はじめに
琵琶湖【びわこ】国定公園は、滋賀県の中央に位置する琵琶湖を中心とした国定公園である。琵琶湖周辺にはハイキングに適した山々が湖を囲むようにある。これらの山々も国定公園の指定区域である。
また、琵琶湖周辺には長い歴史を有する神社仏閣も多く、観光するにはもってこいの場所である。天台密教の開祖・最澄が開山した比叡山延暦寺をはじめ古刹や名刹が目白押しである。
古事記にも登場する日吉社(現・日吉大社)や幾多の焼き討ちに遭遇しながらもその都度、復興してきたという園城寺(三井寺)に参拝することができた。近江神宮の創建が比較的新しいことを今回の参拝で知ることができたし、石山寺への参拝は二度目ではあるが、前回からかなりの年月が過ぎていたので新鮮な気持ちで参拝することができた。若い頃とシニアになった今とでは参拝時の印象がかなり違っていることを強く感じている。
本稿が琵琶湖および琵琶湖周辺の旅を考えている方の一助になれば、本稿の目的は達せられることになるので嬉しい限りである。
<目次> はじめに 琵琶湖 竹生島 沖島 瀬田川 宇治川 伊吹山 武奈ヶ岳 蓬萊山 霊仙山 比叡山 須賀谷温泉 向源寺・渡岸寺観音堂 メタセコイア並木 能登川大水車 ラ コリーナ近江八幡 雄琴温泉 日吉大社 白鬚神社 近江神宮 園城寺(三井寺) 石山寺 佐川美術館 あとがき |
琵琶湖
琵琶湖【びわこ】は、滋賀県の近江盆地に位置する、日本最大の面積と貯水量を誇る淡水湖である。琵琶湖は、約440万年前に形成された古代湖であり、40万年~100万年前に現在の位置に移動してきたとされる。
近江盆地は、鈴鹿山地、伊吹山地、野坂山地、比良山地、甲賀山地などの山々に囲まれた盆地である。
琵琶湖は、その面積が669.26 km2で、滋賀県の面積の6分の1を占める広大な湖である。琵琶湖の最深部は竹生島と安曇川河口の間にあり、水深約104 mが計測されている。
また、琵琶湖の最狭部には琵琶湖大橋が架かっていて、この橋より北側を北湖、南側を南湖と呼ぶ。琵琶湖の貯水量の99%は北湖に蓄えられているとされる。
竹生島
竹生島【ちくぶしま】は、琵琶湖北部の沖合に位置し、周囲約2㎞の針葉樹に覆われた無人島である。滋賀県長浜市早崎町に属し、琵琶湖では沖島に次ぐ面積を有する。琵琶湖国定公園の特別保護地区、国の名勝および史跡に指定されている。
西国三十三所の三十番札所である宝厳寺【ほうごんじ】や 都久夫須麻神社【つくぶすまじんじゃ】(竹生島神社)があり、古くから「神を斎【いつ】く島」として信仰されてきた。
沖島
沖島【おきしま】は、琵琶湖の沖合約1.5 kmにある琵琶湖最大の島であり、琵琶湖国定公園第2種特別地域に指定されている。
滋賀県近江八幡市沖島町に属する、人口約250人の有人島である。戦国時代には琵琶湖水運の重要拠点としてここに関所が設置されていたという。
瀬田川
瀬田川【せたがわ】は、琵琶湖から流れ出る河川で、滋賀県大津市に位置する。瀬田川は、京都府内に入る辺りで宇治川【うじがわ】と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近で桂川・木津川と合流し、最終的に淀川【よどがわ】となって大阪湾に注ぐ。
瀬田川の名は、地名の「瀬田」に由来し、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である。
なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源となっているので、瀬田川や宇治川は河川法上では淀川本流として扱われる。また、琵琶湖に注ぐ全ての河川も、淀川水系として扱われる。
宇治川
宇治川【うじがわ】は、琵琶湖から流れ出る瀬田川が京都府内に入る辺りでと名を変えた河川で、やがて京都府と大阪府の境界付近で桂川・木津川と合流して、淀川【よどがわ】となって大阪湾に注ぐ。宇治川の名は、地名の「宇治」に由来したものである。
伊吹山
伊吹山【いぶきやま】(標高1,377m)は、滋賀県米原市、岐阜県の揖斐川町と関ケ原町にまたがる伊吹山地の主峰(最高峰)である。一等三角点がある山頂部は米原市に属し、滋賀県最高峰の山である。
