◆ はじめに
日本各地の温泉についての情報は、すでに平安時代の貴族社会において共有されていたようで、文献にもその記述が散見される。なかでも有名なのが、清少納言の『枕草子』に記された「湯は ななくりの湯 ありまの湯 たまつくりの湯」という一文である。
この三つの温泉地は、当時の人々に特に愛された名湯として挙げられ、後世に「日本三名泉」と呼ばれるようになった。その筆頭に置かれた「ななくりの湯」が、現在の三重県・榊原温泉である。
かつて「七栗(ななくり)」と呼ばれたこの地が「榊原温泉」と名を変えたのは、この一帯に自生する榊が伊勢神宮の祭祀に用いられ、いつしか「榊が原」と呼ばれるようになったことに由来すると伝わる。榊原温泉は、京の都から伊勢へ向かう参宮道の途中に位置し、古くから旅人が疲れを癒す湯として親しまれてきた。
現代では、伊勢神宮参拝の際に鳥羽や賢島など伊勢志摩エリアの温泉地を選ぶ旅行者も多い。しかし、日本三名泉の中でもひときわ静寂を保つ榊原温泉は、旅の選択肢として今も魅力的な存在である。
もちろん伊勢神宮の行き帰りに立ち寄るのもよいが、私は青山高原を散策する旅と組み合わせることをお勧めしたい。榊原温泉でゆっくりと心身を整え、翌日に青山高原の風とススキを楽しむ──本稿では、そんな静かな秋の旅のプランを提案したいと思う。
榊原温泉
榊原温泉は、三重県津市にある静かな山あいの温泉地で、平安時代には「ななくりの湯」と呼ばれ、清少納言が『枕草子』で日本三名泉の筆頭に挙げた名湯として知られている。伊勢神宮へ向かう参宮道の途中に位置し、古くから旅人が疲れを癒す湯として親しまれてきた。
かつて「七栗(ななくり)」と呼ばれたこの地が「榊原温泉」と名を変えたのは、周辺に自生する榊が伊勢神宮の祭祀に用いられ、「榊が原」と呼ばれるようになったことに由来すると伝わる。伊勢の神域と深く結びついた土地柄は、温泉地全体にどこか清らかな雰囲気を与えている。
温泉街は大規模な観光地のような賑わいはなく、宿が点在するだけの静かな佇まいである。夜になると周囲は驚くほど静かで、湯に浸かりながら耳を澄ますと、風の音や虫の声がかすかに届く。華やかさよりも、心を整える時間を求める旅人にふさわしい温泉地といえる。
榊原温泉は、伊勢神宮参拝と組み合わせる旅はもちろん、青山高原の散策と合わせることで、その静けさと湯のやさしさをより深く味わうことができる。歴史に名を残す名湯でありながら、現代ではひっそりとした静寂を保つ温泉地──それが榊原温泉の魅力である。
榊原温泉の泉質
榊原温泉の泉質は、無色透明のアルカリ性単純温泉である。源泉温度は31.2℃と低いため加温しているが、湯ざわりは非常にやわらかく、肌にすっと馴染むのが特徴である。湯上がりにはしっとりとした感触が残り、“美肌の湯”として古くから評価が高い。刺激が少なく、長湯しても疲れにくいことから、静かに湯に身を委ねたい人に向いている温泉である。
清少納言がその効能まで知っていたかどうかは定かではないが、榊原温泉は特に女性の美容に良いとされ、肌がつるつるになる「美肌の湯」として現代でも人気が高い。泉質に含まれる重曹成分(炭酸水素ナトリウム)やナトリウムイオンを多く含む高アルカリ性の湯は、古くなった角質層をやさしく取り除く洗浄作用を持ち、肌をすべすべに整えると考えられている。
この“湯のやわらかさ”と“美肌効果”の両立こそが、榊原温泉の魅力の一つである。華やかな観光地の温泉とは異なり、静かな山あいでゆっくりと湯に浸かる時間は、心身を穏やかに整えてくれる。伊勢参りの道中で愛された理由が、今も変わらず湯の中に息づいている。
榊原温泉の旅館
榊原温泉にある温泉旅館は、わずか五〜六軒ほどである。日本三名泉として名を連ねる有馬温泉や玉造温泉の賑わいを思い浮かべると、その静けさと規模の小ささに驚かされる。温泉街らしい華やかな通りはなく、宿が点在するだけの落ち着いた佇まいで、どこか“秘湯”の趣さえ漂っている。
しかし、この静けさこそが榊原温泉の魅力である。 喧騒から離れ、湯に身を委ねる時間を大切にしたい旅人にとって、これほど恰好の環境はない。夜になると周囲はひっそりとし、風の音や虫の声がかすかに届く。湯上がりに外へ出ると、温泉地というより山里の静寂に包まれているような感覚がある。
旅館の規模は大きくないが、どの宿も湯の質を大切にしており、アルカリ性単純泉のやわらかな湯を心ゆくまで楽しめる。華やかな温泉街を歩き回る旅ではなく、宿そのものの静けさを味わう旅──榊原温泉はまさにそのための場所である。
日本三名泉の中で最も静寂を保つ温泉地として、榊原温泉は現代の旅人にとっても特別な存在だ。喧騒を離れ、ゆっくりと湯に浸かりたいとき、ふと思い出したくなる温泉地である。
湯元 榊原舘
榊原温泉の中心を流れる榊原川(湯の瀬川)のほとりに建つ「湯元 榊原舘」は、温泉地の名を今に伝える老舗旅館である。館内には自家源泉を有し、アルカリ性単純泉の無色透明でやわらかな湯を、源泉そのままの温度(31.2℃)で楽しめるのが大きな特徴である。
大浴場には、源泉かけ流しの“ぬる湯”と加温した湯が並び、二つの湯を交互に味わえるのは榊原温泉でもここだけとされる。源泉のやさしい温度に身を委ねると、湯が肌にすっと馴染み、まるで天然の美容液に浸かっているかのような感触が広がる。榊原温泉が“美肌の湯”と呼ばれる理由を、湯元 榊原舘では最も実感しやすい。
さらに、6階には展望露天風呂があり、静かな山あいの風景を眺めながら湯に浸かることができる。夜は周囲がひっそりと静まり、風の音だけがかすかに届く。華やかな温泉街の賑わいとは無縁の、心を整えるための時間がここにはある。

