はじめに

三重県伊賀市の伊賀一宮 敢国神社では、毎年11月23日に新嘗祭と共に、黒党【くろんど】まつりが行われる。
黒党まつりは、伊賀服部一族の私的な祭りが起源とされ、平安時代末期から始まり、神事に携わる者は黒装束に身を固める慣わしがあることから「奇祭」と称されることがある。
この祭りの創始者である伊賀服部平内左衛門家長【いが へいないざえもんいえなが】は、平知盛の重臣として武勇を馳せた実在の人物である。平安時代末期の源平合戦においては、伊賀者を率いて安徳天皇の親衛隊長を勤めたことで知られる。
黒党まつりについて私が知ったのは最近のことであり、この祭りを創始した伊賀服部一族については調べれば調べるほど興味深い一族であることが分かった。本稿では、伊賀服部一族と黒党まつりについて記したいと思う。
伊賀服部一族
伊賀服部平内左衛門家長【いがはっとりへいないざえもんいえなが】(生年不詳~1185)は、平知盛【たいらのとももり】に重臣として仕えた平安時代後期の武将であり、平知盛とは乳兄弟の仲でもある。平知盛は、平清盛の四男で、平家随一の誉れ高い武将であった。
家長は、伊賀国服部郷(現三重県伊賀市服部町)を本拠地とする平安時代末期の武将で、本姓は「服部」であったが、京で平家に仕えるようになってから「伊賀」を名乗ったとされる。元々は、他の服部姓と区別するために「伊賀の服部」と呼ばれていたものが、いつしか「伊賀」の方が姓になったと推察されている。
伊賀家長の母親は、平知盛の乳母だったので、ふたりは兄弟のように育ったが、やがて平知盛に重臣として仕えることになる。
伊賀家長の配下には多数の伊賀者(伊賀流忍者)がいたようである。平知盛が指揮した戦いの大半は、勝利を飾っているらしい。その功績の裏側には、家長が率いた伊賀者(伊賀流忍者)たちの存在があるのかも知れない。
彼らの主な任務は、源平合戦において安徳天皇と三種の神器を守ることであったという。
伊賀家長は、源平合戦において伊賀者(伊賀流忍者)を率いて安徳天皇の親衛隊長を勤めたという。彼らの主な任務は、源平合戦において安徳天皇と三種の神器を守ることであったという。伊賀家長は、「三種の神器」の奪還を狙う源義経の奇襲を再三かわすなど、神出鬼没な活躍から「煙りの末」と呼ばれたらしい。
歴史上では「壇ノ浦の戦い」で源氏に敗れ、安徳天皇や二位尼らが入水した際に、伊賀家長も平知盛と共に入水して自害したことになっている。
しかしながら、興味深いことに、各地に残された平家に関する記録や伝承からは、「家長は壇ノ浦の戦いで死を装い、安徳天皇と再起を計って落ち延び、宋(中国)を目指したが、暴風のために山陰地方の対岸に漂着した」という伝説が現実味を帯びてくる。
伊賀家長の末裔(伊賀なな楓)の自伝によれば、彼女の母方の伊賀家の近しい親戚は三重県伊賀市には住んでおらず、伊賀姓は兵庫県の日本海側に多く存在し、彼女の親戚もその辺りに住んでいるという。そして、伊賀家長を祖先とする本家では代々、「平内左衛門」という名前が受け継がれてきているという。そして本家の家紋は海上の安全への願いが込められた「海龍」を表したものが伝えられているらしい。実に興味深い話ではないか!
黒党まつりの由来
黒党まつりは、伊賀市ある敢国神社で毎年11月23日に開催される新嘗祭神事に引き続いて行われる伊賀服部一族による奇祭である。黒党まつりは、元々は伊賀服部一族の繁栄を願う私祭だったものを平家の全盛期に伊賀家長が敢國神社(伊賀一之宮)で行うようになったのが始まりと伝えられている。

平家滅亡後も伊賀服部氏主宰の神事として12月最初の卯の日に行われたという。当時は、敢國神社の御祭神の中から、少彦名命と金山媛命を神輿に奉戴して、神社の北東約1.5kmの柘植川の花園河原を御旅所とし、7日間にわたって流鏑馬【やぶさめ】や様々な芸能が奉納されたという。
伊賀国全域と甲賀郡の一部の豪族を仮設の大座敷に招いて祝宴を張り、一般の観覧も自由であったらしい。
但し、神輿の往復の供奉者など神事にあたる者は、黒装束に身を包むのが習わしであり、伊賀服部一族およびその家人に限られたという。伊賀服部一族以外で神事にあたる者は特別に伊賀服部の姓が与えられてから、参加するのが決まりであったと伝わる。
この黒装束は、本来は伊賀流忍者の「忍び装束」ではなかったらしい。その証拠として、忍者の全盛期である天文年間に、黒党まつり用の黒装束を奈良の衣装屋から借りた記録が見られることから明らかに祭祀用の特別な装束であったと思われる。しかしながら、伊賀流忍者の忍び装束が黒を基調としているのは、この黒党まつりの黒装束を念頭においているのは疑いようがない。
黒党まつりは、最盛期においては伊賀国最大の祭りであったらしいが、費用がかかることから戦国時代になると途絶えがちになり、やがて廃止されることになったという。
しかしながら、平成7年(1995年)に、敢國神社の当時の宮司の熱意により、450年ぶりに黒党まつりが復興されることになったという。
敢國神社で、毎年11月23日に開催される新嘗祭【にいなめさい】の神事に引き続いて、黒党まつりが行われる。