伊吹山は、古くから霊峰とされ、古事記や日本書紀には日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途に伊吹山の神を倒そうとして返り討ちにあったとする神話が残されている。
武奈ヶ岳
武奈ヶ岳【ぶながたけ】(標高1214m)は、滋賀県大津市に位置する山で、比良山地【ひらさんち】の最高峰である。
山名は、中腹部にブナの木が多く生えていることに由来していると伝わる。
蓬莱山
蓬萊山【ほうらいさん】(標高1,174m)は、比良山地中部に位置する山で、武奈ヶ岳に次ぐ高峰である。山頂には一等三角点「比良ヶ岳」が設置されている。
山頂南側にはクマザサの高原が広がる。一方、山頂北側は日本海側からの寒波を受けて積雪が多いため、びわ湖バレイスキー場になっている。
びわ湖バレイは、六甲山人工スキー場と同様に京阪神地区から最も近いスキー場の一つである。スキー場は比良山地の尾根にあるため、山麓の駐車場からはロープウェイに乗って上がる。
オフシーズンには高原公園として営業しており、ロープウェイは比良山系への登山者も利用する。展望施設「びわ湖テラス」の開業(2016年)により、来場者数は劇的に増加したという。
「蓬萊」とは中国の伝説で仙人が住む東海にある霊山であり、比良山地も修験者の霊山であったことに由来するとされる。
名 称 | びわ湖バレイ |
所在地 | 滋賀県大津市木戸1547-1 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | びわ湖バレイ/びわ湖テラス |
霊仙山
霊仙山【りょうぜんざん】(標高1,094m)は、鈴鹿山脈の最北に位置し、滋賀県の多賀町と米原市、さらには岐阜県大垣市上石津町と不破郡関ケ原町にまたがる山である。霊仙山の北側には伊吹山が位置する。
山体は石灰岩からなり、なだらかな山の上部にはカレンフェルトやドリーネなどのカルスト地形が見られ、「近江カルスト」の一角をなしている。山頂部には窪みが多数あり、「お虎ヶ池」はドリーネにたまった池と考えられている。
奈良時代、山頂に「霊仙寺」が建立されたと伝えられているが、現在はその痕跡は見られない。
比叡山
比叡山【ひえいざん】(標高848m)は、滋賀県大津市西部と京都府京都市北東部にまたがる山で、大比叡(海抜848m)と四明岳【しめいがたけ】(海抜838m)の双耳峰からなる。
比叡山は、古事記には日枝山【ひえのやま】と記されており、古くから山岳信仰の対象とされてきた山である。大山咋神【おおやまくいのかみ】が近江国の日枝山に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。山麓には大山咋神を祀る日吉社(日吉大社)が創建され、大山咋神に対する山王信仰が広まったとされる。
また、大比叡東側の中腹には天台宗の総本山延暦寺がある。平安遷都後、伝教大師・最澄が堂塔を建てて天台宗を開いて以来、王城の鬼門を抑える国家鎮護の寺地となった。京都の鬼門にあたる北東に位置することもあり、比叡山は王城鎮護の山とされた。
かつては比叡山山頂の諸堂や山麓の日吉大社などを参拝して歩く回峰行も行われたという。現在では、有料道路や路線バス、ケーブルカー、ロープウェイで山頂まで簡単に行けるため、休日には多くの参拝客や観光客が訪れる山となっている。
須賀谷温泉
須賀谷温泉【すがたにおんせん】は、滋賀県長浜市須賀谷町の小谷山の南麓に位置している一軒宿の温泉である。
湖北地域の温泉としては歴史が古いとされ、戦国時代には小谷城主だった浅井長政をはじめ、お市の方や茶々が湯治に訪れたとされている。
泉質・効能
泉質はヒドロ炭酸鉄泉で、神経痛・筋肉痛・肩こり・冷え性・胃腸病・アトピー・病後の治療・疲労回復に効果があるとされる。
名 称 | 須賀谷温泉【すがたにおんせん】 |
所在地 | 滋賀県長浜市須賀谷町36番地 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 須賀谷温泉 – 温泉旅館「須賀谷温泉」の公式サイト |
須賀谷温泉を拠点とする観光スポット
須賀谷温泉周辺の観光スポットとしてよく知られているのは戦国時代の武将、浅井長政の居城であった小谷城の城跡ぐらいしか私には思いつかなかったが、私の妻は国宝の十一面観音像が安置されている向源寺【こうげんじ】の渡岸寺観音堂を教えてくれた。
