◆ はじめに
「伊賀の国」は、かつての日本の地方行政区分で、現在の三重県西部・上野盆地一帯に相当する令制国の一つである。東海道に属し、現在でも「伊賀」は三重県伊賀地方を指す呼称として用いられ、伊賀市と名張市を中心に構成されている。伊賀は伊賀流忍者の発祥地として広く知られ、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても名高い。
その伊賀市に鎮座する伊賀一宮・敢国神社では、毎年11月23日に新嘗祭とともに「黒党【くろんど】まつり」が執り行われる。
黒党まつりは、伊賀服部一族の私的な祭礼に由来するとされ、平安時代末期に始まったと伝わる。神事に携わる者が黒装束を身にまとうことから「奇祭」と呼ばれることもある。
この祭りを創始したと伝えられる伊賀服部平内左衛門家長【いが へいないざえもん いえなが】は、平知盛の重臣として名を馳せた実在の武将である。源平合戦では伊賀者を率いて安徳天皇の親衛隊長を務めたとされ、その武勇は多くの伝承に残っている。
黒党まつりは、服部氏を中心とした武士団「黒党(くろんど)」の名残を今に伝える行事であり、伊賀服部一族の末裔たちが黒装束に身を包み、敢国神社に参拝することで祖先への敬意と誇りを表す伝統行事である。地域の人々によって大切に守り継がれてきた祭りでもある。
私が黒党まつりを知ったのは最近のことだが、その背景にある伊賀服部一族の歴史を調べるほどに、実に興味深い一族であることが分かった。本稿では、伊賀服部一族と黒党まつりの由来について記していきたい。
敢国神社
敢国神社【あえくにじんじゃ】は、伊賀国一宮として古くから厚い信仰を集めてきた由緒ある神社である。創建は奈良時代と伝えられ、主祭神として大彦命【おおひこのみこと】を祀る。
大彦命は、ヤマト王権の東方・北方への勢力拡大に大きく貢献したとされる伝説的な将軍で、多くの氏族の祖ともいわれる人物である。その足跡は北陸から東海、そして伊賀にまで及び、今も各地の神社でその名が祀られている。
敢国神社は、伊賀の守護神として地域の人々に親しまれ、戦国時代には服部一族をはじめとする武士たちが戦勝祈願に訪れたと伝わる。伊賀の歴史と深く結びついた神社として、今もなお静かな敬意を集め続けている。
| 名 称 | 伊賀一宮 敢國神社 |
| 所在地 | 三重県伊賀市一之宮877 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 伊賀一宮敢国神社 |
伊賀服部一族
伊賀服部平内左衛門家長【いが はっとり へいないざえもん いえなが】(生年不詳〜1185)は、平安時代後期の武将で、平知盛【たいら の とももり】に重臣として仕えた人物である。家長の母が知盛の乳母であったため、ふたりは乳兄弟として育ち、深い結びつきがあったと伝わる。知盛は平清盛の四男で、平家随一の武勇を誇った武将として知られる。
家長は伊賀国服部郷(現・三重県伊賀市服部町)を本拠とし、本姓は「服部」であったが、京で平家に仕えるようになってから「伊賀」を名乗ったとされる。もとは他の服部氏と区別するために「伊賀の服部」と呼ばれていたものが、やがて「伊賀」が姓として定着したと考えられている。
家長の配下には多くの伊賀者(伊賀流忍者)がいたと伝わり、平知盛が指揮した戦の多くが勝利を収めた背景には、家長率いる伊賀者の働きがあったとも言われる。彼らの主な任務は、源平合戦において安徳天皇と三種の神器を守護することであった。
家長は安徳天皇の親衛隊長として伊賀者を率い、源義経の奇襲を再三かわしたことから、その神出鬼没ぶりを称して「煙りの末」と呼ばれたという。 歴史上では、壇ノ浦の戦いで平家が敗れた際、安徳天皇や二位尼とともに入水し、家長も平知盛と運命を共にしたとされる。
しかし一方で、各地に残る平家伝承には別の物語も語られている。 「家長は壇ノ浦で死を装い、安徳天皇とともに再起を図って落ち延び、宋(中国)を目指したが、暴風に遭い山陰地方へ漂着した」 という伝説である。史実として確認はできないものの、地域に残る伝承を照らし合わせると、どこか現実味を帯びてくる。
さらに興味深いのは、家長の末裔とされる伊賀なな楓氏の自伝に記された内容である。彼女によれば、母方の伊賀家の親族は三重県伊賀市ではなく、兵庫県の日本海側に多く住んでおり、伊賀姓もその地域に集中しているという。また、家長を祖とする本家では代々「平内左衛門」の名を継承し、家紋には海上安全を願う「海龍」が伝えられているという。 こうした伝承の連なりは、家長が本当に海を渡ろうとしたという物語を、どこかで裏付けているようにも思えてくる。
実に興味深い話ではないだろうか。
黒党まつりの由来
黒党まつりは、伊賀市の敢国神社で毎年11月23日の新嘗祭に続いて行われる、伊賀服部一族ゆかりの伝統行事である。その起源は、もともと伊賀服部一族が繁栄を祈って行っていた私祭が、平家全盛期に伊賀家長によって伊賀一宮・敢國神社で執り行われるようになったことに始まると伝えられている。
平家滅亡後も、黒党まつりは伊賀服部氏が主宰する神事として続けられ、12月最初の卯の日に開催されていたという。当時は、敢國神社の御祭神のうち少彦名命と金山媛命を神輿に奉戴し、神社の北東約1.5kmにある柘植川の花園河原を御旅所として、7日間にわたり流鏑馬やさまざまな芸能が奉納されたという。

