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  • 国際都市として栄えた平城京──日本初のコスモポリス

    <目次>
    はじめに
    平城京誕生
    国営平城宮跡歴史公園を歩く
    世界へ開かれた玄関口だった
    正倉院に眠るシルクロードの宝物
    国際都市を支えた大寺院
    市場にあふれた人とモノ
    日本初のコスモポリスだった理由
    あとがき



    ◆ はじめに



    奈良の地に広がる平城京跡を歩くと、広大な草原の向こうに朱雀門が立ち、その静かな風景からは想像もできないほどの活気に満ちた都がかつて存在していた。

    平城京は単なる政治の中心地ではなかった。中国、朝鮮半島、さらにはシルクロードを通じて遠く西方世界の文化までも受け入れた、日本初の本格的な国際都市だったのである。

    本稿では、平城京がなぜ「日本初のコスモポリス」と呼べるのかをたどってみたい。


    平城京誕生

    ──律令国家の新たな首都

    710年、元明天皇は藤原京から平城京へ遷都した。新しい都は、当時東アジア最大の国際都市であった唐の長安城を手本にしながら造営され、碁盤目状の整然とした都市計画が採用された。都には天皇や貴族だけでなく、官人、職人、商人、僧侶など多くの人々が暮らし、政治・経済・文化の中心地として発展した。平城京の成立は、律令国家としての日本が本格的に歩み始めた象徴的な出来事であった。

    平城京は現在の奈良県奈良市および大和郡山市に広がる地域に築かれ、奈良時代(710~794年)の日本の首都であった。平城京は藤原京からの遷都に伴って造営され、唐の都・長安城を範として計画された都城である。中央北部には平城宮(大内裏)が置かれ、都の中央を南北に貫く朱雀大路によって左京と右京に分けられていた。さらに大路・小路が碁盤目状に配置され、計画的な都市空間が形成された。京域は東西約4.3km、南北約4.7kmに及び、当時の日本最大の都市であった。

    西ノ京(にしのきょう)は、平城京の右京、すなわち西部一帯を指す名称で、後には京域の西方周辺地域も含めて呼ばれるようになった。その名は、朱雀大路の西側に位置することに由来する。西ノ京には薬師寺や唐招提寺をはじめとする大寺院が建ち並び、奈良仏教の重要な中心地として栄えた。また、奈良時代後半には西大寺も創建され、この地域の宗教的な存在感をさらに高めた。

    一方、左京から外京(げきょう)にかけての地域には、法華寺や海龍王寺、さらに興福寺や東大寺などの大寺院が建立され、仏教文化の隆盛を支えた。とりわけ外京は、平城京東部に張り出して形成された特徴的な区域であり、その門前町は現在の奈良市中心部へと発展した。奈良の旧市街地は、往時の外京の面影を今に伝えている。

    現在も西ノ京には薬師寺や唐招提寺が往時の面影を伝え、1300年前の都の息吹を身近に感じることができる。

    図面
    引用:平城京とは? | 国営平城宮跡歴史公園

    国営平城宮跡歴史公園を歩く

    平城京とは、今から約1300年前に日本の都が置かれた地であり、現在の奈良市およびその周辺に広がっていた古代都市である。平城宮があった場所は、現在の近鉄大和西大寺駅と新大宮駅の中間付近に位置し、国の特別史跡「平城宮跡」として保存されている。

    平城京を中心として律令国家の体制が整えられた74年間を、私たちは「奈良時代」と呼んでいる。この時代には、中国・唐の文化の影響を強く受けた国際色豊かな「天平文化」が花開き、日本古代文化の黄金時代ともいえる繁栄を迎えた。

    710年、元明天皇はそれまでの都であった藤原京から遷都を行い、律令政治の中心となる新たな都として平城京を築いた。そのモデルとなったのは、当時世界最大級の国際都市であった唐の都・長安である。

    平城京の総面積は約2,500ヘクタール。東西約4.3km、南北約4.8kmの長方形を基本とし、その東側に外京が加えられていた。都の中央を南北に貫く幅約74mの朱雀大路は、南の羅城門から北の朱雀門へ一直線に伸びる壮大なメインストリートであった。道路というより広場と呼びたくなるほどの規模であり、その西側を右京、東側を左京と呼んだ。

    碁盤目状に整然と区画されたこの大都市には、10万人を超える人々が暮らしていたと考えられている。官人や貴族だけでなく、職人、商人、僧侶など多様な人々が生活し、日本屈指の繁栄を誇る都であった。

    都の北端中央に位置した平城宮は、政治と儀式の中心である大極殿・朝堂院、天皇の住まいである内裏、行政を担う官衙、さらには宴や外交儀礼のための庭園などを備えた壮大な宮城であった。東西・南北とも約1kmの広大な区域に築かれ、周囲は築地塀によって囲まれ、朱雀門をはじめ12の門が設けられていた。平城宮に立ち入ることができたのは、皇族や貴族、官人など限られた人々だけであったという。