またメタセコイア並木で知られる滋賀県高島市マキノ町へと誘って貰った。実際は誘われたというより、指示に近いが・・・
能登川大水車やラ コリーナ近江八幡は、須賀谷温泉に向かう途中で立ち寄った観光スポットである。
向源寺・渡岸寺観音堂
向源寺【こうげんじ】は、滋賀県長浜市高月町渡岸寺にある真宗大谷派の寺院で、山号は紫雲山と称する。渡岸寺観音堂【どうがんじかんのんどう】に安置されている十一面観音像(国宝)を有することで知られる。
寺伝によれば、奈良時代の736年、当時、都に疱瘡が流行したので、聖武天皇は泰澄【たいちょう】に除災祈祷を命じたという。泰澄は十一面観世音像を彫り、光眼寺を建立して、息災延命、万民豊楽の祈祷を行ったところ、憂いは絶たれたという。その後病除けの霊験あらたかな観音像として、信仰されるようになった。そして、790年、最澄が勅を奉じて七堂伽藍を建立したという。
1570年、浅井と織田の争いに巻き込まれて、戦火で伽藍は焼失した。しかしながら、観音を篤く信仰する住職巧円や近隣の住民は、十一面観世音像を土中に埋蔵して難を逃れたという。この後巧円は浄土真宗に改宗し、光眼寺を廃寺とし、向源寺を建立したとされる。
明治21年(1888年)、宮内省全国宝物取調局の九鬼隆一らが向源寺の十一面観音像を調査し、日本屈指の霊像であると賞賛したという。明治30年(1897年)、古社寺保存法に基づく日本で最初の国宝指定により、この十一面観音像も国宝に指定された。
国宝指定時の内務省告示における十一面観音像の所有者名は「観音堂」となっている。その理由は、向源寺が属する真宗では、阿弥陀如来以外の仏を本堂に祀ることを認めていないためで、この十一面観音像については、向源寺飛地境内の観音堂に祀るということで、本山から許可されたという経緯があったからだという。
大正14年(1925年)には平安時代建築の様式を取り入れた渡岸寺観音堂が再建され、昭和17年(1942年)には宗教団体法の規定に基づき、渡岸寺観音堂は正式に向源寺の所属となった。十一面観音像が文化財保護法に基づく国宝(新国宝)に指定されたのは昭和28年(1953年)である。
国宝の十一面観音立像は、向源寺に属する渡岸寺観音堂に安置されていたが、1974年に収蔵庫の慈雲閣が完成してからはそちらへ移されている。寺伝では泰澄作とされるが、像容に密教思想の影響がみられることから、実際の制作年代は平安初期の西暦9世紀頃とされるという。
十一面観音立像は、像高194cm(頭上面を含む)、檜材の一木彫であるという。均整のとれた体躯、胸部や大腿部の豊かな肉取り、腰をひねり片脚を遊ばせた体勢などにインドや西域の様式が伺われるという。腰をこころもち左にひねる造形が素晴らしい。
十一面観音像は、菩薩面3、瞋怒面【しんぬめん】3、狗牙上出面【くげじょうしゅつめん】3、大笑面【だいしょうめん】1、頂上仏面1の計11面を頭上に表すのが一般的であるが、この国宝の十一面観音像は、本面の左右にそれぞれ瞋怒面と狗牙上出面を大きく表し、天冠台上には菩薩面、瞋怒面、狗牙上出面を各2面、背面に大笑面を表しているのが特徴的である。
また、頂上面は螺髪【らはつ】をもつ如来形とするのが一般的であるが、本像の頂上面は髻【たぶさ】を結い、五智宝冠を戴く菩薩形であるのも特徴的であるとされる。
名 称 | 向源寺・渡岸寺観音堂 |
所在地 | 長浜市高月町渡岸寺50番地 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 渡岸寺観音堂(向源寺)/公式ホームページ 渡岸寺観音堂(向源寺) | 滋賀県観光情報・公式観光サイト |
メタセコイア並木
メタセコイアは、ヒノキ科メタセコイア属に属する落葉針葉樹である。落葉高木で、大きなものでは高さ50m、幹の直径は2.5m にもなるそうだ。そんなメタセコイアの並木道が奥琵琶湖の近くの高島市マキノ町にある。特に、紅葉の季節は多くの観光客で賑わうようだ。
どうして私たちがこのメタセコイア並木の地を訪れたかというとNHK BSで2023年3月18日から5月7日まで放送されたタイトルが『グレースの履歴』というドラマが関係している。俳優の滝藤賢一さんが主人公の蓮見希久夫役を演じ、その妻(蓮見美奈子)役のヒロインを尾野真千子が演じたドラマで私も気に入って全8話を鑑賞した。そのドラマとメタセコイア並木がどのように繋がっているかというとドラマのあらすじには全く関係はない。
