレ染めの濃紺が主流であったという。この紺染めは、まむし除けの機能も果たしていたとされるから機能的であったと言える。
忍装束は、元々は伊賀地方の農民の服装に覆面をしたもので、夜に活動するときに着用したという。闇にまぎれる服装として適していたということである。
一方、甲賀流忍者の忍装束は、表が茶染・柿染などの茶系統の色で、裏が黒かネズミ色の着物を着ていたとされる。
この上着の内側には物入れが作られていて、そこにはシコロという小さな両刃の鋸や三尺手拭などの細長い物を入れ、胸のところには銅製の鏡や渋紙・油紙・和紙などを入れ、防弾の役割もさせたという。
身に付けるもの全てが敵の攻撃からの防御と、同時に攻撃の道具になるように、さまざまな工夫がなされていたという。常に合理性を追求した忍者の知恵が忍装束(衣装)一つを見ても感じとられるのは非常に興味深いことである。
変装術
忍者の衣装には忍装束の他にも、情報収集のために出掛けるときの七方出【しちほうで】という変装術用の衣装がある。
ただ変装するだけではなく、尺八を覚えたり、お経や呪術も学んで、ときには方言までも習得するなど、怪しまれないためのいろいろな工夫や鍛錬に努めていたという。
忍者の変装術「七方出」
商人 |
怪しまれることが少なく、品物を売り歩きながら 情報を収集できた。 |
放下師【ほうかし】 |
現在の手品師のこと。敵を油断させるのに都合がよかった。 |
虚無僧 |
編み笠をかぶっているので、顔を隠すことができた。 |
出家 |
お坊さんのことで、怪しまれにくく、 托鉢をしながら情報を集めた。 |
山伏 |
出家と同じように、人に怪しまれることが少なかった。 |
猿楽師 |
能役者のことで民衆に人気があった。また猿楽の好きな大名に招かれることもあり、敵城内を探ることもできた。 |
常型 |
表が普段の服装で、裏が別物の装束のこと。リバーシブルの着物で、いざというときには着替えて敵の目をごまかしたという。 |
これらの七方出のほかにも、連歌師や琵琶法師、薬売りなどにも変装していたという。
忍者の食事
普段の食事は、アワ・ヒエ・玄米・麦などの穀物やイモ類と野菜を中心にした食事であったらしい。
シイ、クワ、グミ、トチ、クリ、カヤなどの木の実やウズラの卵なども食していたという。これは、敵の屋敷に忍び込む時、居場所を悟られないように体臭に繋がる匂いの強い食材は食べないように気をつけていたからだという。ここにも合理性がある。
ただし、食べたい食事を一切断ち切っていたわけではなく、体力をつけるために肉や魚を食べることもあったらしい。合理的な判断が栄養管理においてもなされている。今日流行のダイエットにも忍者の知恵を生かさない手はない。
忍者の携帯食
当時の主な携帯食である干し飯などの他に、下記のような忍者特有の携帯食もあったという。
水渇丸(のどの渇きを抑えるための携帯食) |
梅肉を叩いた物に麦角(イネ科に寄生する菌)と砕いた氷砂糖を加えて丸薬にしたもの。 |
飢渇丸(飢えをしのぐための携帯食) |
人参、そば粉、小麦粉、山芋、甘草、はと麦、もち米を粉末にして、酒に3年浸す。 酒が乾いたらモモの種ぐらいに丸めて丸薬状にしたもの。 |
非常食として現代の登山の際にも使えそうなものである。
忍者の遁走術
忍術は武術ではないから、人と交戦することは最後の手段で、そのための護身術として手裏剣や武器を使用したという。
忍者の使命は諜報活動、つまり情報を持ち帰ることを仕事としていたので逃げ延びる忍術が多種多様にあったという。中でも有名な遁走術としては下記のようなものがあったと伝わっている。
火遁の術 |
火事や火薬(ほうり火矢・埋め火・爆竹)を使って敵を混乱させ、そのすきをついて逃げる。テレビドラマや映画で、よく目にする遁走術の代表格である。 |
水遁の術 |
水の中に姿を隠す。テレビドラマや映画で、忍者が城の堀池に身を隠して近づき、そこから城壁を駆け登り、城内に忍び込むシーンがある。 |
煙遁の術 |