現代に蘇った黒党まつりは、伊賀服部一族によるかつてのような神事ではなく、「伝統忍者集団 黒党」によって伊賀流忍者の伝統忍術を駆使した演武や、忍者ショーなどが奉納されている。
現代の黒党まつりは、忍び装束をまとっての演舞が披露されることから、地元の人々や観光客にとって人気のイベントとなっているようだ。
名 称 | 黒党まつり【くろんどまつり】 |
会 場 | 伊賀一宮 敢國神社【あえくにじんじゃ】 |
所在地 | 三重県伊賀市一之宮877 |
駐車場 | あり(無料) |
Link | 黒党まつり | 【公式】伝統忍者集団・黒党(くろんど) |
黒党まつり(2024年度)
新嘗祭・神事が厳かに終了すると、境内では奉納公演のオープニングとして、伊賀服部一族の子孫とされる伊賀なな楓【ななか】さんによる奉納ミニライブがあった。今年、シンガーソングライターを卒業したそうで、今回が最後の奉納ライブであるという。残念であるが、来年はまた違ったパフォーマンスを私たちに見せてくれることだろう。

オープニングの後は、「伝統忍者集団黒党」のメンバーによる刀や縄などを駆使した忍術の演武などが奉納された。

忍術のなかには縄を使って相手の首を絞めて生け捕る捕り縄術というものがあるという。捕り縄術は、縄を使って素早く敵を生け捕る術で熟練の技である。背中側を見ると十文字になっており、動くと首が締まるというから完璧な捕り縄術と言えるだろう。

腕力が男性に比べて劣る女性の忍者(くの一)が武器とした鎖鎌を使った演武なども披露された。

忍者犬のポメオは「真剣白刃取り」をみせ、可愛い仕草に観客から拍手が送られていた。

この伝統の「黒党まつり」が来年以降も続いていってほしいと願いたい。
11:00~ | 新嘗祭・神事 |
11:45頃~ | 伊賀家長の末裔で、シンガーソングライターの 伊賀なな楓による奉納ミニライブ |
伝統忍者集団 黒党 忍者ショー奉納公演 | |
12:30頃 | 終了 |
伝統忍者集団 黒党
伝統忍者集団 黒党【くろんど】は、1984年に設立された日本初の忍者エンターテイメント集団である。団員の中には、伊賀服部平内左衛門家長の末裔が二名もいるという。

黒党の創設者である黒井宏光氏は、忍者が好きで、大学時代にも「忍術研究会」というサークルを創設している。根っからの忍者オタクのようである。その黒井氏は、偶然にも、伊賀服部平内左衛門家長の末裔と運命的な結婚をしている。そして、彼が創設した黒党という団体名の由来は、黒党まつりにあるのは明らかである。

黒党は、現在、伊賀流忍者の伝統を継承し、忍術の演武やパフォーマンスを全国および世界各地で行っている。彼らは、忍者の技術や歴史を学び、国内外で伊賀忍術を広める活動を続けると共に観客を楽しませることを目的にしている。

黒党のパフォーマンスは、忍者の衣装や武器を使ったアクションショーで、特に子供たちには絶大な人気がある。また、日本政府主催のイベントやPRイベントにも多数出演しているようだ。
黒党は、現代の黒党まつりでは主役であり、毎年11月23日に伝統の忍術を駆使した忍者ショーを奉納している。
あとがき
伊賀流忍者発祥の地、伊賀国の服部一族が平清盛を棟梁とする平家一門の全盛期であった平安時代後期から活躍していることを初めて知り、正直驚いた。そして平家の滅亡を決定づけたとされる源平合戦最後の戦い「壇ノ浦の戦い」においても伊賀服部一族が関与していたというのは実に興味深い話ではないか!
伊賀服部一族の手引きにより、もし安徳天皇が無事生き延びていたならば歴史ロマンに溢れる伝説となる。安徳天皇が二位尼(平 時子【たいら の ときこ】;平清盛の妻)と共に壇ノ浦で入水して亡くなったというのが歴史上の定説になっているからである。
源氏による平家の残党狩りは執拗かつ徹底していたことが平家落人の伝説が残る秘境地を旅すれば容易に想像がつくので、歴史の表舞台に再び立つことはなく、山陰地方のどこかでひっそりと暮らすことを選択したのかも知れない。
そんな伊賀服部一族ゆかりの「黒党まつり」の存在を私が知ったのはごく最近である。かつてのような盛大な祭りではなくなっているようではあるが、伝統はしっかり引き継いでいって貰いたいと率直に思う。この「黒党まつり」の存在がなければ、伊賀服部一族のことも、伊賀家長が平知盛に重臣として仕えていたことも知る機会がなかったのだから。