実はヒロインを尾野真千子さんがホンダ社が1966年に発売した赤のスポーツカーであるS800(通称:エスハチ)の逆輸入車(左ハンドル)に乗って颯爽とメタセコイア並木道を走る姿がドラマのエンディングに毎回流れるのである。
この逆輸入車のS800には女優でありモナコ公国の王妃でもあった、グレース・ケリーのファーストネームから「グレース」と名付けており、ドラマタイトルの一部にもなっている。そして「履歴」とはカーナビの履歴を指している。ドラマのあらすじは割愛するが、主人公が妻が事故で亡くなった後に残された妻の愛車グレース(S800)に乗り、カーナビ履歴に従って旅をする間に自分が気付かなかった妻の自分への深い愛情を知るというドラマである。
私の妻はこのドラマのエンディングシーンをかなり気に入ったらしく、今回の旅でも最優先に行きたい場所に挙げていた。基本的に出不精である私が旅のプランニングにリーダーシップを発揮するわけがなく、いつものようにドライバー兼ポーター役に徹するだけである。もっとも「船頭多くして船山に上る」になってはいけないので、私たちの旅はこれでうまく回っているといえよう。
名 称 | メタセコイア並木 |
所在地 | 滋賀県高島市マキノ町蛭口~牧野 (カーナビ)マキノピックランド 0740-27-1811 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | メタセコイア並木 | びわ湖高島観光ガイド |
能登川大水車
能登川水車【のとがわすいしゃ】は、伊庭内湖に面したのどかな田園風景の中にある。この能登川水車の直径は13 mもあり、関西一を誇る大きさであるという。
能登川の北西部は琵琶湖に面していて、湧き水が流れる水路も多く、非常に水に恵まれた土地であったため、かつては水車が小屋や家に併設され、精米や製粉に利用されてきたという。その歴史は古く、約190年前に遡るという。明治時代には39基もの水車が存在したが、電気の普及や生活様式の変化で昭和36年(1961年)を最後に水車の姿は消えてしまったらしい。
平成3年(1991年)に旧能登川町がふるさと創生事業の一環で能登川のシンボルとしてこの巨大水車を作ったという。現在の巨大水車は二代目であるようだ。
近くには初代の巨大水車の軸が飾られている。この軸は平成3年(1991年)から平成16年(2004年)まで稼働していたという。軸だけで直径2m、重さは5トンという巨大なものである。
名 称 | 能登川大水車 |
所在地 | 滋賀県東近江市伊庭町1269 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 能登川水車とカヌーランド(伊庭内湖) | 滋賀県観光情報 |
ラ コリーナ近江八幡
ラ コリーナ(La-collina)近江八幡は、2015年にオープンした
たねやクラブハリエのフラッグシップ店である。バームクーヘンの製造販売をはじめたねややクラブハリエの商品が販売されている。
ラ コリーナ(La-collina)はイタリア語で「丘」という意味であるらしい。ラ コリーナのコンセプトは「自然に学ぶ」で、共に生きる自然を感じ、みずからの創造力に活かしているという。ラ コリーナにはユニークな建物が多くあり、見てるだけで楽しい。海外からの観光客にも人気のようで、中国語や韓国語、英語にドイツ語が否応なしに耳に飛び込んできた。
名 称 | ラ コリーナ近江八幡 |
所在地 | 滋賀県近江八幡市北之庄町615-1 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | ラ コリーナ近江八幡 | たねや (taneya.jp) |
雄琴温泉
雄琴温泉【おごとおんせん】は、滋賀県大津市に位置し、琵琶湖西岸にある温泉である。伝教大師・最澄によって開湯されたと伝わる約1200年超の歴史を有し、滋賀県最大の温泉地である。
泉質・効能
泉質は、アルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性温泉)である。源泉温度は約26℃~36℃であるため、加温して使用される。
