はじめに
太宰府天満宮【だざいふてんまんぐう】は、福岡県太宰府市にある神社で、「学問の神様」として知られる菅原道真を祀っている。表参道の突き当たりにある御神牛像は、触ると学業成就のご利益があるとされている。
菅原道真の最も有名な和歌のと言えば、彼が九州の大宰府に左遷される前に詠んだものとされる次の和歌である。私たちの世代は学校教育でよくこの和歌を諳んじさせられたものである。
「東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
現代語訳は、春風が吹いたら、匂いを(京から太宰府まで)送っておくれ、梅の花よ。主人(菅原道真)がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。彼が大切にしていた梅の木に語りかけるように詠まれた和歌とされている。
太宰府天満宮の境内には約6000本の梅の木が植栽されており、春には美しい梅の花が咲き誇り、周囲に良い香りを漂わせる。
太宰府天満宮は、学問成就や厄除けを祈願するために多くの参拝者が訪れている日本有数の人気の神社である。
大宰府天満宮
太宰府天満宮【だざいふてんまんぐう】は、菅原道真の御墓所の上に社殿を造営し、その御神霊を永久にお祀りしている神社である。全国に約12,000社あるとされる天満宮・天神社の総本宮である。
「学問・至誠・厄除けの神様」として、広く世のご崇敬を集めている。初詣には毎年200万人以上が訪れ、年間に約1,000万人の参拝者が訪れているという。
菅原道真は、承和12年(845年)に京都で生まれた。幼少期より学問の才能を発揮し、努力を重ねることで、一流の学者・政治家・文人として活躍した。情緒豊かな和歌を詠み、格調高い漢詩を作るなど優れた才能の持ち主でもあった。
学者出身の政治家として卓越した手腕を発揮し、異例の出世を重ねられた道真は、昌泰2年(899年)右大臣の要職に任命され、左大臣藤原時平と並んで国家の政務を統括した。
ところが、突如藤原氏の策謀により、昌泰4年(901年)に大宰権帥に左遷された。 つまり京都から大宰府に流された。 そのわずか2年後の 延喜3年(903年)2月25日、道真は住居の大宰府政庁の南館(現在の榎社)で波乱の生涯を閉じた。
門弟の味酒安行が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなった。これは道真の御心によるものであろうと考え、その地に埋葬することにした。
延喜5年(905年)に墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919年)には勅命により立派な社殿が建立された。そのため、太宰府天満宮が創建は、919年ということになる。今から1.100年以上も前の事である。
その後、道真の無実が証明されたため、「天満大自在天神」という神号が贈られ、「天神さま」と崇められるようになった。
平安時代から現在に至るまで、その時代の人々と共にさまざまな天神信仰が息づいており、「学問・至誠・厄除けの神様」として広く崇敬を集めている。
名 称 | 太宰府天満宮 |
所在地 | 福岡県太宰府市宰府4丁目7-1 |
TEL | 092-922-8225 |
駐車場 | なし(付近の有料駐車場を利用) |
Link | 【公式HP】太宰府天満宮|全国天満宮総本宮 |
あとがき
太宰府天満宮の御神木「飛梅」は、菅原道真が左遷される際に詠んだ和歌に応えるように、京都から一夜にして大宰府まで飛んできたと伝えられている。この梅の木は、道真が幼い頃から愛していたもので、彼の都への思いと悲しみが込められていたという。この御神木・飛梅の樹齢は、1,000年以上と推定されている。
飛梅は、「色玉垣」という極早咲の八重の品種で、毎年境内の梅に先駆けて開花するという。飛梅の花が咲くと、約200種類もあるという境内の6,000本の梅が次々と咲き誇り、境内は芳しい香りに包まれるらしい。「らしい」というのは、私はまだ、ウメの開花期に太宰府天満宮を参拝したことがないからである。一度、この時期に満開の梅の花を観るためにも参拝したいものである。
飛梅の実を使った「飛梅御守」は、一生一代の貴重なお守りとして大切にされているらしい。太宰府天満宮を参拝する際には、是非、「飛梅」を見て、その伝説に触れてみたいと思う。