榊原温泉の中でもとりわけ湯の質にこだわる宿として知られ、旅館自ら“天然の美容液”と称するほど上質な湯を守り続けている。静寂の中で湯に身を委ねたい旅人にとって、湯元 榊原舘はまさに最適の一軒である。
| 名 称 | まろき湯の宿 湯元 榊原舘 |
| 所在地 | 津市榊原町5970 |
| Link | 湯元 榊原舘 |
旅館 清少納言
榊原温泉を語るうえで欠かせない清少納言の名を、そのまま旅館名に冠したのが「旅館 清少納言」である。湯元 榊原舘のすぐ隣に位置し、榊原温泉を代表する名旅館の一つとして知られている。静かな山あいに佇む落ち着いた雰囲気の宿で、古来より名湯と称えられてきた榊原温泉の魅力をゆっくりと味わうことができる。
夕食には「七栗会席」や「式部会席」など、榊原温泉の歴史にちなんだ会席料理が用意されている。なかでも、三重県の特産である松阪牛のしゃぶしゃぶを堪能できる「式部会席」は人気が高い。「式部」の名は紫式部に由来し、清少納言と並び平安文学を彩った女性への敬意が込められている。
もちろん、清少納言ゆかりの「七栗会席」もおすすめである。地元の食材を中心に、素朴でありながら品のある料理が並び、旅館の静かな佇まいとよく調和している。歴史の気配を感じながら味わう夕餉は、榊原温泉ならではの楽しみと言える。

旅館 清少納言は、名湯の静けさと平安の雅をそっと感じさせてくれる宿であり、榊原温泉の旅をより深いものにしてくれる一軒である。
| 名 称 | 旅館 清少納言 |
| 所在地 | 津市榊原町6010 |
| Link | 榊原温泉|清少納言 |
神湯館
湯の瀬川(榊原川)沿いに佇む「神湯館」は、数寄屋造りの落ち着いた意匠を持つ純和風旅館である。全18室のこじんまりとした宿ながら、館内には日本庭園が広がり、風雅な東屋「清原亭」が静かに建っている。庭の緑と建物の木肌がよく調和し、どこか古き良き旅館の風格を感じさせる。
客室は和の趣を大切にした造りで、余計な装飾を排した静かな空間が魅力的である。窓を開けると庭の緑や川の気配がそっと届き、都会の喧騒を忘れさせてくれる。大規模旅館の華やかさとは異なる、落ち着いた時間を求める旅人にふさわしい佇まいである。
お風呂は内湯のみだが、榊原温泉特有のアルカリ性単純泉をゆっくりと楽しむには十分な広さを備えている。湯ざわりはやわらかく、湯上がりには肌がしっとりと整う“美肌の湯”の魅力を存分に味わえる。静かな内湯で湯に身を委ねる時間は、旅の疲れをそっとほどいてくれる。
夕食は松阪牛のしゃぶしゃぶプランが人気で、地元の味を堪能できる。落ち着いた和の空間で味わう夕餉は、旅館の雰囲気とよく調和し、旅の一日を穏やかに締めくくってくれる。