煙玉を爆発させて煙幕をはる。この忍術もテレビドラマや映画で、よく目にする遁走術の代表格の一つである。 |
金遁の術 |
撒き菱や、手裏剣を使った逃げ方である。撒き菱は、当時の主流の履物であった草履には有効であったと推察される。 |
隠形術 |
草叢【くさむら】に隠れたり(木の葉隠れ)、物陰に隠れる(観音隠れ)、石に擬態する(ウズラ隠れ)などの隠遁術を指す。私は「木の葉隠れ」は木の葉が舞う間に隠遁する忍術だとばかり思っていたが、実際はそうではなかった。私のイメージは漫画の世界での忍術であったということである。 |
忍者の歩法と走法
忍者の諜報活動は、情報の収集と伝達が主であるから忍び込むためのひっそり歩く技術と、得た情報をいち早く伝えるための走力を必要とした。
歩くための代表的な忍術として、下記の5つが伝わっている。
忍び足 |
音を立てないよう足の小指から徐々に体重をおろして歩く方法を指す。現在でも「物音を立てずにゆっくりと歩くこと」を「忍び足」と呼ぶことがある。 |
浮足 |
つま先から足を下ろす。 |
犬走 |
立って歩けないところを四つんばいで歩く。 |
狐走 |
音を全くたてずに、立って歩けないところをつま先を立てた四つんばいで歩く。 |
深草兎歩 |
音を全くたてずに、手の上に足を乗せて歩く。 |
速く走れなければ、忍者にはなれなかったらしい。「韋駄天」と呼ばれる足の速い忍者の場合は、一日に50里(約200km)を走ることができたとされる。2022年24時間テレビのチャリティーマラソンの距離は100kmであったが、その2倍の距離を走っていたというのだから驚きである。
二重息吹という呼吸法、つまり「吸う、吐く、吐く、吸う、吐く、吸う、吸う、吐く」のリズムで呼吸を繰り返すと酸素の摂取量も増え、余計なことを考えず集中して走ることができるとされているが、それだけで速く走れるわけがない。
忍者の歩法と走法は、日々のたゆまぬ努力と訓練によって達成できたのだろう。私には到底無理であり、この走るという訓練だけでも私は忍者には決してなりたくない。なりたいと願ったところで、なれはしないとは思うが・・・
忍者の体力(指で体重を支える腕力)
忍者は天井裏での活動が多いため、日頃から指を鍛えていたという。自分の体を持ち上げたり、天井にぶら下がったりするためである。
忍者はその訓練のために米俵を使っていたとされている。その米俵は約60kgであったとされるから、自分の体重は60kg以下であった可能性が高い。
体重が70kg以上もある忍者はさらに重い米俵を使っていたのだろうか? 当時、そんなデブの忍者はいなかっただろう。
忍者の使用道具
忍者の代表的な武器は手裏剣であるが、そんなモノを持ち歩いていて途中身体検査をされたら正体がばれる恐れがある。だから実際には手裏剣は必要な時以外は持ち歩いていなかったらしい。
では、手裏剣の代わりに何をもっていたかというと、持ち歩いてもあやしまれない武器(=農具)を使用していたという。代表的なものとして下記のようなものが知られている。
鎌 |
草刈りや稲刈りに使用する農具であるが、切りつけたりできる武器になる。あるいは4個の鎌の柄の部分を重ねて紐で縛り、それに長い紐をつけて高いところに引っ掛ければそれをつたってよじ登ることができる。 |
手棒 |
稲からお米をとる脱穀道具であるが、ヌンチャクのように振り回すと武器になる。 |
五徳 |
熱した鉄瓶を乗せるものであるが、足を取り外側を削って手裏剣代わりとすれば武器になる。 |
火箸 |
炭を持つ道具であるが、振り回したり、投げつければ武器となる。 |
龍た(吨) |
井戸に落とした物を引き上げる道具であるが、敵を引っ掛ける武器になる。 |
足鉤 |
滑りやすいところを歩く道具であるが、敵を蹴ったり、踏んだりすると武器として使える。 |
萬刀 |
植木挟みであるが、ふりまわせば武器として使える。 |
角指/手かぎ |