伊賀国全域や甲賀郡の一部の豪族が仮設の大座敷に招かれ、一般の観覧も自由であったとされる。一方で、神輿の供奉者など神事に携わる者は黒装束を着用するのが習わしであり、参加できるのは伊賀服部一族およびその家人に限られていた。他家の者が神事に加わる場合は、特別に「伊賀服部」の姓を与えられてから参加したという。
この黒装束は、一般にイメージされる伊賀流忍者の「忍び装束」とは本来別物であった。天文年間の記録には、黒党まつりのための黒装束を奈良の衣装屋から借り受けたという記述があり、祭祀専用の特別な衣装であったことがうかがえる。ただし、後世において伊賀流忍者の装束が黒を基調とするようになった背景には、この黒党まつりの黒装束の影響があったとも考えられる。

黒党まつりは最盛期には伊賀国最大の祭礼であったが、莫大な費用を要したため戦国時代には次第に途絶え、やがて廃絶したとされる。しかし平成7年(1995年)、敢國神社の当時の宮司の尽力により、実に450年ぶりに復興を果たした。
現在の黒党まつりは、かつての伊賀服部一族による神事とは形を変え、「伝統忍者集団 黒党」による伊賀流忍術の演武や忍者ショーが奉納される祭りとして親しまれている。黒装束をまとった演舞が披露されることもあり、地元の人々や観光客にとって人気の高いイベントとなっている。
| 名 称 | 黒党まつり【くろんどまつり】 |
| 会 場 | 伊賀一宮 敢國神社 |
| 所在地 | 三重県伊賀市一之宮877 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 伝統忍者集団・黒党 |
黒党まつり
──令和の時代の「黒党まつり」(2024年度)
秋の澄んだ空気の中、伊賀市の一之宮・敢国神社【あえくにじんじゃ】で毎年行われる「黒党まつり」は、伊賀服部一族の誇りと伝統を今に伝える、まさに“奇祭”の名にふさわしい歴史と個性を備えた祭礼である。
その起源は平安時代末期、服部家長が始めた私祭にさかのぼる。戦国時代に一度途絶えたものの、1995年に約450年ぶりに復興され、現在では伊賀の秋を彩る風物詩として定着している。
かつては黒装束に身を包んだ人々が練り歩く荘厳な祭りであったが、現代では「伝統忍者集団 黒党【くろんど】」による忍術演武が奉納されることで知られる。忍者ショー、殺陣、捕り縄術、鎖鎌の演舞など、迫力あるパフォーマンスが次々と披露され、観客を大いに魅了している。
新嘗祭の神事が厳かに終わると、奉納公演の幕開けとして、伊賀服部一族の子孫とされる伊賀なな楓【ななか】さんによる奉納ミニライブが行われた。今年、シンガーソングライターとしての活動を卒業したとのことで、今回が最後の奉納ライブとなったという。名残惜しさはあるが、来年はまた新たな形で私たちを楽しませてくれるに違いない。

