◆ はじめに
伊賀国は、かつて日本の地方行政区分として設けられた令制国の一つで、現在の三重県西部──上野盆地一帯に相当する。東海道に属し、伊賀市と名張市を中心とする地域は、今も「伊賀」と呼ばれ、歴史と文化の独自性を色濃く残している。 伊賀は、伊賀流忍者の発祥地として広く知られるほか、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても名高い。山里の静けさと職人の技が息づく土地である。
そんな伊賀の山里にひっそりと佇む永保寺(えいほうじ)は、静けさの中に深い歴史を宿す古刹である。 境内に足を踏み入れると、木々の影と土の匂いがやわらかく漂い、訪れる者の心を自然と整えてくれる。
この寺は、伊賀流忍者の中でも特に名高い 百地氏ゆかりの寺 として知られている。 百地三太夫の名は、伊賀忍者の象徴として語られることが多いが、その一族が祈りを捧げた寺が永保寺であることは、伊賀の歴史を歩くうえで欠かせない一つの手がかりとなる。
華やかさとは無縁の、ただ「そこにある」静けさ。 その静けさの奥に、伊賀の人々が守り伝えてきた祈りと、忍びの里の記憶がそっと重なっていく。本稿では、永保寺の境内をゆっくり歩きながら、 伊賀流忍者の歴史と山里の静けさが響き合う時間に触れてみたいと思う。
永保寺の由緒
伊賀市喰代(ほおじろ)にある 遠峯山 永保寺 は、伊賀の山里に静かに佇む、真言宗豊山派の歴史ある古刹である。 その由緒は古く、伊賀の歴史・皇室の伝承・忍者文化(百地氏)と深く結びつき、地域の祈りの中心として長く人々に寄り添ってきた。
● 創建の伝承──東峯山の山頂から始まる物語
永保寺の起源は、今から 1,200年以上前 に遡ると伝えられている。 寺伝によれば、聖武天皇の勅願 により、現在の場所よりもさらに山奥にある 「東峯山(とむねさん)」の山頂付近 に創建されたという。
山頂に寺を置くという形式は、古代の山岳信仰と密教の結びつきを示すもので、 永保寺が当初から「祈りの場」として特別な位置づけを持っていたことがうかがえる。
● 永保年間の移築──白河上皇ゆかりの寺へ
その後、平安時代末期の 永保年間(1081〜1084) に、 白河上皇(白河院)の勅命 によって現在の喰代の地へ移築・建立されたと伝えられている。
この移築により、寺は山頂から里へと降り、 地域の祈願寺としての役割をより強めていった。寺名の「永保」は、この元号に由来している。
● 皇室ゆかりを示す鬼瓦
境内には、旧本堂のものとされる 大きな鬼瓦 が保存されている。 その鬼瓦には「菊の文様」が施され、上部には 十六弁の菊花紋 が刻まれている。
十六弁菊花紋は皇室の象徴であり、 永保寺が天皇・皇室と深い繋がりを持っていたという伝承を裏付ける貴重な遺物である。 静かな境内に置かれた鬼瓦は、平安の昔の気配を今に伝えている。
● 百地氏ゆかりの寺──伊賀流忍者の拠点と隣り合う古刹
永保寺がある喰代地区は、 伊賀流忍者の祖とも言われる伝説の 百地三太夫 をはじめとする 百地氏の拠点 であった。
永保寺は百地氏ゆかりの寺院であり、 中世の城館跡(伊賀流忍者砦)である 「百地砦(百地丹波城跡)」 に隣接している。 寺と砦が隣り合うという地理的事実は、 永保寺が百地氏の祈りと生活の中心であったことを強く示している。
百地氏は、伊賀惣国一揆の時代に地域の自治を支えた地侍の一族でもあり、 永保寺はその精神的支柱として機能していたと考えられている。
● 天正伊賀の乱──焼失と再建
天正9年(1581年)、織田信長の一軍が伊賀に攻め込んだ 「天正伊賀の乱」 の際、百地氏は織田軍に激しく抵抗した。 その戦火によって、永保寺も 完全に焼失 してしまった。
現在の建物は江戸時代以降に再建されたもので、 再建から数えてもすでに 約400年 の歴史を刻んでいる。 境内の静けさの奥には、戦乱の時代を生き抜いた人々の気配がそっと息づいている。
● 祈願寺としての永保寺──雨乞いの井戸の伝承
永保寺は古くから、喰代・高山・蓮池といった周辺地域の「祈願寺」として人々の信仰を集めてきた。