適応症としては、神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え性、疲労回復などに効能があるとされる。
温泉街
昭和4年(1929年)創業の老舗旅館である湯元舘をはじめとして旅館・ホテルが10軒ほどが滋賀県道558号高島大津線を挟んで点在する温泉街を形成する。比叡山の山麓沿いに建てられているため、琵琶湖の眺望に優れる。
名物料理として鴨料理や近江牛料理などがある。特に鴨鍋は冬の琵琶湖を代表する味覚であるとされる。また、地元のブランド牛である「近江牛」を提供する「認定近江牛指定店」に全10軒が登録して、食へのこだわりがあるイメージを旅館組合ぐるみで形作っている。
旅館組合ぐるみによる旅館同士の競争が相乗効果を生み、着実にリピーターや新規顧客を増加させ、かつての雄琴温泉のイメージは消え、現在では滋賀県を代表する一大温泉地となっている。
名 称 | 雄琴温泉(おごと温泉) |
所在地 | 大津市雄琴 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | おごと温泉観光協会 |
周辺の観光スポット
雄琴温泉の周辺には比叡山延暦寺とその門前町坂本、日吉大社、白鬚神社、近江神宮、園城寺(三井寺)や石山寺など歴史のある神社仏閣が多く、観光拠点としても適している。
また、琵琶湖大橋を渡るとすぐの場所に佐川美術館もあって名画や彫刻を鑑賞できる。
日吉大社
日吉大社【ひよしたいしゃ】は、かつては日吉社【ひえしゃ】と呼ばれていた神社で、全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。通称として山王権現とも呼ばれる。
日吉大社は、2社の本宮(東本宮と西本宮)と5社の摂社(牛尾宮・樹下宮・三宮宮・宇佐宮・白山宮)から成ることから、日吉七社あるいは山王七社とも呼ばれる。
東本宮と西本宮を中心とする40万m2という広大な境内は国の史跡にも指定されている。
古事記には「大山咋神【おおやまくいのかみ】、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とある。これは、日吉社・東本宮の御祭神である大山咋神について記したものであるとされる。日枝の山【ひえのやま】とは比叡山のことである。
日吉社・東本宮は、比叡山の地主神である大山咋神を祀るために崇神天皇7年に日枝の山(比叡山)の山頂から現在の地に移されたらしい。
東本宮境内の各社は「大山咋神の家族および生活を導く神々」と説明されている。例えば「樹下神社」の御祭神は、大山咋神の妃神・鴨玉依姫神【かもたまよりひめのかみ】であるとされる。
西本宮の御祭神は大己貴神【おおなむちのかみ】である。近江大津宮(大津京)遷都の翌年にあたる668年に、大津京鎮護のために大神神社【おおみわじんじゃ】の御祭神である大物主神【おおものぬしのかみ】を大己貴神として勧請(分霊)し、新たに西本宮を建てて祀ったのがはじまりであるという。これは大己貴神の別名である大国主神【おおくにぬしのかみ】の和魂【にきたま】が大物主神であるとされ、両神が同じ神とみなされたためであるという。
西本宮が創建されて以降、東本宮・大山咋神よりも、西本宮・大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれるようになったらしい。
794年の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門(北東の方角)に位置することから、鬼門除け・災難除けの神社として国から崇敬されるようになった。
また、788年に最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立し、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬して以来、延暦寺の勢力が増すにつれて日吉社と神仏習合する動きが出てきたという。
日吉社の御祭神は山王権現【さんのうごんげん】と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道【さんのうしんとう】を説いていくようになる。