    引用:平城宮跡歴史公園エリア紹介 | 国営平城宮跡歴史公園

    平城宮跡の大きな特色は、大極殿跡が二か所確認されていることである。聖武天皇は740年から745年にかけて恭仁京・難波京・紫香楽宮へと都を移したが、その際に最初の大極殿は解体移築された。745年に平城京へ戻った後、新たな大極殿が東側に建設されたためである。そのため、元明天皇の時代のものを「第一次大極殿」、聖武天皇の時代のものを「第二次大極殿」と呼んでいる。

    平城宮南面の朱雀門は宮城の正門であり、その前の広場は国家的な祝祭や外交儀礼の舞台となった。外国使節の送迎や歌垣が催され、正月には天皇自ら門前に出て新年の祝いを行ったとも伝えられている。

    平城京には多くの寺院が建立された。藤原京から移された大安寺・薬師寺・興福寺・元興寺は当時「四大寺」と称されていた。さらに聖武天皇が建立した東大寺、称徳天皇が建立した西大寺、そして法隆寺を加えた七寺は「南都七大寺」と呼ばれ、奈良仏教の中心として大きな影響力を持った。

    また、海龍王寺、法華寺、唐招提寺、喜光寺(菅原寺)、新薬師寺、紀寺などの名刹も数多く建立され、平城京は日本仏教文化の一大中心地となった。

    平城宮東側の張り出し部分では奈良時代の庭園遺構が発見され、「平城宮東院庭園」として復元整備されている。現在では国の特別名勝に指定され、往時の優雅な宮廷文化を今に伝えている。

    現在の国営平城宮跡歴史公園では、第一次大極殿、大極門、朱雀門、東院庭園などが復元されており、さらに朱雀大路や二条大路も整備されている。その広大な空間に立つと、1300年前の都の壮大な景観が目の前によみがえるようである。

    目を閉じれば、朱雀大路を行き交う役人や僧侶たちの姿、壮麗な宮殿群、鐘の音が響く寺院の風景が浮かんでくる。国営平城宮跡歴史公園は、日本が律令国家として歩み始めた時代の息吹を体感できる、かけがえのない歴史空間なのである。

    名 称平城京跡(国営平城宮跡歴史公園)
    所在地奈良県奈良市二条大路南三丁目5番1号
    Link国営平城宮跡歴史公園

    世界へ開かれた玄関口だった

    平城京時代、日本は盛んに遣唐使を送った。彼らは中国・唐の先進的な制度や学問、仏教、美術、建築、医学を持ち帰った。

    また大陸から渡来した人々も都に住み、多様な文化が行き交った。平城京は日本の首都であると同時に、「世界の知識が集まる窓口」でもあったのである。

    ● 平城京に流れ込んだ文化

    • 仏教
    • 漢字文化
    • 律令制度
    • 建築技術
    • 美術工芸
    • 医学・薬学
    • 天文学

    まさに国際交流の中心地であった。


    正倉院に眠るシルクロードの宝物

    平城京の国際性を語るうえで欠かせないのが正倉院である。

    東大寺に伝わる宝物群の中には、

    • ペルシア風の文様
    • インドの影響を受けた工芸品
    • 中国で作られた楽器
    • 中央アジア由来の染織品

    などが含まれている。これらはシルクロードを通じて運ばれた文化の結晶である。

    奈良の都には、遠く地中海世界につながる文化の息吹が届いていた。平城京は東アジアの終着点であると同時に、世界文明の接点でもあったのである。


    国際都市を支えた大寺院

    奈良時代の都では仏教が大きな役割を果たした。東大寺、興福寺、薬師寺、大安寺などの大寺院には、国内外から多くの僧侶や学僧が集まった。特に東大寺では、インド出身の僧・菩提僊那が大仏開眼供養に参加している。

    平城京は宗教と学問の国際交流拠点でもあったのである。


    市場にあふれた人とモノ

    都には東市と西市という大規模な市場が設けられた。そこには地方から運ばれた産物だけでなく、大陸文化の影響を受けた品々も並んだ。

    商人たちの呼び声が響き、人々が行き交う様子は、現代の大都市にも通じる活気があったことだろう。

    国際都市とは外国人がいる都市ではなく、多様な文化や価値観が交流する都市である。平城京はまさにその先駆けであった。


    日本初のコスモポリスだった理由

    平城京の特徴をまとめると次の三点になる。

    ① 世界の知識が集まった

    遣唐使がもたらした先進文化の受信地だった。

    ② 多様な人々が暮らした

    渡来人や外国僧など国際色豊かな人々が都で活動した。

    ③ 世界文明とつながっていた

    正倉院宝物が示すように、シルクロード文化の終着点となった。

    これらの条件を備えた平城京は、まさに日本初のコスモポリスと呼ぶにふさわしい都市だったのである。


    ◆ あとがき



    平城京跡を訪れると、広々とした空の下に静寂な時間が流れている。しかし1300年前、この場所は世界へ向かって開かれた国際都市であった。

    異なる文化を受け入れ、新しい知識を学び、多様な人々が交流した平城京。その姿は、国際化が進む現代社会にも通じるものがある。

    奈良の風景の中に立つとき、私たちは日本の原点であると同時に、世界へ開かれた古代都市の記憶にも触れているのかもしれない。




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