はじめに
山口県萩市を旅した際、松陰神社を参拝し、松下村塾を訪ねて吉田松陰をはじめ幕末の志士たちに想いを馳せて来た。
吉田松陰は幕末物の映画やドラマでは必ず重要人物の一人として登場するキャラクターなので名前はよく知っていたが、実のところどんなに偉大なのかは実感として理解していなかった。山口県萩市を旅することでわずかながらでも吉田松陰という幕末に実在した偉人と彼の弟子たちについて学ぶことができたと思う。
松陰神社
松陰神社は、幕末の思想家・教育者であった吉田松陰を祀る神社で、山口県萩市に位置する。松陰神社は、吉田松陰の遺言に基づき、彼の実家である杉家の邸内に建てられたという。
明治23年(1890年)に松陰の実兄である杉民治が小祠を建てたのが始まりとされる。
明治40年(1907年)に松下村塾の門人であった伊藤博文や野村靖が中心となって松陰神社が創建されたと伝わっている。
松陰神社の境内には、吉田松陰が主宰した私塾「松下村塾」が残されている。高杉晋作や久坂玄瑞、伊藤博文など、明治維新の原動力となった多くの逸材がこの私塾で学んだとされる。
松下村塾は、木造瓦葺きの小さな建物で、歴史的な雰囲気を感じることができる。
また、松陰神社の境内には、吉田松陰の生涯を紹介する「吉田松陰歴史館」がある。等身大のろう人形や資料を通じて、松陰の生涯や思想を学ぶことができる。
松陰神社は「学問の神様」としても知られており、多くの受験生が合格祈願に訪れるという。毎年1月には「勧学祭」が行われ、合格祈願のための特別な祭りが開催されるという。
名 称 | 松陰神社 |
所在地 | 山口県萩市椿東1537番地 |
TEL | 0838-22-4643 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 【公式】松陰神社|山口県萩市鎮座 明治維新胎動之地 |
吉田松陰と松下村塾
吉田松陰(1830~1859)は、長州(山口県)に生まれた稀代の思想家であり、教育者であった。幕末の思想家として尊王攘夷思想を広めて、明治維新に大きな影響を与えた人物である。
吉田松陰は、「松下村塾」と呼ばれる私塾を主宰し、多くの優秀な人材を育てた。彼の教えを受けた門下生には、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など、明治維新の原動力となった人物が多い。
松下村塾では、単なる知識の伝授だけでなく、実践的な学問と人格形成を重視したと言われている。
吉田松陰は、尊王攘夷思想を強く支持し、その思想を広めるために尽力した人物である。彼は、幕府の政策に反対し、外国勢力の排除と天皇中心の政治体制を目指した。この思想は、後の倒幕運動に大きな影響を与えたとされている。
1854年、吉田松陰はペリー来航に際して海外密航を試みたが、失敗に終わっている。この事件は彼の決意と行動力を示すものであり、その後の彼の思想や活動に大きな影響を与えたとされる。
吉田松陰は、1859年に「安政の大獄」に連座し、江戸で斬首刑に処された。彼の死は多くの人々に衝撃を与え、その後の倒幕運動を加速させる一因となったと言われている。吉田松陰の業績は彼の短い生涯にもかかわらず、日本の歴史に大きな影響を与えたと言える。
吉田松陰は、多くの著作や手紙を残し、その中には数多くの名言が含まれている。彼の思想や哲学は、現代でも多くの人々に影響を与え続けている。特に「士規七則」や「講孟余話」などの著作は有名である。
吉田松陰が残した多くの名言の中で、私は下記のような名言が特に好きである。
- 夢なき者に理想なし。理想なき者に計画なし。計画なき者に実行なし。実行なき者に成功なし。故に夢なき者に成功なし
- 夢を持つことの重要性を説いた教え
- 志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
- 自分の志を持ち、それを貫くことの大切さを示した教え
- 学問とは、人間がいかに生きていくべきかを学ぶものだ
- 学問の本質について述べた教え
- 過ちがないことではなく、過ちを改めることを重んじよ
- 過ちを犯すことよりも、それを改めることの重要性を強調した教え
これらの名言は、吉田松陰の思想や生き方を反映しており、現代でも多くの人々に影響を与え続けている。
吉田松陰は、幕末の志士たちの精神的支柱であり、自ら主宰する松下村塾の掛け軸に「知行合一」の書を掲げていたという。この言葉、『知識は身につけるだけでは不十分で、行動に移すことで初めて意味を為す』ということで、『知識は実践してこそ役に立つ』という意味だと思う。
知行合一【ちこうごういつ】 |
知識と行為は一体だということ。真の知識は実践によって裏づけられていなければならないということ。中国明の時代、儒学者王陽明が、朱子学の大成者朱熹の先知後行説(広く知をきわめてからでなければ実践できないとする説)に対して唱えた陽明学の中心思想。「知行合一説」の略。 |
吉田松陰の終生の信条を表す言葉として、『至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり』がある。この言葉は吉田松陰が愛読した「孟子」の一節だという。
「どこまでも誠を尽くし、信じ抜いて行動を起こす」ことを最期まで貫き、当時の為政者に警戒されて、わずか30歳の若さで斬首された(安政の大獄)。
