◆ はじめに
三重県伊賀市長田の比自山山頂に残る比自山城跡は、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において、伊賀衆が織田信長の大軍に立ち向かうために築いた北伊賀最大規模の山城である。
もともとは比自山観音寺があった信仰の地であったが、戦乱の危機に際して急遽城塞へと姿を変え、多くの地侍や土豪たちが集結した。山頂部には広大な曲輪群が築かれ、その周囲には空堀や土塁が巡らされるなど、伊賀衆の存亡を懸けた防衛拠点となった。
現在も山中には当時の遺構が数多く残されており、静かな自然の中を歩きながら戦国時代の緊張感を感じることができる。今回は、第二次天正伊賀の乱の激戦地として知られる比自山城跡を訪ね、その歴史と見どころをたどってみたい。
比自山城跡の由緒
伊賀市長田の比自山山頂に残る比自山城跡(ひじやまじょうし)は、別名を「比自山砦」といい、天正9年(1581年)の第二次天正伊賀の乱において、伊賀衆が織田信長の大軍に対抗するために築いた北伊賀最大規模の山城である。乱の際には最大の激戦地となったことで知られている。
城は比高約150メートルの比自山山上に築かれており、もともとこの地には比自山観音寺と呼ばれる寺院があったとされる。寺院跡からは鎌倉時代から室町時代初期の瓦も出土しており、古くから信仰の場であったことがうかがえる。第二次天正伊賀の乱に際し、この寺院跡を利用して大規模な山城へと改修された。
『伊乱記』によれば、北伊賀の有力土豪である福喜多将監と百田藤兵衛が中心となり、多くの地侍や土豪たちが比自山城へ集結したという。福喜多将監は南側の「朝屋丸」、百田藤兵衛は北側の「長田丸」を守備し、伊賀衆を率いて織田軍に対抗したと伝えられている。
当時の比自山城には多数の籠城勢が集まり、城の周囲には幾重もの柵や逆茂木が設けられたという。蒲生氏郷、堀秀政、筒井順慶らが率いる織田方の大軍に包囲されながらも激しく抵抗し、何度も敵軍を撃退したと伝えられる。
しかし圧倒的な兵力差の前に戦況は次第に悪化し、天正9年10月、比自山城はついに落城した。『伊乱記』では、総攻撃の直前に籠城勢が柏原城方面へ退却したとも記されている。その後、第二次天正伊賀の乱によって伊賀は織田氏の支配下に入り、比自山城もその役目を終えて廃城となった。
現在、城跡には広大な曲輪群や空堀、土塁などの遺構が残されており、伊賀衆が総力を挙げて築いた防衛拠点の姿を今に伝えている。比自山城跡は、天正伊賀の乱を語るうえで欠かすことのできない貴重な史跡である。
| 名 称 | 比自山城跡 |
| 所在地 | 三重県伊賀市長田 三重県伊賀市長田1680(長田山谷公民館) |
| アクセス | 名阪国道「中瀬IC」から車で約5〜10分 |
| 駐車場 | 長田山谷公民館の駐車スペースが使用可 |
| Link | 比自山城跡 – 日本遺産・忍者|忍びの里 伊賀 |
比自山城跡を歩く
比自山城跡は、三重県伊賀市長田にある比自山の山頂付近に築かれた中世山城である。第二次天正伊賀の乱における北伊賀最大の防衛拠点として知られ、現在も広大な城域に当時の遺構が良好な状態で残されている。
城跡へは、比自山南麓の長田山谷公民館付近から登城する。周辺には案内看板が設置されており、公民館脇から続く登山道(大手道)をたどれば、本丸跡まで徒歩約15〜20分で到着する。山道は比較的よく整備されているため、歴史散策を楽しみながら登ることができる。
比自山城は、もともと比自山観音寺のあった山頂部を戦時に城郭化したものである。そのため自然の地形を巧みに利用しながら、大規模な空堀や土塁、曲輪群が築かれており、伊賀衆が織田軍の大軍を迎え撃つために総力を挙げて整備した防衛拠点の姿を現在も見ることができる。
● 本丸跡(比自山観音寺跡)
比自山の最高所に位置する中心郭で、かつては比自山観音寺の伽藍があったと伝えられている場所である。現在は「比自山城址」の石碑や解説板が設置されており、天正伊賀の乱最大の激戦地の一つであったことを今に伝えている。
広々とした郭内に立つと、ここが単なる山寺ではなく、伊賀衆最後の防衛拠点として利用されたことを実感できる。
● 巨大な空堀と竪堀
比自山城跡では、敵の侵入を阻止するために築かれた大規模な空堀を見ることができる。尾根筋を断ち切るように掘られた空堀は現在も明瞭に残り、山城ならではの防御構造を観察できる。
また、一部には斜面へ落ち込む竪堀も確認でき、織田軍の侵攻に備えて防御が強化されていたことがうかがえる。
● 高く分厚い土塁
城内の各曲輪には、防御施設として築かれた土塁が残されている。石垣中心の近世城郭とは異なり、土を盛り上げて造られた中世山城らしい構造がよく分かる。
とりわけ主要部の土塁は規模が大きく、短期間で急造された城とは思えないほどである。伊賀衆が生き残りを懸けて築いた防衛線の迫力を感じさせる見どころの一つとなっている。
● 風呂谷の激戦地
比自山の南麓に位置する風呂谷は、第二次天正伊賀の乱において激戦が繰り広げられた場所として知られている。
『伊乱記』によれば、比自山城に立て籠もった伊賀衆は、蒲生氏郷や筒井順慶らが率いる織田方の軍勢に対して、この周辺で激しく抵抗したと伝えられる。現在は静かな山里の風景が広がっているが、かつてここが伊賀の命運を懸けた戦場であったことを思うと感慨深い。
比自山城跡には天守も石垣も残っていない。しかし、山中に刻まれた空堀や土塁、広大な曲輪群を歩いていると、織田軍の侵攻に立ち向かった伊賀衆の緊迫した日々が生々しく伝わってくる。比自山城跡は、天正伊賀の乱の歴史を実感できる、伊賀屈指の山城遺跡である。
◆ あとがき
比自山城跡を歩いていると、ここが単なる山城ではなく、伊賀の人々が故郷と自由を守ろうとして築き上げた最後の防衛拠点であったことが実感できる。
山中に残る空堀や土塁は今では静かに木々に囲まれている。しかし四百年以上前、この場所では伊賀衆が織田軍の圧倒的な兵力に立ち向かい、激しい攻防が繰り広げられていた。遺構の一つひとつは、その歴史を今に伝える無言の証人ともいえるだろう。
比自山城跡には天守や石垣のような華やかさはない。しかし、広大な城域を歩きながら往時の姿を想像すると、戦国伊賀の歴史がより身近に感じられる。とりわけ天正伊賀の乱を学ぶうえで、この城跡ほど当時の緊迫した状況を体感できる場所は少ない。
静かな比自山の森に身を置けば、風に揺れる木々のざわめきの向こうから、伊賀衆が懸命に戦った時代の息遣いが聞こえてくる。比自山城跡は、歴史の記憶を今に伝える伊賀屈指の山城遺跡なのである。