このように日吉社は延暦寺と一体化していき、日吉社の参道沿いには延暦寺の里坊が立ち並ぶようになったという。天台宗が全国に広がる過程で、日吉社の山王信仰も広まって全国に日吉社が勧請・創建されたという。
室町時代には山王神道が益々盛んとになり、境内に108社、境外にも108社もの摂社・末社が建ち並ぶなど隆盛を誇ったという。
しかし、1571年に織田信長の比叡山焼き討ちによって日吉社も焼かれて全社殿は灰燼に帰したという。現在の建造物は安土桃山時代以降、1586年から1597年にかけて再建されたものである。信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康が山王信仰に篤ったためであるとされる。
日吉社は、1681年頃に神仏習合や山王神道(山王一実神道)を改めようと延暦寺と争いになるが、論争に敗れ、延暦寺から山王神道を守るように厳命され、それに従った。しかし、明治元年(1868年)、神仏分離令が出ると率先して仏教色を一掃し、延暦寺から独立して社名を日吉大社に変えたという。
日吉大社では、猿は神の使いであるとされ、神猿【まさる】と呼ばれる。西本宮楼門屋根下の四隅には猿の彫刻が施されている。
棟持猿【むなもちざる】といい、屋根を支え、見張りもしているという。四隅の猿はそれぞれ違うポーズをしている。
また、東本宮参道沿いには猿の顔に見えるという猿岩がある。
境内の一角に神猿舎があり、ニホンザル2匹が飼育されている。
名 称 | 日吉大社 |
所在地 | 滋賀県大津市坂本5-1-1 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | 日吉大社 | 平安京の表鬼門鎮座 方除・厄除の大社 |
白鬚神社
滋賀県高島市鵜川にある白鬚神社【しらひげじんじゃ】は、白鬚大明神あるいは比良明神とも呼ばれ、全国にある白鬚神社の総本社とされる。
白鬚神社の本殿は重要文化財に指定されている。
沖島をバックに琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから「近江の厳島」とも称される。鳥居は琵琶湖中に建てられ、白髭神社のシンボルとなっている。
御祭神は、猿田彦命 【さるたひこのみこと】(日本書紀表記)であり、古事記では猿田毘古神と表記される。記紀では天孫降臨の際に登場し、天上から地上までへの道案内をした国津神として描かれている。
しかしながら、元々は社殿の背後に聳える比良山を神体山とする比良明神であるという説もある。
社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命【やまとひめのみこと】によって社殿が建てられたのが創建とされ、近江国最古の神社とされている。674年には天武天皇の勅旨により比良明神号を賜ったとも伝わる。
名 称 | 白鬚神社 |
所在地 | 滋賀県高島市鵜川215番地 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 近江最古の大社 白鬚神社 |
近江神宮
紀元二千六百年記念行事とは、神武天皇即位紀元(皇紀)2600年に相当する昭和15年(1940年)に祝賀のための催された一連の行事を指す。
近江神宮【おうみじんぐう】は、この皇紀2600年を記念して昭和15年(1940年)に創祀された比較的新しい神社である。
天智天皇が667年にこの地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、天智天皇を御祭神として創祀されたという。
天智天皇は、小倉百人一首の第1首目の歌を詠んだ天皇として知られており、これにちなんで1月前半の日曜日にかるた開きの儀(かるた祭)が行われている。
競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦も毎年1月に行われている。さらには高松宮記念杯歌かるた大会や高校選手権大会などが開催されているように、百人一首や競技かるたと関係が深い神社である。
天智天皇の百人一首の歌の歌碑も設置されている他、柿本人麻呂や高市黒人の万葉歌碑など多くの歌碑が境内に作られている。
