◆ はじめに
伊予松山城の天守を見上げると、 その端正な姿の奥に、四百年の時を超えて受け継がれてきた静かな気配が漂っている。 全国にわずか十二しか残らない現存天守のひとつとして、 松山城は今もなお、初代城主・加藤嘉明が描いた築城の理想を静かに伝えている。
嘉明は、戦国の荒波を生き抜いた武将でありながら、 城づくりにおいては地形を読み、堅牢さと美しさを兼ね備えた構えを追求した人物であった。 勝山の地を選び、城下町の未来を見据えながら築いた松山城には、 彼の確かな構想力と、領民の暮らしを守ろうとする意志が深く刻まれている。
天守へ続く石段を歩きながら、石垣の積み方や曲輪の配置に目を向けていると、嘉明がこの城に託した想いが、 風の音とともにそっと胸に響いてくる。
本稿では、現存天守を中心に、 加藤嘉明の築城への想いがどのように松山城に息づいているのかをたどってみたい。
伊予松山城
伊予松山城【いよまつやまじょう】は、愛媛県松山市に位置する歴史的な城で、別名「金亀城」や「勝山城」とも呼ばれる。
関ヶ原の戦いでの戦功により加藤嘉明が1602年に築城を開始したと伝わっている。嘉明は松山平野の中央に位置する勝山に新たな城を築くことを決意し、築城工事は約四半世紀にわたって続いたという。 1603年、嘉明はこの地を「松山」と命名した。
1627年、加藤嘉明が会津藩に転封され、蒲生忠知が松山藩主となった。しかし、1634年に忠知が急死し、蒲生家は断絶した。
1635年、徳川家康の甥である松平定行が松山藩主となり、以降14代にわたって松平氏が城主を務めたという。
1784年に天守が落雷で焼失し、1854年に再建された。この時の天守が現存している。
明治6年(1873年)の廃城令により松山城は廃城となったが、大正12年(1923年)に旧藩主家の久松家から松山市に寄贈された。現在、松山城は国の重要文化財に指定されており、観光名所として多くの人々に愛されている。
松山城の天守は、現存12天守の一つで、江戸時代最後の完全な城郭建築である。天守は三層三階地下一階の層塔型で、天守と小天守、隅櫓を渡櫓(渡り廊下)で結ぶ連立式天守が特徴である。

現存天守のうち唯一、築城主の印として瓦に葵の御紋が付いた城であるという。天守の再建に松平家の手が加わっていることを示すものとして、興味深い。

城のつくりは防備手段に徹した縄張りであるとされる。松山城の天守からは、松山平野や瀬戸内海の美しい景色を一望できる。特に天守最上階から眺めることができる360度のパノラマビューは圧巻である。

松山城には「登り石垣」と呼ばれる珍しい石垣がある。これは、山の斜面を登るように築かれた石垣で、全国でも松山城と彦根城だけに見られるものらしい。
広い本丸広場では、春には桜が咲き誇り、花見の名所としても知られている。また、本丸広場からは市街地を一望でき、リラックスしたひとときを過ごすことができる。
松山城へのアクセスは、リフトやロープウェイを利用することができる。リフトでは自然の風を感じながら、ロープウェイでは快適に登城することができる。
| 名 称 | 伊予松山城 |
| 所在地 | 愛媛県松山市丸之内1 |
| 駐車場 | あり(有料) |
| Link | 四国・愛媛の松山城 |
加藤嘉明と「よしあきくん」
伊予松山城のマスコットキャラクター「よしあきくん」は、松山城築城400年祭を記念して誕生したキャラクターである。名前の「よしあきくん」は、松山城の初代城主である加藤嘉明【かとう よしあき】にちなんで名付けられている。
よしあきくんは、松山城をはじめとする松山市の観光を盛り上げるために活動しており、イベントや観光案内などで活躍している。松山城を訪れた際には、運が良ければよしあきくんと一緒に記念写真を撮ることもできる。
加藤嘉明は、1563年に三河国(現在の愛知県)で生まれた武将で、豊臣秀吉の家臣として頭角を現した。「賤ヶ岳の七本槍」の一人として知られ、武勇に優れた武将であった。
1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功績によって伊予20万石を与えられ、松山藩の初代藩主となった。嘉明は1602年、松山平野の中央に位置する勝山に新たな城を築くことを決意し、築城を開始した。1603年にはこの地を「松山」と命名したと伝わる。築城工事は約四半世紀に及んだが、1627年に嘉明は会津藩へ転封となり、完成したばかりの松山城を後にすることになった。
やや気の毒にも思えるが、嘉明は会津藩12万石の初代藩主としても精力的に領国経営に取り組んだ。若松城(会津若松城)から白河へ通じる街道を整備し、新たに滝沢峠を経由する新道を開くなど、交通網の整備に尽力した。この道は江戸時代末期まで重要な交通路として利用されたという。
なお、若松城は当初七層の天守を備えていたとされるが、嘉明の子・加藤明成の時代に大規模な改修が行われ、天守は五層に改められた。これは城の防御力を高めるための改修であったと考えられている。
嘉明の会津藩での政治は、領内の基盤整備と経済の強化に重点が置かれていた。治水や道路整備、城下町の整備などに積極的に取り組み、その後の会津藩の発展に大きく寄与した。松山藩・会津藩の双方で功績を残した嘉明は、まさに優れた領主であったと言えるだろう。
◆ あとがき
天守を後にし、城下へと続く坂道をゆっくりと下りながら振り返ると、 松山城が静かに空へ向かって立ち上がる姿が目に入る。その佇まいは、四百年前に加藤嘉明が思い描いた城の姿を、今も変わらず伝え続けているように見える。
現存天守に残された梁や柱、石垣の角度、曲輪の配置── そのひとつひとつに、嘉明の築城哲学が息づいている。堅牢でありながら、どこか温かみを感じさせる松山城の風格は、彼が領民の暮らしと城下町の未来を見据えて築いた証でもある。
歩き終えたとき、胸に残るのは、城が語る静かな歴史の重みと、その奥にある“人の想い”への深い敬意だ。
伊予松山城を歩く時間は、加藤嘉明という武将の足跡に触れながら、 自分自身の歩みをそっと見つめ直すひとときでもある。