しかし、その短い人生ではあっても、松陰先生から影響を受け、明治維新の原動力となった幕末志士の数は多く、松下村塾からも多くの有能な人材が輩出されていることに驚く。
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし」(吉田松陰)
吉田松陰は、まさに”King of kings”ならぬ ”Great man of great men” だと思う。
かつてのNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で吉田松陰役の伊勢谷友介さんが塾生によく問いかけていた言葉、「君は何を志しますか?」は上述の教訓に由来しているかと思われる。
吉田松陰が高杉晋作にかけた言葉として「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」というのがある。生きることの大切さを説いた言葉だと理解し、私は好きである。
高杉晋作
高杉晋作(1839~1867)は、幕末の長州藩士であり、尊王攘夷運動の志士として活躍した人物である。
高杉晋作は、1839年9月27日、長門国萩(現在の山口県萩市)に生まれた。藩校の明倫館で学び、後に吉田松陰が主宰する松下村塾に入門した。久坂玄瑞や伊藤博文などと共に学んだという。吉田松陰の教えを受け、多くの志士を育てたという。
1862年には長崎から上海へ渡航し、海外の実情を見聞した経験を有する。そして、1863年に下関で奇兵隊を結成し、身分に関係なく志願兵を募った。奇兵隊の創設は、長州藩の軍事力を強化するのに貢献したという。
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」という高杉晋作の言葉は、彼の行動力と影響力を象徴している。外国勢力の排除と天皇中心の政治体制を目指し、長州藩での倒幕運動を推進して、薩長同盟の成立にも貢献したという。
1867年5月17日、肺結核により27歳という若さで亡くなっているのが残念である。高杉晋作の生涯は短かったものの、その影響力は大きく、明治維新に大きな貢献をしたと伝えられている。
私は、幕末の志士のなかで高杉晋作にも何故か惹かれる。若くして無念の病没(享年29歳)をしているが、激動の幕末を太く短く、スマートに生きたイメージがある。NHK大河ドラマなどで魅力的な人物として描かれていることが多いからでしょうか?
私は、高杉晋作が残した次のような名言が好きである。
- 人は人 吾は吾なり 山の奥に 棲みてこそ知れ 世の浮沈
- 面白きこともなき世を面白く、住みなすものは心なりけり
実際に、魅力的な人だったのでしょうね。ナイスガイだと思う。
あとがき
久坂玄瑞【くさか げんずい】(1840~1864)は、幕末に活躍した長州藩士であり、尊王攘夷運動の中心人物の一人である。1840年、長門国萩(現在の山口県萩市)の藩医の家に生まれた久坂玄瑞は、幼少期から優秀な成績を収め、藩校の明倫館で学んでいる。その後、吉田松陰が主宰する松下村塾に入門し、高杉晋作らと共に松陰の教えを受け、尊王攘夷思想を深く学んだ。
長州藩の尊王攘夷派のリーダーとして、尊王攘夷運動に積極的に参加し、幕府に対抗する活動を行ったとされる。江戸のイギリス公使館焼き討ちや下関での外国船砲撃など、外国勢力に対抗する行動を実行している。
久坂玄瑞は、身長約180cmの長身で、声が大きくて美声の持ち主であったと伝えられている。彼は吉田松陰の妹・文(後の楫取美和子)と結婚しており、松陰とは縁戚関係にあった人物である。
1864年、禁門の変(蛤御門の変)で幕府軍と戦ったが、敗北したため自害して、最期を遂げた。非常に優秀な人物であったようだが、実に短い人生(享年25歳)であった。
伊藤博文【いとうひろふみ】(1841~1909)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の政治家であり、初代内閣総理大臣として知られている。日本の近代化と立憲政治の確立に大きく貢献した人物である。
伊藤博文は、1841年10月16日、周防国(現在の山口県)に生まれ、幼名は利助【りすけ】という。吉田松陰が主宰する松下村塾で学び、高杉晋作や久坂玄瑞と共に尊王攘夷思想を学んでいる。
1863年、井上馨らと共にイギリスに留学し、開国論者となった。明治政府に出仕し、外国事務掛や兵庫県知事などを歴任している。
1885年に初代内閣総理大臣に就任して以降、4度にわたって内閣を組閣した人物である。日本国初の憲法の起草に尽力し、1889年に大日本帝国憲法が発布されたのは彼の功績と言える。
1900年に立憲政友会を結成し、初代総裁となりました。そして、1905年には初代韓国統監に就任し、韓国の統治にも関与している。1909年10月26日に、満州のハルビン駅で安重根によって暗殺され、非業の死を遂げている。
松下村塾で吉田松陰の薫陶を受けた幕末の志士たちには優秀な人材が多いが、吉田松陰のように若くして非業の死を遂げるか、病死または暗殺など無念の最期を迎えた人が多いように思う。歴史にもしもがないのが分かっているが、彼らがもう少し長生きしていたら日本の歴史は変わっていたであろうか。そんなふうに思ってしまうほど彼らの活躍と人生はドラマチックである。