また、天智天皇は日本で初めて水時計(漏刻)【ろうこく】を設置した天皇として知られ、時の記念日(6月10日)には漏刻祭が開催されている。境内には各地の時計業者が寄進した古代日時計や漏刻(レプリカ)などが設けてあり、時計館宝物館と近江時計眼鏡宝飾専門学校が境内に併設されている。
名 称 | 近江神宮 |
所在地 | 滋賀県大津市神宮町1番1号 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 近江神宮公式ホームページ |
園城寺(三井寺)
園城寺【おんじょうじ】は、滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗総本山の寺院で、山号を長等山【ながらさん】と称する。
御本尊は弥勒菩薩で、与多王【よたのおおきみ】(7世紀飛鳥時代の皇族で、弘文天皇(大友皇子)の皇子とされる伝承的人物で、大友与多王とも呼ばれる)による開基と伝わる。
大友氏の氏寺として草創されたらしい。9世紀に入り、円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興されたことから天台寺門宗総本山の寺院となったようだ。
10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争(山門寺門の争い)が激化し、比叡山の宗徒によって園城寺が焼き討ちされることが度々あったという。さらには豊臣秀吉によって寺領が没収されて廃寺同然となったこともあったという。園城寺は平安時代から戦国時代までで合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上しているが、うち14回は延暦寺による焼き討ちであったという。しかしながら、こうした苦難を乗り越え、その都度再興されてきた。そのため園城寺は「不死鳥の寺」と称されるようになったという。
園城寺は、日本三不動の一つである黄不動【きふどう】で著名である。観音堂には如意輪観世音菩薩が祀られ、西国三十三所の第14番札所となっている。
国宝の金堂【こんどう】は、園城寺の再興を許可した豊臣秀吉の遺志によって秀吉の妻、寧々(高台院)が慶長4年(1599年)に寄進したものであるとされている。建物全体は和様で統一されており、典型的な桃山形式の仏堂で、天台宗本堂の古式建築形式を伝えているとされている。
園城寺は、通称で「三井寺」と呼ばれることの方が多い。この通称は、境内に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井【みい】の寺」と呼ばれていたものが転じて「三井寺」となったという。寺名の由来となった井戸「閼伽井屋」【あかいや】(重要文化財)が境内に残されている。金堂の西に接して建つ小堂で、格子戸の奥にある岩組からは霊泉が湧出している。
現在の「閼伽井屋」の建物は、金堂と同じく高台院によって建立されたという。桧皮葺で、随所に桃山風の装飾を施した優美な建造物である。正面上部の蟇股【かえるまた】には左甚五郎作の龍の彫刻があり、この龍が毎夜琵琶湖に現れて暴れていたので甚五郎が龍の目に五寸釘を打ち込んだという伝説が残る。
園城寺の鐘楼(重要文化財)は、 音色の良いことで知られ、平等院鐘、神護寺鐘と共に日本三名鐘に数えられている。
また、御神木の天狗杉(大津市指定天然記念物)は、樹齢約千年と言われている。
霊鐘堂には霊鐘「弁慶の引摺鐘」(重要文化財)が安置されている。
山門(比叡山延暦寺)との争いの際、山門側の弁慶が園城寺(寺門側)から奪い取って比叡山へと引き摺り上げて行く途中で撞くと、「イノウ、イノウ」(関西弁で「帰りたい」の意)と響いたという。そのため弁慶が怒って鐘を谷底へ投げ捨てたという伝説が残る。鐘に付いた傷跡や割れ目はそのときのものと伝えられている。
一切経蔵(重要文化財)は、 室町初期の禅宗様経堂で、毛利輝元の寄進により、慶長7年(1602年)に山口にあった国清寺(現・洞春寺)の経蔵を移築したものとされる。
内部中央には、高麗版の一切経を納める八角形の輪蔵があり、中心軸で回転するようになっている。
三重塔(重要文化財)は、 奈良県の比蘇寺(現・世尊寺)にあった東塔を豊臣秀吉が伏見城に移築したものを、慶長6年(1601年)に徳川家康が園城寺に寄進したものとされる。鎌倉時代末期から室町時代初期の建築物らしい。中世仏塔の特徴をよく表しているとされる。
