はじめに
京都の神社仏閣は国際的にも有名であり、世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成資産として17か所が登録されている。世界文化遺産に登録されていない寺社にも素晴らしい景勝地があり、むしろそちらの方が多いくらいだ。東本願寺もその一つである。

東本願寺は、京都市にある西本願寺の東側に位置し、真宗大谷派の本山として知られている。
東本願寺
東本願寺【ひがしほんがんじ】は、真宗大谷派の本山の寺院である。山号はない。御本尊は阿弥陀如来である。
正式名称は真宗本廟【しんしゅうほんびょう】である。東本願寺の名は通称であり、西本願寺(龍谷山本願寺)に対して東に位置することに由来しているという。
東本願寺は、1602年に創設され、真宗大谷派の本山として、徳川家康の支援を受けて伽藍が建設されたという。親鸞上人を宗祖とする同じ浄土真宗ながら、西本願寺とは宗派の内部対立や運営方針の違いから別の宗派として発展したという。
東本願寺は、御影堂門【ごえいどうもん】、御影堂【ごえいどう】や阿弥陀堂【あみだどう】などの壮大な建築物が特徴で、いずれも木造建築の中では最大級の規模を誇り、その迫力ある姿は圧巻の外観である。
阿弥陀堂には御本尊の阿弥陀仏像が安置され、御影堂【ごえいどう】には親鸞上人の像が安置されている。
名 称 | 東本願寺(真宗本廟) |
所在地 | 京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754 |
TEL | 075-371-9181 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | 真宗大谷派(東本願寺) |
あとがき
東本願寺は、西本願寺よりも後に創建されているがそれには理由がある。西本願寺も、実は戦国時代によくその名が登場する、大阪に本拠があった石山本願寺【いしやまほんがんじ】(あるいは大阪本願寺)がベースとなっている。
石山本願寺は、戦国時代初期から安土桃山時代にかけて摂津国(現在の大阪府)にあったとされる浄土真宗の大寺院である。本願寺は、多数の門徒をかかえ、その門徒がもたらす莫大な財力を有していたとされる。
当時の石山本願寺(又は大阪本願寺)は、伽藍を中心に防御的な濠(堀)や土居で囲まれた一種の「寺内町」を形成しており、寺院というより城郭(要害)のような様相を呈していたという。
浄土真宗は親鸞上人によって創始された宗派であるが、1533年に本願寺教団の本山となって以降、大いに発展し、戦国時代の一大勢力となっていた。日本統一を目論む織田信長にとっては厄介な敵対勢力になっていたことは日本の歴史に興味のある者にとっては周知のことである。各地で蜂起された「一向一揆」は本願寺が支援していたものであるとされる。
石山本願寺は、約11年間に及ぶ織田信長との抗争(いわゆる石山合戦)の末、1580年に浄土真宗本願寺派第11世宗主(真宗大谷派第11代門主)の顕如【けんにょ】が明け渡した。そして、その直後に石山本願寺は焼失したという。
石山本願寺の城郭そのものは「難攻不落の名城」のようであったと言われており、豊臣秀吉がこの石山本願寺の跡地に大坂城を築き、城下町を建設したと伝わっている。だから石山本願寺の規模や構造などは分からなくなっているが、織田信長が11年間も要しながら、攻略しきれなかったのだから「難攻不落の名城」のようだとする評価はあながち過大評価ではなさそうだ。
いずれにせよ、経済的・軍事的な要衝である石山本願寺(大坂本願寺)を拠点として、主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、大名に匹敵する権力を有するようになったいたのは史実である。特に、顕如が第11世宗主を務めた時代は、本願寺派の教団としては最盛期を迎えていた。
それが織田信長と対立するようになり、やがて抗争に繋がり、そして最後には和睦せざるを得なくなった。本拠の石山本願寺を明け渡した後に豊臣秀吉によって建立されたのが京都にある西本願寺であり、本願寺内の宗派対立を利用して分断を計るために徳川家康によって建立されたのが東本願寺というわけである。
宗教が政治に関わったために、政治によって翻弄されることになるのは本願寺だけではない。比叡山延暦寺も同じような経緯を辿っている。まさに歴史は繰り返すである。