神湯館は、榊原温泉の静けさと和の風格をそのまま宿にしたような一軒である。華やかさよりも、心を整える時間を求める旅人にふさわしい宿と言える。
| 名 称 | 神湯館 |
| 所在地 | 津市榊原町5079 |
| Link | 榊原温泉 神湯館 |
榊原温泉の観光イベント
榊原温泉では、例年6月上旬から下旬にかけて、ゲンジボタルが飛び交う季節に合わせて「蛍灯」【ほたるび】と呼ばれるホタル観賞イベントが開催される。湯の里の静かな夜に、淡い光が川沿いを舞う光景は、まさに初夏の風物詩である。
私はまだこの季節に訪れたことがないが、温泉地の静けさとホタルの光が重なる夜は、きっと忘れがたい体験になるだろう。来年の初夏にはぜひ足を運んでみたいと思っている。
| 名 称 | 蛍灯【ほたるび】 |
| 所在地 | 津市榊原町内 |
| Link | 蛍の季節到来! 蛍灯 |
蛍灯の期間中には、射山神社の境内で「源氏灯路」【げんじとうろ】と呼ばれるイルミネーションも点灯される。境内の参道に柔らかな灯りが並び、ホタルの光とともに幻想的な夜を演出する。
| 名 称 | 源氏灯路/イルミネーション |
| 所在地 | 射山神社 三重県津市榊原町5073 |
| Link | 蛍の季節到来! 蛍灯 |
さらに、7月7日の七夕の夜には、願いを込めて書かれた短冊を御霊として焚き上げる「お焚き上げ神事」が執り行われる。静かな山里の神社で、短冊が空へと昇っていく光景は、どこか古い時代の祈りを思わせる。
榊原温泉の初夏は、湯と光と祈りが重なる季節である。温泉地の静寂に包まれながら、ホタルの光や灯路の明かりを楽しむ時間は、旅の記憶をより深いものにしてくれるだろう。
青山高原での散策
青山高原は、三重県中部に広がる標高600〜800メートルほどの高原で、津市と伊賀市の境にある笠取山から南北約15kmに渡って広がっている。標高756mにある三角点は、伊勢湾を一望できる絶景スポットとなっている。
風車が並ぶ雄大な景観と、季節ごとに表情を変える草原が魅力の場所である。榊原温泉から車でほど近く、湯で心身を整えた翌日に訪れるには最適の散策地である。

また、山頂付近は風力発電基地にもなっていて、89基の風車が建ち並ぶ様子は迫力満点である。何十年ぶりかで青山高原を訪ねて、風車の数が増えていることに率直に驚いた。ススキの群生地の数よりも風車の数の方が多いのではないかと思うくらいである。

秋になると、青山高原はススキの名所となる。陽の光を受けて銀色に揺れる穂が一面に広がり、風が吹くたびに草原が波のようにうねる。歩くほどに景色が変わり、風車の白い塔とススキの柔らかな色が重なる光景は、どこか異国の高原を思わせるほど美しい。

青山高原公園線と東海自然遊歩道が整備されているのでアクセスも良く、春はアセビやツツジの群生、秋はススキの白い穂が風に揺れてハイキングを楽しむには最適の場所である。

特に、9月下旬~10月下旬頃はススキの穂と迫力満点の風車とを一緒に写真に収められるのが嬉しい。遊歩道をゆっくりと散策するもよいし、ベストな構図を探して高原を歩き回るのもよい。

榊原温泉の湯で心を整え、翌日に青山高原の風を浴びながら歩く──青山高原での散策後に榊原温泉に向かっても良い──いずれにせよ、この二つを組み合わせることで、旅はより静かで豊かなものになる。温泉のやわらかさと高原の風の軽やかさが、心に心地よい余韻を残してくれる。青山高原は、星空が綺麗に見れる場所としても知られている。
| 名 称 | 青山高原三角点駐車場 |
| 所在地 | 伊賀市勝地1852-63 |
| Link | 青山高原|津市観光協会 青山高原|津市観光協会 青山高原 青山観光振興会青山高原 |
◆ あとがき
久しぶりに訪れた榊原温泉は、以前よりも静けさが増したように感じた。しかし、それは他の温泉地と比べてしまったからだろう。榊原温泉には榊原温泉だけの良さがあり、本来、賑わいのある温泉街と比較するべきものではない。むしろ、この静けさこそが、名湯として長く愛されてきた理由なのだと改めて思う。
榊原温泉は、古来より伊勢神宮ゆかりの「湯ごり」の地として知られているが、私は青山高原の散策と組み合わせた旅がとても相性が良いと感じている。高原の風を浴びながら歩き、草原の広がりを楽しんだあとで、榊原温泉のやわらかな湯に身を沈める。さらに松阪牛のしゃぶしゃぶで一日の疲れを癒やせば、大抵のストレスはどこかへ消えてしまうのではないだろうか。
榊原温泉のぬるめの湯は、スパツーリズムの観点から見ても体にやさしい。長湯しても疲れにくく、湯上がりには肌がしっとりと整う。伊勢で海水浴を楽しんだあと、日焼けした肌をそっと包み込むような湯でもある。
静かな温泉地と風の高原── この二つを組み合わせる旅は、心をゆっくり整えてくれる。 榊原温泉の湯に浸かりながら、また季節を変えて訪れてみたいと思った。