名 称 | 園城寺(三井寺) |
所在地 | 滋賀県大津市園城寺町246 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | 三井寺(園城寺) |
石山寺
石山寺【いしやまでら】は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から流れ出る瀬田川の右岸に位置する、東寺真言宗の大本山の寺院である。山号を石光山と称する。御本尊は如意輪観世音菩薩であり、西国三十三所の第13番札所となっている。
本堂は国の天然記念物に指定されている珪灰石(石山寺硅灰石)の巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている。
石山寺縁起絵巻によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)に良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまり(開山)とされている。
東大門や多宝塔は、鎌倉時代初期に源頼朝の寄進により建てられたものとされる。石山寺は全山炎上するような兵火には遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数所蔵している。
源氏物語の作者である紫式部が石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承が残されている。伝承では、寛弘元年(1004年)に紫式部が石山寺に参篭した際に八月十五夜の名月の晩に、「須磨」と「明石」の巻の発想を得たとされる。石山寺本堂には「紫式部の間」が造られており、石山寺と紫式部の縁は深そうだ。
名 称 | 石山寺 |
所在地 | 滋賀県大津市石山寺1-1-1 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | 大本山 石山寺 公式ホームページ |
佐川美術館
佐川美術館は、佐川急便株式会社が創業40周年記念事業の一環として、琵琶湖のほとりに1998年3月22日に開館した美術館である。美術館の建造物自体のデザインも素晴らしい。敷地の大部分を占める水を張った水庭に浮かぶかのように配置されている。
美術館には日本画家の平山郁夫画伯、彫刻家の佐藤忠良氏、陶芸家の樂吉左衞門氏の常設の展示館が設けられている他、年に数回の特別展示室での企画展が開催されている。
名 称 | 佐川美術館 |
所在地 | 滋賀県守山市水保町北川2891 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 佐川美術館 |
あとがき
今回、琵琶湖とその周辺の旅に出たきっかけは、妻に佐川美術館に誘われたからである。以前からも誘われていたのだが、率直に言ってあまり気に留めていなかった。しかしリタイアして時間ができたし、2023年4月から佐川美術館では山下清の生誕100年を記念して山下清展を開催中であった。山下清画伯は自身の「放浪日記」に基づくドラマ「裸の大将」のモデルとして非常に有名であるが、私は画伯の画風に興味があったので妻の誘いを受けることにした。そして、折角、琵琶湖の畔に行くのだからと琵琶湖周辺の観光を計画したのが事の始まりである。
織田信長の妹、お市の方の嫁ぎ先は、小谷城城主・浅井長政であり、小谷城のあった小谷山の南麓には温泉が湧いていた。それが須賀谷温泉【すがたにおんせん】であった。現在も一軒宿の温泉が残されている。浅井長政やお市の方も湯治に訪れたというこの温泉には、「長政の湯」・「お市の湯」と名付けられた露天風呂があり、古の戦国ロマンに想いを寄せ、湯に浸かるのもよい。
雄琴温泉は、かつて「雄琴=ソープランド」という風俗街のイメージが定着していた時代があり、家族層から敬遠されていたことがあった。しかしながら、現在ではそのイメージは改善され、滋賀県を代表する温泉地として再生されている。私が妻と共に雄琴温泉の旅館に泊まれるようになったのも新生・雄琴温泉のイメージが回復したからでもある。
私は、まだ竹生島【ちくぶしま】を訪ねたことがない。次回には是非、竹生島に行ってみたいものである。