特に、かつて奥の院があった遠峯山頂の 井戸 は、どんな日照りでも水が枯れないとされ、 大干ばつの際にはこの井戸を掃除し、雨乞いの祈願を行う風習が 近年まで受け継がれていた。
山頂の井戸が祈りの中心となる風習は、 永保寺が古代から続く山岳信仰と密教の流れを受け継ぐ寺であることを示している。
| 名 称 | 遠峯山 永保寺 |
| 所在地 | 三重県伊賀市喰代1096 |
| アクセス | 名阪国道 友生IC から車で10分 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 永保寺 |
永保寺の境内を歩く
──百地氏ゆかりの静かな古刹を歩く
永保寺の本堂は、天正伊賀の乱で焼失した後、江戸時代に再建されたものである。 現在は無住寺院となっており、御本尊の 十一面観世音菩薩 が静かに祀られている。 本堂の軒下には御朱印(印のみ)が置かれ、参拝者が自ら押せるようになっている。 人の気配が少ない分、境内にはより深い静けさが漂い、伊賀の山里らしい落ち着きが感じられる。
● 皇室ゆかりを伝える鬼瓦
本堂のすぐそばには、天正伊賀の乱で焼失する前の旧本堂に使われていたとされる 巨大な鬼瓦 が保存されている。その上部には、皇室の象徴である 十六弁の菊花紋 が刻まれており、 永保寺が古くから皇室と深い繋がりを持っていたという伝承を裏付ける貴重な遺物である。
静かな境内に置かれた鬼瓦は、平安の昔の気配をそっと今に伝えている。
● 護摩堂の祈り
境内には、祈祷を行うための 護摩堂 があり、 不動明王をはじめとする諸尊が祀られている。 護摩の炎が上がることは今では少ないが、 堂内には密教寺院特有の厳かな空気が残り、 祈りの場としての永保寺の歴史を静かに感じさせる。
● 喰代分校跡が語る地域の記憶
境内の一角には、かつて地域の子どもたちが通った 友生小学校 喰代分校跡 が残されている。 寺と学校が隣り合っていた時代の名残は、 永保寺が地域の生活とともにあったことを物語っている。
寺の静けさの中に、かつての子どもたちの声がふと蘇るような、 どこか懐かしい気配が漂っている。
● 裏山に広がる石仏の道
本堂裏の山へ一歩足を踏み入れると、 なだらかな尾根に沿って 「永保寺四国八十八カ所石仏」 や 「西国三十三観音石仏」 がずらりと並ぶ、 神秘的で珍しい光景が広がる。
これらの石仏は明治から大正にかけて建立されたもので、 裏山の散策道を歩くだけで、 四国霊場や西国霊場を“ミニチュア巡礼”できるようになっている。 静かな山道に並ぶ石仏は、祈りの道としての永保寺の歴史を今に伝えている。
● 百地砦跡へ続く散策路
裏山の石仏の道は、そのまま 「百地砦跡(百地丹波城跡)」 へと続いている。 徒歩数分の散策路は、山里の空気を感じながら歩くのにちょうどよい距離である。
砦跡は現在は小さな広場のようになっているが、 なだらかな尾根や郭(くるわ)の跡が残り、 中世の城館の構造を今に伝えている。 百地氏が拠点とした砦の雰囲気を肌で感じられる場所であり、 永保寺と百地氏の深い結びつきを実感できる。
静かな山里の中で、 祈りの場と忍者の砦が隣り合うという伊賀ならではの歴史が、 歩くほどにゆっくりと姿を見せてくれる。
◆ あとがき
永保寺を歩く時間は、伊賀の歴史を静かにたどる旅そのものである。 百地氏ゆかりという背景は、この寺にひとつの物語を与えているが、 歩き終えて心に残るのは、史実の重みよりも、境内に満ちる穏やかな空気だ。
伊賀の山里に息づく祈り。 その祈りの奥には、忍びの技を生きた人々の気配がほのかに漂い、 訪れる者の心にそっと余韻を残してくれる。
裏山の石仏の道を歩けば、四国八十八カ所や西国三十三観音の巡礼が 小さな山里の中に凝縮されているようで、 祈りの道が時代を越えて受け継がれてきたことを静かに感じさせる。
そして、百地砦跡へと続く散策路に足を進めると、 祈りの場と忍者の砦が隣り合うという伊賀ならではの歴史が、 山の静けさの中でゆっくりと姿を見せてくれる。
永保寺の静けさは、寺を離れたあとも心に長く残り続け、 旅の終わりにやわらかな余韻を添えてくれる。
