はじめに
泉涌寺【せんにゅうじ】は、真言宗泉涌寺派の総本山で、平安時代の弘仁年間(810年~824年)に弘法大師空海によって創建されたと伝えられているが、正式に寺院として整備されたのは鎌倉時代の後鳥羽天皇の御代(1199年~1219年)とされている。

泉涌寺は、皇室との縁が深く、御寺【みてら】と呼ばれている。後鳥羽天皇以降、多くの天皇や皇族の墓所があり、皇室の菩提寺としての役割を果たしてきたという。御陵【みささぎ】には、歴代天皇や皇族の墓所が点在し、歴史と深い敬意が感じられる。
泉涌寺
泉涌寺【せんにゅうじ】は、京都市東山区にある真言宗泉涌寺派の総本山の寺院である。山号は東山【とうざん】または泉山【せんざん】と称する、御本尊は、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三世仏である。
泉涌寺は、平安時代に弘法大師空海が草創したと伝えられているが、実質的な開山は鎌倉時代の月輪大師俊芿【がちりんだいししゅんじょう】である。寺院の名前は、境内から清水が湧き出たことに由来しているという。
泉涌寺は、皇室の菩提寺(皇室香華院)としても知られ、歴代の天皇や皇族の尊牌(位牌)が奉安されている。
また、楊貴妃観音堂の御本尊は楊貴妃観音で、洛陽三十三所観音霊場の第20番札所となっている。
泉涌寺には、多くの歴史的建造物や美しい庭園がある。庭園に囲まれた立派な本堂や大師堂などの建築物は、日本の伝統的な建築様式をよく示していて荘厳な雰囲気と歴史を感じさせてくれる。また、仏殿【せんにゅうじぶつでん】には様々な仏像が祀られており、信仰の中心となっている。
総門内の参道両側をはじめ山内一円には塔頭寺院が建ち並び、奥まった境内には大門、仏殿、舎利殿を配した中心伽藍と、歴代の天皇や皇后を祀る霊明殿と御座所、庫裡などの建物が甍を連ねている。
楊貴妃観音堂【ようきひかんのんどう】には楊貴妃の美しさを象徴する観音像が安置されている。
また、戒光寺【かいこうじ】には日本最大の木造釈迦如来像があり、訪れる私たちに強い印象を与える。
泉涌寺は、毎年多くの参拝者を迎えており、特に大晦日から元旦にかけては、一年間の穢れを祓い、新しい一年を迎えるために鳴らされる「除夜の鐘」の鳴り響く光景が有名である。
さらに、泉涌寺の庭園は四季折々の美しさを楽しむことができることで知られる。特に、秋の紅葉や春の桜は見事で、多くの参拝客や観光客が訪れる。
名 称 | 東山/泉山 泉涌寺 |
所在地 | 京都市東山区泉涌寺山内町27 |
TEL | 075-561-1551 |
駐車場 | |
Link | 【公式】皇室御香華院 御寺 泉涌寺 |
あとがき
泉涌寺は、京都の東山三十六峯の一嶺である月輪山の麓に位置する。皇室の菩提所として、諸宗兼学の道場として、壮麗な堂宇が甍を連ねて、まるで幽閑脱俗の仙境となっている。
855年、左大臣藤原緒嗣が僧・神修のために山荘を与え、それが仙遊寺と称するようになった。やがて1218年に月輪大師【がちりんだいし】俊芿【しゅんじょう】が宇都宮信房からこの聖地の寄進を受け、大伽藍の造営を志してから8年後の1226年に主要伽藍の完成をみた。その時、寺地の一角から清水が涌き出たことにより「泉涌寺」に寺名を改めたという。この泉は今も枯れることなく涌き続けているらしい。
月輪大師俊芿は、肥後国(熊本県)に生まれ、若くして仏門に入り、真俊大徳に師事して修学、大志をもって求法のため中国の宋に渡り、12年間滞在後、顕密両乗の蘊奥【うんおう】を究めて帰国した。そして帰国後は泉涌寺において戒律の復興を計り、「北京律の祖」と仰がれた。俊芿は、泉涌寺を律を基本に、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の道場とした。
泉涌寺は、後鳥羽・順徳上皇、後高倉院をはじめ朝廷からの信仰も篤く、公家・武家両面から深く帰依された。北条政子や北条泰時も月輪大師俊芿から灌頂を受けている。
月輪大師俊芿が入滅した後も泉涌寺に対する皇室からの帰依は篤く、1242年正月に四条天皇が崩御した際にも泉涌寺で葬儀が営まれた。御陵【みささぎ】も泉涌寺に造営されている。その後も南北朝時代から安土桃山時代、そして江戸時代末期に至るまでの歴代天皇や皇后の葬儀は泉涌寺で執り行われた。
境内に設けられた御陵は、月輪陵【つきのわのみさぎ】と名づけられた。こうして泉涌寺は皇室の御香華院として、長く篤い信仰を集めることとなる。泉涌寺が御寺【みてら】と呼ばれる所以である。