◆ はじめに
伊賀国は、かつて日本の地方行政区分として設けられた令制国の一つで、現在の三重県西部──上野盆地一帯に相当する。東海道に属し、伊賀市と名張市を中心とする地域は、今も「伊賀」と呼ばれ、歴史と文化の独自性を色濃く残している。 伊賀は、伊賀流忍者の発祥地として広く知られるほか、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても名高い。山里の静けさと職人の技が息づく土地である。
そんな伊賀の町を見晴らす上野城跡は、かつてこの地に栄えた大寺院・平楽寺の記憶を静かに抱いている。 城跡を歩き始めると、石垣の重なりや風の通り道の奥に、寺院の静けさと城郭の緊張感が層のように重なっていることに気づく。
平楽寺は平安期に栄え、三十六坊を擁した大寺院であったが、時代の流れとともに姿を変え、筒井家の支配、そして藤堂藩による城郭整備を経て、現在の上野城跡へと姿を変えていった。
本稿では、この「大寺院から城塞へと移りゆく歴史」を歩きながら、伊賀の町が育んできた静かな時間を綴ってみたい。
平楽寺跡の歴史
● 寺町形成の時代
平楽寺は、平安期に大寺院として栄え、三十六坊を有する伊賀随一の寺院であった。 その規模は城下町の形成にも影響を与え、寺院を中心に町が広がる「寺町」が生まれた。城の東側に大きな寺院が集まっていたのは、当時の名残である。
平楽寺は、要塞としても機能していた。織田信長の「天正伊賀の乱」では伊賀勢の拠点となり軍議が開かれたが、敗北により焼け落ちてしまった。
● 筒井家支配の時代
戦国期の1585年、豊臣秀吉の家臣である筒井定次が、平楽寺のあった場所に初めて城を建てた。伊賀を支配した筒井家のもとで、城下町は 北向き に造られた。 この時代、平楽寺跡はまだ寺院の記憶を色濃く残していたと考えられ、城郭としての整備は限定的であった。
● 藤堂藩による城郭整備
江戸時代に入り、藤堂家が伊賀国を治めると、上野城は津藩の「ふたつの居城」の一つとして本格的に整備された。 伊勢国と伊賀国という二つの「国」を領する例外的な藩であったため、伊賀上野城は軍事的にも重要な拠点となった。
1608年に入国した藤堂高虎が城を大改修し、大坂城の豊臣方に対抗するため、高さ約30メートルの日本一の 「高石垣」を築いた。
城下町は筒井家時代とは逆に 南向き に再編され、寺町の東側には「農人町」と呼ばれる新たな町域が広がっていった。 天守台は築かれたものの、江戸初期に崩落し、天守が建つことはなかった。
五層の天守を計画したが、1612年の大嵐で倒壊し、大阪の陣で徳川方が勝利したため 当時は再建されなかった。
現在の天守は、昭和10年(1935年)に、川崎克氏が私財を投じて建設した「伊賀文化産業城」である。
寺院の静けさと城郭の構えが重なるこの場所は、まさに「平楽寺から城塞へと移りゆく伊賀の歴史」を象徴している。
上野城跡を歩く
城跡を歩くと、まず目に入るのは高く積み上げられた石垣(高石垣)である。その重厚さの奥に、かつて平楽寺の伽藍が広がっていたことを思うと、風景の見え方が少し変わる。
天守台へ向かう道は、ゆるやかな坂となって続き、途中には武家屋敷跡の名残が点在する。 かつて堀が巡っていた場所は今は埋め立てられ、わずかに土地が低くなっている部分が往時の痕跡として残っている。
天守台に立つと、伊賀の町並みが一望できる。 平楽寺の静けさ、筒井家の時代、藤堂藩の城郭整備──それぞれの時代がこの丘の上に重なり、風の音とともにゆっくりと立ち上がってくる。
歩くほどに、寺院の記憶と城の構えが交差し、伊賀の歴史が静かに姿を見せてくれる。
| 名 称 | 史跡 上野城跡(平楽寺跡) |
| 所在地 | 伊賀市上野丸之内106 |
| 駐車場 | あり(有料) |
| Link | 平楽寺跡(伊賀上野城) 伊賀上野城(平楽寺跡) |
◆ あとがき
上野城跡を歩く時間は、平楽寺の静けさと城郭の力強さが重なる、伊賀ならではの奥行きを感じるひとときであった。 歴史は決して声高ではなく、むしろ淡く、静かに、しかし確かにそこに息づいている。
平楽寺の記憶、筒井家の時代、藤堂藩の城郭整備── それぞれが長い年月を越えて今もこの丘に残り、訪れる者の歩みをゆっくりと整えてくれる。
季節を変えて訪れれば、きっとまた違う表情を見せてくれるだろう。 春の光、夏の緑、秋の色づき、冬の澄んだ空気──そのどれもが、この城跡の静けさをより深く味わわせてくれるはずだ。
歩き終えたあとに残るのは、やわらかな余韻。 上野城跡は、そんな静かな旅の終わりにふさわしい場所である。