はじめに
南都七大寺【なんとしちだいじ】は、奈良時代に平城京(現在の奈良市)およびその周辺に存在し、朝廷の保護を受けた下記の7つの官寺を指す。
- 東大寺【とうだいじ】(華厳宗の総本山)
- 興福寺【こうふくじ】(法相宗の中心寺院)
- 元興寺【がんごうじ】(真言律宗の寺院)
- 大安寺【だいあんじ】(高野山真言宗の寺院)
- 西大寺【さいだいじ】(真言律宗の寺院)
- 薬師寺【やくしじ】(法相宗の寺院)
- 法隆寺【ほうりゅうじ】(聖徳宗の寺院)
これらの寺院は、仏教の発展と国家の安定に寄与するために特別な役割を果たした寺院と言われており、古都奈良の栄華の歴史と文化を象徴する重要な存在であると言えよう。
東大寺
東大寺【とうだいじ】は、奈良市にある華厳宗の大本山で、大仏殿の「奈良の大仏」で知られ、日本の仏教寺院の中でも特に有名な寺院である。
東大寺は、8世紀前半の奈良時代に聖武天皇によって盧舎那仏(奈良大仏)を祀るために国力を尽くして創建された寺院である。大仏殿(金堂)は、世界最大級の木造建築物であり、奈良時代から続く歴史的な建造物である。
東大寺には大仏殿や南大門、盧舎那仏など多くの国宝や重要文化財があり、1998年に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
東大寺で毎年3月に行われる「お水取り」(修二会)は、奈良の早春の風物詩として知られている。
詳しくは、古都奈良の栄華のシンボル南都七大寺の名刹・東大寺をご覧ください。
名 称 | 東大寺 |
所在地 | 奈良県奈良市雑司町406-1 |
TEL | 0742-22-5511 |
Link | 東大寺 (todaiji.or.jp) |
興福寺
興福寺【こうふくじ】は、奈良市にある法相宗の大本山で、南都七大寺の一つである。
興福寺は、藤原鎌足の夫人である鏡王女が夫の病気平癒を願って、669年に山階寺【やましなでら】として創建したのが始まりとされる。その後、藤原京に移転し、最終的に現在の奈良市に移されて「興福寺」となった。興福寺は藤原氏の氏寺として、古代から中世にかけて強大な勢力を誇ったと伝えられている。
興福寺には多くの国宝や重要文化財があり、特に五重塔や東金堂、南円堂が有名である。1998年に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
詳しくは、古都奈良の栄華のシンボル南都七大寺の名刹・興福寺をご覧ください。
名 称 | 興福寺 |
所在地 | 奈良県奈良市登大路町48 |
TEL | 0742-22-7755 |
Link | 法相宗大本山 興福寺 |
元興寺
元興寺【がんごうじ】は、奈良市にある寺院で、南都七大寺の一つである。
元興寺は、蘇我馬子が飛鳥に建立した日本最古の本格的仏教寺院である法興寺(飛鳥寺)が、平城京遷都に伴って現在の地に移転したものである。
奈良時代には東大寺や興福寺と並ぶ大寺院として栄えたが、中世以降は次第に衰退した。現在の元興寺は、極楽坊として知られ、智光曼荼羅を祀る堂がある。
元興寺には多くの国宝や重要文化財があり、特に本堂・禅室・五重小塔が有名である。1998年に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
詳しくは、古都奈良の栄華のシンボル南都七大寺の名刹・元興寺をご覧ください。
名 称 | 元興寺 |
所在地 | 奈良県奈良市中院町11 |
TEL | 0742-23-1377 |
Link | 元興寺 – 奈良の国宝・世界文化遺産 |
大安寺
大安寺【だいあんじ】は、奈良市にある高野山真言宗の寺院で、南都七大寺の一つである。
大安寺は、聖徳太子が熊凝精舎として創建したのが始まりで、舒明天皇の時代に官寺として整備されたという。奈良時代から平安時代前半にかけて、東大寺や興福寺と並ぶ大寺院として栄えた。
大安寺には多くの重要文化財があり、特に十一面観音像が有名である。現在は癌封じの寺としても知られており、多くの参拝者が訪れている。
詳しくは、古都奈良の栄華のシンボル南都七大寺の名刹・大安寺をご覧ください。
名 称 | 大安寺 |
所在地 | 奈良県奈良市大安寺2丁目18-1 |
TEL | 0742-61-6312 |
Link | 奈良県のお寺|大安寺 南都七大寺 |
西大寺
西大寺【さいだいじ】は、奈良市にある真言律宗の総本山の寺院で、南都七大寺の一つである。
西大寺は、奈良時代の765年に孝謙上皇(重祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された仏教寺院である。創建当時は薬師金堂、弥勒金堂、五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を誇ったという。
平安時代に一時衰退しましたが、鎌倉時代に叡尊(興正菩薩)によって復興された。
西大寺には多くの国宝や重要文化財があり、特に本堂や木造釈迦如来立像が有名である。
詳しくは、古都奈良の栄華のシンボル南都七大寺の名刹・西大寺をご覧ください。
名 称 | 西大寺 |
所在地 | 奈良県奈良市西大寺芝町1丁目1-5 |
TEL | 0742-45-4700 |
Link | 真言律宗総本山 西大寺 |
薬師寺
薬師寺【やくしじ】は、奈良市にある法相宗の大本山で、南都七大寺の一つである。