オープニングの後は、「伝統忍者集団黒党」のメンバーによる刀や縄などを駆使した忍術の演武などが奉納された。

忍術のなかには縄を使って相手の首を絞めて生け捕る捕り縄術というものがあるという。捕り縄術は、縄を使って素早く敵を生け捕る術で熟練の技である。背中側を見ると十文字になっており、動くと首が締まるというから完璧な捕り縄術と言えるだろう。

腕力が男性に比べて劣る女性の忍者(くの一)が武器とした鎖鎌を使った演武なども披露された。

忍者犬のポメオは「真剣白刃取り」をみせ、可愛い仕草に観客から拍手が送られていた。

この伝統の「黒党まつり」が来年以降も続いていってほしいと願いたい。
| 11:00~ | 新嘗祭・神事 |
| 11:45頃~ | 伊賀家長の末裔で、シンガーソングライターの 伊賀なな楓による奉納ミニライブ |
| 伝統忍者集団 黒党 忍者ショー奉納公演 | |
| 12:30頃 | 終了 |
伝統忍者集団 黒党
伝統忍者集団・黒党【くろんど】は、1984年に設立された日本初の忍者エンターテインメント集団である。団員の中には、伊賀服部平内左衛門家長の末裔が二名在籍しているという。
創設者の黒井宏光氏は、幼い頃から忍者に強い関心を抱き、大学時代には「忍術研究会」を立ち上げたほどの忍者愛好家である。のちに偶然の縁から家長の末裔と運命的な結婚をしている。団体名「黒党」は、敢国神社の黒党まつりに由来することは明らかである。

黒党は現在、伊賀流忍者の伝統を継承しつつ、忍術の演武やパフォーマンスを国内外で披露している。忍者の技術や歴史を学びながら、伊賀忍術の魅力を広め、観客を楽しませることを目的として活動している。

そのパフォーマンスは、忍者装束や武器を用いたアクションショーが中心で、特に子どもたちから絶大な人気を集めている。また、日本政府主催のイベントや各種PR事業にも多数出演しており、国際的な舞台でも活躍している。

現代の黒党まつりにおいては、黒党が主役として伝統の忍術を駆使した演武を奉納し、毎年11月23日の祭礼を大いに盛り上げている。
◆ あとがき
「黒党まつり」は、単なる地域の催しではなく、伊賀の歴史と誇りを今に伝える“生きた文化”と言えるだろう。黒装束に込められた服部一族の精神は、令和の時代を迎えた今もなお、伊賀の地に確かに息づいているように思える。
歴史が好きな人も、祭りが好きな人も、秋の伊賀を訪れるなら一度はこの祭りを見てほしい。きっと、あなたの心にも“誇り”という名の小さな火が灯るはずだ。
私自身、伊賀流忍者の発祥地である伊賀国の服部一族が、平清盛を棟梁とする平家一門の全盛期──平安時代後期から活躍していたことを初めて知り、驚きを覚えた。そして、平家滅亡を決定づけた源平合戦最後の戦い「壇ノ浦の戦い」においても、伊賀服部一族が深く関わっていたという事実は、実に興味深い。
もし、伊賀服部一族の手引きによって安徳天皇が生き延びていたとすれば──それは歴史ロマンに満ちた伝説となるだろう。歴史上の定説では、安徳天皇は二位尼(平時子)とともに壇ノ浦で入水したとされている。しかし、源氏による平家残党狩りが徹底していたことを思えば、歴史の表舞台に再び姿を現すことなく、山陰のどこかで静かに暮らす道を選んだとしても不思議ではない。
そんな伊賀服部一族ゆかりの「黒党まつり」の存在を知ったのは、実はごく最近のことである。かつてのような壮大な祭礼ではないにせよ、受け継がれてきた伝統が今も守られていることに、深い敬意を覚える。この祭りがなければ、伊賀服部一族の歴史や、家長が平知盛の重臣として活躍した事実に触れる機会もなかっただろう。
静かに息づく歴史の記憶を、これからも大切に守り継いでいってほしい──そう願わずにはいられない。
