はじめに
京都の神社仏閣は国際的にも有名であり、世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産として17か所が登録されている。西芳寺(苔寺)もその一つである。

苔寺を訪れるには事前予約が必要である。予約制は、少し面倒ではあるが、オーバーツーリズムで悩む京都にあって、多くの観光客で混雑することなく、静かな環境で庭園の美しさを堪能することができるのは嬉しい。この予約制によって、私たちはゆっくりと時間をかけて素晴らしい庭園を堪能できる。
西芳寺(苔寺)
西芳寺【さいほうじ】は、臨済宗系単立の寺院である。山号は洪隠山で、御本尊は阿弥陀如来である。伝承によれば、飛鳥時代には西芳寺の場所に聖徳太子(厩戸皇子【うまやどのみこ】)の別荘があり、太子作の阿弥陀如来像が祀られていたという。
奈良時代になり、天平3年(731年)に行基が第45代の聖武天皇の勅願を得て、別荘から寺院へと改めたという。当初は法相宗の寺院で「西方寺」と称したらしい。
鎌倉時代に、摂津守・中原師員が再興し、西芳寺と穢土寺に分けたという。招いた法然が浄土宗に改宗し、本尊に金泥を施したという。その後は親鸞が愚禿堂を建立して、滞在したという。
しかしながら、建武年間(1334年~1338年)に寺は再び荒廃したらしい。暦応2年(1339年)に、室町幕府重臣で、松尾大社の宮司でもあった摂津親秀が再び再興した。このとき作庭の名手でもあった夢窓疎石が招かれ、この時に西方寺と穢土寺は統一された。夢窓疎石は臨済宗に改宗し、寺名を「西芳寺」に改めた。そのため、寺伝では夢窓疎石を中興の祖としている。
応仁の乱(1467年~1477年)の際に、東軍総大将の細川勝元が陣を敷いたため、1469年に西軍の攻撃を受けて焼失したと伝わる。さらには1485年に洪水で被災したが、本願寺の蓮如によって再興されたという。また、室町幕府第8代将軍の足利義政によって指東庵が再建されたという。
安土桃山時代には、1568年に丹波国・柳本氏の兵乱で焼失したが、織田信長が天龍寺の策彦周良に命じて再建させたという。
江戸時代には、寛永年間(1624年~1644年)と元禄年間(1688年~1704年)に2度、洪水で被災し、荒廃したという。昭和44年(1969年)に本堂がようやく再建された。
西芳寺の庭園は、元々は枯山水であったが荒廃してしまい、江戸時代末期頃から庭園が苔【コケ】で覆われるようになったと考えられている。すぐそばを川が流れ、湿度の高い谷間という地理的要因が苔の生育に大きく影響しているとされる。
現在では庭園は約120種の苔に覆われ、苔寺【こけでら】の通称で知られるようになった。
今日、西芳寺庭園としてよく知られるのは苔の庭で、木立の中にある黄金池(心字池)と呼ぶ池を中心とした回遊式庭園である。
しかしながら、夢窓疎石の作庭で知られる西芳寺(苔寺)の庭園は、元々は上段の枯山水庭園と、下段の池泉回遊式庭園の2つの庭園で構成されたものであった。今は石組みだけが残るの枯山水庭園は夢窓疎石が1339年に築いた日本最古の枯山水とされる。
名 称 | 西芳寺(苔寺) |
所在地 | 京都市西京区松尾神ケ谷町56 |
駐車場 | なし |
Link | 西芳寺|苔寺 Saihoji | Kokedera |
あとがき
西芳寺、通称「苔寺」は、苔むした庭園の風景の美しさとその独特の雰囲気が魅力で知られている。庭園全体が苔で覆われており、四季折々の美しい景色を楽しむことができる。特に、雨上がりには苔の緑が一層鮮やかになり、その美しさに息を呑む。
庭園は上下二段に分かれており、池泉回遊式庭園として整備されている。元々は1339年に夢窓疎石によって作庭され、その後、室町時代に再建された際に現在の形に整えらたという。
苔寺は、その静寂さでも知られており、訪れる私たちにとって心を落ち着ける場所となっている。庭園内を散策しながら、自然の美しさと静けさを感じることができるのは嬉しい。静かな環境で心の平穏を取り戻す場所として人気が高いのは至極当然である。