掛田城跡──天正伊賀の乱、伊賀防衛最前線の山城を歩く

目次
はじめに
掛田城跡の由緒
掛田城跡を歩く
あとがき

はじめに

伊賀と聞くと、多くの人は「伊賀忍者」を思い浮かべるだろう。しかし戦国時代の伊賀には、外敵の侵攻から郷土を守ろうとした土豪たちの城が数多く築かれていた。

今回訪ねた掛田城跡は、伊勢から伊賀へ入る交通の要衝に位置し、天正伊賀の乱では伊賀防衛の最前線のひとつとなった山城である。現在は静かな雑木林に包まれているが、城内には高い土塁や深い空堀が良好な状態で残り、当時の緊迫した戦いを今に伝えている。

織田軍の大軍を前に、伊賀衆はどのような思いでこの城を守ろうとしたのだろうか。今回は、天正伊賀の乱の舞台となった掛田城跡を歩きながら、その歴史と見どころを紹介したい。


掛田城跡の由緒

掛田城跡は、三重県伊賀市下川原に所在する山城で、別名「富増伊予城(とみますいよじょう)」とも呼ばれている。築城年代は明らかではないが、戦国時代にはこの地域の土豪であった富増伊予守の居城と伝えられている。

掛田城は、織田氏と伊賀衆が激しく争った「天正伊賀の乱」の重要な舞台として知られている。

第一次天正伊賀の乱1579年

天正7年(1579年)、織田信長の次男・織田信雄は伊賀へ侵攻した。しかし伊賀衆は各方面でこれを迎え撃ち、掛田城でも富増伊予守をはじめとする地元の土豪たちが籠城して伊勢路口から侵攻した織田方に対抗し、撃退したと伝えられている。

第二次天正伊賀の乱1581年

その二年後の天正9年(1581年)、織田信長は大規模な伊賀攻めを実施する。このとき伊勢路口から侵攻した織田信雄らの大軍が最初に攻撃した城の一つが掛田城であった。『伊乱記』などによれば、城内には富増伊予守をはじめとする上津・阿保周辺の土豪ら二百人にも満たない兵が集結していたとされる。圧倒的な兵力差の前に掛田城は落城し、生き残った兵は周辺の城砦へ退却したとも伝えられている。

掛田城は、伊勢街道(初瀬街道)を見下ろす「掛田峯」と呼ばれる丘陵先端部に築かれ、伊勢から伊賀へ通じる交通路を監視する戦略上の要衝であった。第二次天正伊賀の乱を前に、防御施設がさらに強化されたとも考えられている。

現在も主郭を囲む高い土塁や空堀、巧みに配置された虎口が良好な状態で残されており、伊賀の土豪たちが築いた戦国期山城の特徴を今に伝えている。主郭南東部には、伊賀の城郭としては珍しい穴蔵状の遺構があり、櫓台跡と考えられている。

名 称掛田城跡(富増伊予城)
所在地三重県伊賀市下川原
アクセス名阪国道「上野東IC」から
422号線・165号線を経由で、約25分
駐車場国道165号線沿い(登城口近く)にある
青山緑地の駐車スペースが利用可
Link掛田城跡 – 日本遺産・忍者|忍びの里 伊賀

掛田城跡を歩く

掛田城跡は、三重県伊賀市下川原の伊勢街道(初瀬街道)沿いに位置する。国道165号線のすぐ脇にありながら、中世城郭の雰囲気を今に伝える土塁や空堀が良好な状態で残されている。近鉄大阪線「伊賀上津駅」から徒歩約15分ほどで到着でき、比較的気軽に訪ねられる山城跡である。

駅を出て南東(津方面)へ進み、国道165号線沿いを歩くと、「掛田城跡」の案内看板が見えてくる。案内板付近の民家脇の細い通路を進み、階段を上るとほどなく城域に到着する。

掛田城は小規模な城ながら、土塁・空堀・虎口などの遺構がよく残り、伊賀衆が築いた戦国期の土の城の特徴を間近に観察できる。天正伊賀の乱の頃には、防御機能が強化された城であったと考えられている。


中世伊賀の城郭を象徴する高土塁

主郭(本丸)の周囲には高く厚い土塁が巡らされている。現在でもその規模は十分に感じられ、当時の防御力の高さを実感できる。伊賀の土豪が築いた城郭に共通する特徴のひとつであり、掛田城を代表する見どころである。


城郭を取り巻く空堀

主郭の周囲には空堀が巡らされている。保存状態が良く、現在でも堀の深さや形状を確認することができる。敵の侵入を阻むための防御施設として機能した様子を想像しながら歩けるのが魅力である。


珍しい穴蔵形式の櫓台跡

主郭南東隅には、土塁に囲まれた方形区画が残されている。内部には穴蔵状の構造がみられ、伊賀の城郭では珍しい遺構として知られる。この施設については櫓台跡とする説が有力だが、その用途は明確には分かっていない。掛田城を代表する見どころのひとつである。


工夫された虎口

城の出入口である虎口は、敵が一直線に侵入できないよう工夫されている。周囲の土塁を利用して侵入経路を制限し、防御側が有利に戦える構造が採用されている。こうした実戦的な縄張りは、天正伊賀の乱の緊張感を今に伝えている。


散策時間は約30〜45分ほど。規模は大きくないものの、天正伊賀の乱の舞台となった山城の姿をじっくりと観察できる。特に晩秋から早春にかけては草木が少なく、土塁や空堀の輪郭がはっきり見えるため、城跡歩きには最適な季節である。


伊勢街道を監視し、天正伊賀の乱では伊賀防衛の最前線のひとつとなった掛田城。その静かな城跡には、戦国乱世を生きた伊賀衆の知恵と覚悟が今も刻まれている。


あとがき

掛田城跡は、決して大規模な城ではない。しかし、主郭を囲む高い土塁や深い空堀、巧みに工夫された虎口を実際に歩いてみると、この城が伊賀防衛の重要な拠点であったことがよく分かる。

第二次天正伊賀の乱では、圧倒的な兵力を誇る織田軍を前に、伊賀の城々は次々と落城していった。掛田城もまたその最前線に立たされた山城のひとつであった。しかし、静かな城跡に立つと、そこには単なる敗北の歴史だけではなく、郷土を守ろうとした伊賀衆の知恵と気概を感じることができる。

近鉄大阪線の駅から徒歩で訪ねることができ、遺構の保存状態も良好な掛田城跡は、伊賀の戦国史を身近に体感できる貴重な史跡である。伊賀路を訪れる機会があれば、ぜひ足を運び、土塁や空堀の向こうに広がる戦国時代の風景に思いを馳せていただきたい。

この静かな山城には、四百年以上の歳月を超えてなお、天正伊賀の乱の記憶が息づいている。


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