稲刈りや草刈りに使用する農具の一種であるが、手にはめて攻撃用の武器にすることができる。 |
苦無 |
土を掘る道具 |
坪錐 |
土塀に穴をあける道具 |
しころ |
木を切る道具 |
忍者特有の武器
手裏剣
忍者の代表的な武器は言えば、手裏剣【しゅりけん】である。幼い頃に流行った忍者遊びにはおもちゃの手裏剣は外せなかった。
手裏剣には、平型手裏剣や棒状手裏剣がある。その形状はいろいろで、四、五、六、七、八角形とさまざまな種類がある。
また、刃先は短くそれ自体に殺傷能力はないが、刃先に毒を塗るなど工夫を凝らせて、殺傷能力を高めたという。ただし、持ち歩くと怪しまれるので、五寸釘や縫い針で代用したという話もある。
吹き矢
扉の隙間から吹き口を出して利用するなど、姿を隠して行動する忍者にとっては適切な武器だったらしい。通常は狩りなどで吹き矢が使われていたが、吹き筒は長くて持ち歩くと怪しまれるので、笛などを利用していたという。
針
衣類を繕う以外にも、針を火で焼いて水に浮かべて磁石にしたり(方角を知るため)、吹き矢などといった攻撃用に用いたという。怪しまれずに持つこともできるので、忍者には好都合な道具だったらしい。
捲き菱
逃げる時に追手が来る道にまいて、追手をはばむのに用いたという。当時は草鞋【わらじ】を履いていたので効果があったようである。
忍者文字
忍者が手紙(密書)を書く時、誰かに見られても分からないように、仲間同士にしか通用しない特殊な文字を使っていたという。
忍者文字は、一種の暗号文のようなものである。忍者同士が使用した文字として忍びイロハや神代文字が知られている。
伊賀流忍者との相違点
伊賀流忍者と甲賀流忍者の相違点は何かについて考察したとき、両者の違いは主として次の3点に集約できるのではないだろうか。
- ビジネススタイル
- 組織構造
- 得意な忍術
ビジネススタイルについては、伊賀流忍者は仕事の依頼主に忠実であるが、仕事の依頼主が変われば敵対することもある。つまり依頼主ありきのビジネススタイルで、言わばドライな関係を依頼主とかわしていると言えよう。
一方、甲賀流忍者は1人の主君にのみ仕えるというビジネススタイルで、主従関係が強いと言える。そのため忠誠心は伊賀流忍者よりも相対的に強いが、その主君が没落してしまった場合には自身の仕事も同時に失うことになる。
組織構造については、伊賀流忍者には上忍・下忍をはじめとする上下関係が明確に存在し、上位者の命令は絶対的なものがある。特に意思決定に際しては、伊賀流忍者の社会では御三家の意思決定が重視されていた。
一方、甲賀流忍者の場合は「惣」が存在するが、全員がほぼ対等の立場で参加でき、多数決の合議制で意思決定がなされていた。封建時代にあって早くから民主的な社会が築かれていたとは驚きである。
得意な忍術については、伊賀流忍者は「火遁の術」と「呪術」が得意であり、甲賀流忍者は「医療」、「毒薬」や「手妻による幻惑術」が得意であったとされる。忍術と特徴としては、伊賀流忍術は「派手」であり、甲賀流忍術は「地味」であったと言えるかも知れない。しかし、地味な忍術の方が不気味であると言える。
今でも甲賀流忍者の里である甲賀市甲賀町には地場産業として医薬品会社(製薬会社)が多いのもその名残かも知れない。
あとがき
伊賀流忍者と甲賀流忍者はお互いが忍者(忍び)であるがゆえに、いろんな作品で対立しているように描かれている。それは敵対している方がエンターテイメントとして楽しめるからに他ならない。
事実としての伊賀流忍者と甲賀流忍者の関係は、比較的良好であったと伝えられている。合理的思考が得意な彼らは、同じ忍びとして対立することは双方にとって不利益であると互いに考えていたに違いない。
今でも甲賀流忍者の里である甲賀市甲賀町には地場産業として医薬品会社(製薬会社)が多く、地域として医薬品会社に対する理解も高い。そのためドイツ・バイエル社の日本法人バイエル薬品株式会社がこの地に滋賀工場を誘致することに決めたという話にも頷けることができる。