薬師寺は、680年に天武天皇の発願により、天武天皇の皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈願して建立されたとされている。
藤原京から平城京への遷都に伴い、8世紀初めの奈良時代に現在の奈良市西ノ京に移転したという。
薬師寺の伽藍配置は「薬師寺式伽藍配置」として知られ、中央に金堂、その手前に中門、背後に講堂を配し、金堂の手前東西に塔を置く配置である。1968年から始まった復興事業により、金堂や西塔、中門などが再建されている。
薬師寺には多くの国宝や重要文化財があり、特に東塔や金堂、薬師三尊像が有名である。1998年に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
詳しくは、古都奈良の栄華のシンボル南都七大寺の名刹・薬師寺をご覧ください。
名 称 | 薬師寺 |
所在地 | 奈良県奈良市西ノ京町457 |
TEL | 0742-33-6001 |
Link | 奈良薬師寺 公式サイト |
法隆寺
法隆寺【ほうりゅうじ】は、奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の総本山の寺院で、南都七大寺の一つである。
法隆寺は、607年に聖徳太子によって創建された仏教寺院で、日本最古の木造建築物群として知られている。670年に火災で焼失しているが、8世紀初めに再建されたという。
法隆寺は西院伽藍と東院伽藍に分かれており、西院伽藍には金堂と五重塔、東院伽藍には夢殿がある。
法隆寺には多くの国宝や重要文化財があり、特に金堂、五重塔、夢殿が有名である。1993年に「法隆寺地域の仏教建造物」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
詳しくは、古都奈良の栄華のシンボル南都七大寺の名刹・法隆寺をご覧ください。
名 称 | 法隆寺 |
所在地 | 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1 |
TEL | 0745-75-2555 |
駐車場 | あり(有料) |
Link | 聖徳宗総本山 法隆寺 |
あとがき
南都七大寺は、奈良時代に平城京およびその周辺に存在し、朝廷の保護を受けた下記の7つの官寺を指す。
- 東大寺(聖武天皇によって建立)
- 興福寺(藤原不比等によって建立)
- 元興寺(蘇我馬子によって建立)
- 大安寺(舒明天皇によって建立)
- 西大寺(孝謙上皇によって建立)
- 薬師寺(天武天皇によって建立)
- 法隆寺(聖徳太子によって建立)
これら7つの寺院の創建者は、いずれも天皇または時の最高権力者であることから、朝廷の保護を受けて発展したのは道理であるといえよう。
南都七大寺は、特に奈良時代の平城京において、朝廷の保護を受けて発展したという。これらの寺院は、仏教の教義の普及や学問の中心地として機能し、多くの僧侶が集まり、仏教の教えを学び、伝える場となったという。このことが日本の仏教の発展に大きく寄与したのは言うまでもない。
また、南都七大寺は学問や文化の中心地としても機能したという。多くの学者や文化人が集まり、仏教だけでなく、さまざまな学問や芸術が発展したと言われている。これらの役割を通じて、南都七大寺は日本の歴史と文化に大きな影響を与えたという。
南都七大寺は、「官寺」として朝廷から特別な待遇を受け、そのために政治的な影響力を持つことができたという。朝廷の政策や儀式、特に国家の安泰や繁栄を祈るための儀式が行われた。
また、南都七大寺へは多くの学者や僧侶が集まったことから、政治的な議論や政策の形成にも影響を与えたという。このようにして南都七大寺は朝廷の政策や儀式においても重要な役割を果たしており、政治と宗教が密接に結びついた時代が形成されていた。
ところで、平城京からの遷都にはいくつかの目的があるとされるが、南都七大寺を含む仏教勢力の影響を削ぐこともその一つであったらしい。平安京への遷都の目的としては下記のような理由が挙げられている。
- 仏教勢力の影響を排除
- 奈良時代末期には南都七大寺をはじめとする奈良の仏教勢力が政治に深く関与し、その結果、腐敗も進んでいた
- 桓武天皇はこれを排除し、新たな政治体制を築くために遷都を決断した
- 政治の刷新
- 平安京で、心機一転して政治を立て直すことを目指した
- 天皇の権威を強化し、安定した政治を実現しようとした
- 地理的な利便性
- 平安京は交通や防衛の面で地理的に有利な場所であった
- 平城京は水不足や衛生面での問題があった
- 平安京は水不足や衛生面の問題を解決するのに適した
南都七大寺は、平安京遷都以降の平安時代に入ってから徐々に衰退していった。その衰退の原因として、下記のような要因が指摘されている。
- 平安時代の火災
- 1017年の火災で主要な堂や塔を消失し、その後の再建も旧態に及ばず、かつての隆盛を回復できなかった。
- 平重衡の南都焼き討ち
- 平安末期の源平争乱で、平重衡による「南都焼き討ち」により、南都は文字通り焦土と化した
- 藤原氏の影響
- 藤原氏の庇護を受けた興福寺に支配されるようになり、他の寺院の勢力が弱まった
これらの要因が重なり、南都七大寺は次第に衰退していったと言われている。栄枯盛衰の歴史は、南都七大寺と言えども避けることはできなかったということだろう。