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伊賀の国・陽夫多神社の願之山踊りはユネスコ無形文化遺産

はじめに

伊賀の国」は、かつての日本の地方行政区分で、現在の三重県西部、上野盆地一帯に該当する令制国の一つであり、東海道に属していた。「伊賀」は、現在でも三重県の伊賀地方を指す呼称として使われており、伊賀市と名張市を中心に構成されている。伊賀は、伊賀流忍者の発祥地として知られ、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても有名である。

日本三大祭の一つとして知られる祇園祭【ぎおんまつり】は、京都市にある八坂神社で毎年7月に行われる祭事で、千年以上の歴史を持つとされる。祇園祭は、疫病退散を祈願するために始まった祭りであり、現在もその伝統が受け継がれている。祇園祭のハイライトは、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている山鉾巡行【やまほこじゅんこう】であるといえよう。

京都の八坂神社以外の神社でも祇園祭が催される理由は、祇園信仰が日本全国に広がったためである。祇園信仰は、平安時代に疫病を鎮めるために始まり、八坂神社を中心に広まったとされる。この信仰の核心には、疫病や災害から人々を守る牛頭天王【ごずてんのう】への崇拝があるとされる。牛頭天王は、健速須佐之男命【たけはやすさのおのみこと】と歴史的に同一視されることが多い神である。

各地の祇園祭は、地域ごとの文化や歴史に根ざした独自の形を持っている。「伊賀の国」にも祇園祭があり、その一つが「陽夫多神社の祇園祭」である。この祭りは、同じ祇園信仰を基にしながらも、この地域の特色を反映したものとなっている。


陽夫多神社

陽夫多神社【やぶたじんじゃ】は、三重県伊賀市馬場に位置する神社で、主祭神として健速須佐之男命【たけはやすさのおのみこと】が祀られている。

陽夫多神社は、宣化天皇3年(538年)に創建されたと伝えられており、古くから地域の信仰の中心として栄えてきたらしい。元々は多賀連高松神)と陽夫多神が祀られていたとされる。

陽夫多神社の拝殿の奥に流造【ながれづくり】の立派な本殿が鎮座する。

境内南側には石室が剥き出しになった御旅所古墳があり、歴史を感じることができる。

また、祭日にのみ水が湧き出ると伝えられている「馬場の宮井」があり、神秘的である。

名 称陽夫多神社
所在地三重県伊賀市馬場951
TEL0595-43-0158
アクセス名阪国道「壬生野IC」から車で約10分
駐車場あり(無料)
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陽夫多神社の祇園祭

祇園祭は、病気平癒や家内安全、五穀豊穣を祈る祭事であり、陽夫多神社では毎年7月31日(宵宮祭)と8月1日(本祭)に行われる伝統的な夏祭りである。かつては、高さ約35mの大幟【おおのぼり】が7本も建てられ、壮観であったらしい。

願之山踊り【がんのやまおどり】」は、無病息災や家内安全などの願かけを解く神事として安土桃山時代から始まり、三重県の無形民俗文化財に指定されている。

この「願之山踊り」には、青年が踊る「大踊り」と児童が踊る「小踊り」がある。最近は、小踊りしか見ることができない。

かつては曳山願之山」の曳き回しも豪快であったという。これは、和太鼓3つを取り付けた屋形の曳山「願之山」を30人程の引き手が曳き回す行事であったらしいが、コロナ禍以降は引き手が集まらず、観ることができないのが残念である。

かつて盛んに踊られていたという「「願之山踊り」

尚、「願之山踊り」の前には、花笠や団扇を奪い合う「花揚げ」が行なわれる。しかし、最近は「奪い合う」ことはなく、長閑な花揚げに変化しているようである。

かつての祇園祭の特徴は、下記のようなものであった。

  • 宵宮奉納花火大会
    • 7月31日の宵宮祭では、奉納花火大会が行われる
    • 花火は約35mの大幟【おおのぼり】越しに打ち上げられる
    • この花火大会も陽夫多神社ならではの風景と言える
    • 境内には多くの露天が並び、家族連れや友達同士で賑わう
  • 願之山踊り【がんのやまおどり】
    • 8月1日の本祭では、「願之山踊り」が行われる
    • 曳山・願の山が30人の引き手によって境内を引き回される
    • これに合わせて、頭に羽根をつけた氏子が囃し歌に合わせて太鼓をたたきながら踊る
    • この踊りは、神輿還幸をはさみ計3回行われる
行事の流れ
  • 宵宮祭
    • 7月31日、午後7時から奉納花火大会が行われる
    • 20時20分頃から花火の打ち上げ
  • 本祭
    • 花揚げ:8月1日、午後1時50分頃から始まる
    • 願之山踊り:8月1日、午後2時から始まる
    • 神輿還幸:8月1日、午後3時から行われる

あとがき

陽夫多神社の祇園祭は、毎年7月31日(宵宮祭)と8月1日(本祭)に開催される伝統的な祭りで、私は本祭を見学することができた。

祇園祭(本祭)のメインイベントは、やはり「願之山踊り」であろう。「願之山踊り」は、病気平癒や家内安全の願かけを解くための踊りであると言われている。和太鼓を取り付けた屋形「願の山」が約30人の引き手によって境内を引き回され、頭に羽根をつけた氏子が囃し歌に合わせて太鼓をたたきながら踊る。この踊りは「神輿還幸」をはさみ3回行われることになっていた。

しかし、残念ながらコロナ禍以降、この「願之山踊り」は児童が踊る「小踊り」があるだけで、青年が踊る「大踊り」を観ることができなくなっているらしい。

この祭りは、地域の人々が一体となって行うもので、地域の結束力を感じることができる。地元の人々が協力して準備し、祭りを盛り上げる姿は感動的でもある。一人の観光客でしかない私は、祭りを介して絆をさらに強めているコニュニティーの結束を羨ましいとさえ感じてしまう。

しかしながら、その一方で、コロナ禍が伝統ある地域の夏祭りにまで影響を及ぼしていたことを知り、驚くしかない。

また、この陽夫多神社の祇園祭は、毎年7月31日と8月1日の両日に開催することが決まっており、これらの日程が今年のように平日であることも多い。かつては、専業農家が多く、平日であっても多くの氏子が祭りに参加できた。

しかし、昨今は兼業農家もしくは働き手の多くはサラリーマンであることが多いため、土日などの休日でなければ、積極的に祭りに参加できない状況であるらしい。さらに追い打ちをかけているのが、人口減少である。かつては、各戸の長男しか氏子としてこの祭りに参加できなかったが、最近はその制限をなくしても氏子が集まらなくなってしまったようだ。このままでは伝統の祭りが衰退していくだけで非常に残念である。

その象徴が、かつては、高さ約35mの大幟が7本も建てられ、壮観であったというが、ここ数年は1本も建てられずにいる。この大幟は巨大で、建てるのに準備が大変らしい。大きいので、重機で穴を掘る必要があるらしい。かつては、人力で穴を掘ることも人手があれば可能であったという。また、祭りが終了した後の片付けるのにも時間がかかるという。このように人手がかかる祭りである。

そのため、上記のような状況で、人手が集まらなければ、十分な準備もできず、できる範囲でしか伝統の祭りを継続することができない。何とか行政でサポートできないものであろうか。あるいは、ボランティア団体のサポートが得られないものなのだろうか。地元の氏子だけで伝統の灯を灯し続けることにはそろそれ限界が来ているように感じた。


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