◆ はじめに
名古屋の中心にありながら、深い杜の静けさを湛える熱田神宮。 ここには、三種の神器の一つである 草薙神剣【くさなぎのつるぎ】 が 御神体として祀られていると伝えられ、 日本武尊の物語と深く結びついた聖域として知られている。
東国征討の途上、尊が倭比売命から授かった草薙剣── 火攻めの難を退けた伝説とともに、 その神威は今も熱田の杜に静かに息づいている。
参道を歩くと、森を渡る風がどこか柔らかく、遠い昔の神話が、木々のざわめきの中にそっと溶け込んでいるように感じられる。
今日は、この熱田の杜をゆっくり歩きながら、草薙神剣の伝説に静かに耳を澄ませてみたい。
熱田神宮の由緒
──草薙神剣を祀る古社の歴史
熱田神宮【あつたじんぐう】の創祀は、景行天皇43年(伝)または大化2年(646年)とされている。創祀は、草薙神剣の鎮座に始まり、以来、伊勢神宮に次ぐ格別に尊い神宮として篤い崇敬を集めている。伊勢神宮と同じ神明造の建物様式を持ち、国家鎮護の神宮として特別扱いを受けている。例えば、重要な宮中祭祀である四方拝において天皇に遥拝される一社に加えられている。
熱田神宮の主祭神は熱田大神【あつたのおおかみ】、 その本質は 天照大神の御霊代としての草薙神剣 にあるとされる。
草薙神剣は、日本武尊が東国征討の途上、 倭比売命から授かった神剣であり、 火攻めの難を退けた伝説とともに語られてきた。 尊が尾張に戻った際、草薙神剣を美夜受比売に預けたまま 伊吹山の神へ向かったことが、この地に神剣が祀られる由来とされている。
熱田神宮は、草薙神剣の神威を中心に、天照大御神・日本武尊・宮簀媛命などの信仰が重なり合い、古代から現代まで、地域の精神的中心として続いてきた。
草薙神剣の伝説
──日本武尊と熱田の地
草薙神剣は、皇位継承の「みしるし」である「三種の神器」の一つで、天皇の持つ武力の象徴とされている。草薙神剣は、天孫降臨の際に、天照大御神から瓊瓊杵尊【ににぎのみこと】に託されたものであるから天照大御神と同等に尊いものとして信仰が厚い。
この神剣は、元々は素戔嗚尊が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した際に、その死体の尾から見つけたものとされる。この剣は、天叢雲剣【あめのむらくものつるぎ】と名付けられ、天照大御神に献上されたという。その後、天孫降臨の際に、この天叢雲剣は、天照大御神から瓊瓊杵尊に託された。尚、天叢雲剣の由来は、常に雲がかかっていたことから名付けられたという。
日本武尊には、父・景行天皇から勅命を受け、東国征討に向かった先で、火攻めに遭遇した際、この危機を天叢雲剣の霊力によって脱したという伝説が残されている。草薙神剣【くさなぎのつるぎ】 の名の由来は、この「草を薙いで」難を逃れたという日本武尊の伝説による。これ以降、天叢雲剣は、草薙神剣と呼ばれるようになる。
東征の際、日本武尊は建稲種命【たけいなだねのみこと】(尾張国造;尾張氏の遠祖)の娘の宮簀媛命【みやすひめのみこと】を妻にしていた。そして、日本武尊は、東国征討の帰途、草薙神剣を妻の宮簀媛命に預けたまま「伊吹山の神」を討伐に行き、反撃を受けて病に倒れ、そのまま三重の能褒野【のぼの】の地で亡くなったという。その魂は白鳥となって飛び去り、最終的に白鳥が降り立った地に建立されたのが大鳥大社(大阪府堺市)であると伝わっている(白鳥伝説)。
妻の宮簀媛命は、日本武尊の遺志を重んじて、草薙神剣を熱田の地に祀ったのが熱田神宮の起源とされる。熱田神宮には、草薙神剣と縁の深い神々も祀られている。その神々とは、天照大御神、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の5柱の神で、熱田神宮では「五神さま」と呼ばれる。宮簀媛命と建稲種命は尾張氏の遠祖として仰がれる神である。
熱田の杜を歩く
──都会の中に息づく静けさ
熱田神宮の境内に一歩入ると、 都会の喧騒がふっと遠のき、 深い杜の静けさが訪れる。表参道を進むと、木々の間から差し込む光が揺れ、 足元の砂利の音がゆっくりと心を整えてくれる。 五十の森と呼ばれる広大な杜は、 古代から守られてきた自然そのものであり、 神域としての気配が濃く漂っている。参道を歩くほどに、 草薙神剣の伝説が森の空気に溶け込んでいるように感じられ、 訪れる者の心を静かに包み込んでくれる。
広い境内の内外には、本宮や別宮の外43社が祀られている。主な祭典や神事だけでも年間70余度もあるという。その長い伝統が今日まで続いており、毎年多くの参拝者が訪れている。
また、熱田神宮の境内には、「大楠」と呼ばれる御神木がある。この御神木は、クスノキの巨樹で、樹齢1000年以上と推定されている。幹の直径は約7.7m、高さは約20mにも達するらしい。伝承によると、この大楠は弘法大師・空海が手植えしたとされている。他にも「七本楠」と呼ばれる7本の大きなクスノキがあり、そのうち3本は一般参拝客でも見ることができる。
| 名 称 | 熱田神宮 |
| 所在地 | 名古屋市熱田区神宮1-1-1 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 熱田神宮 |
◆ あとがき
本稿を書き始めたきっかけは、奈良県天理市布留町の石上神宮で、 主祭神・布都御魂大神【ふつのみたまのおおかみ】が 布都御魂剣【ふつのみたまのつるぎ】を御神体として祀る社 であることを知ったことにある。
神剣(霊剣)を御神体とする神社は、日本神話の中でも特別な位置を占める。 草薙神剣を祀る熱田神宮もまた、石上神宮と同じく、 神剣そのものが神格を帯びる稀有な聖域 であることを理解したとき、 この二社が日本武尊の物語を支える「剣の神社」として 深く響き合っていることに気づかされた。
熱田神宮を歩いていると、 草薙神剣の伝説が、遠い昔の神話ではなく、 今も杜の静けさの中にそっと息づいていることを感じる。 日本武尊が歩いた道、倭比売命が託した神剣、 火攻めの難を退けた物語── それらが熱田の森のざわめきと重なり合い、 訪れる者の心に静かな余韻を残してくれる。
旅の途中でふと立ち寄った古社が、 自分の歩みをそっと見つめ直す時間を与えてくれることがある。 熱田神宮には、そんな穏やかな力があるように思う。次の旅でもまた、このような静けさに出会えることを願いながら、 熱田の杜を後にした。