◆ はじめに
三重県伊賀市柘植町にたたずむ徳永寺は、徳川家康の「伊賀越え」ゆかりの寺として知られる浄土宗の古刹である。
天正10年(1582)、本能寺の変によって織田信長が倒れると、堺に滞在していた家康は命の危険にさらされた。伊賀衆の助けを得ながら険しい山道を越え、三河へと帰還した出来事が、後に「神君伊賀越え」として語り継がれることになる。
徳永寺には、その際に家康が立ち寄ったという寺伝が残されており、境内には今も葵紋の瓦や歴史ある文化財が大切に伝えられている。華やかな観光寺院ではないが、静かな佇まいの中に戦国動乱の記憶と地域の人々の信仰の歴史が息づいている。
今回は、家康ゆかりの地として知られる徳永寺を訪ね、その由緒と見どころをたどってみたい。
徳永寺の由緒
三重県伊賀市柘植町にある徳永寺(とくえいじ)は、浄土宗に属する古刹である。正式名称を平庸山無量寿院徳永寺といい、御本尊には阿弥陀如来を祀る。
徳永寺は、天正伊賀の乱(1579~1581年)で織田信長方に与した伊賀の豪族・福地氏の菩提寺として知られている。天正伊賀の乱では多くの寺院が兵火に遭ったが、福地氏ゆかりの徳永寺は焼失を免れたと伝えられている。
天正10年(1582)、本能寺の変によって織田信長が倒れると、堺に滞在していた徳川家康は三河への帰還を目指し、伊賀の山中を越えて難を逃れた。いわゆる「神君伊賀越え」である。寺伝によれば、このとき家康は福地氏をはじめとする伊賀衆の護衛を受けて徳永寺に立ち寄り、一夜を過ごしたとされる。
その際の厚遇と警護への感謝から、家康は徳永寺に田畑や山林を寄進し、さらに徳川家の象徴である葵紋の使用を許したという。現在も本堂の瓦には葵紋が用いられ、そのゆかりを今に伝えている。
その後、伊賀を治めた藤堂高虎からも厚い保護を受け、米二石と茶二貫二百匁を永代寄進する旨の書状が与えられた。こうした庇護は歴代藩主によって受け継がれ、現存する十通の寄進状は当時の歴史を伝える貴重な資料となっている。
なお、「神君伊賀越え」の通過ルートについては諸説あるものの、家康が徳永寺周辺を通過したことはほぼ共通して語られている。ただし、徳永寺での宿泊については寺伝に基づくものであり、詳細な史実についてはなお検討の余地がある。
静かな境内に立つと、天下分け目の危機を乗り越えた家康と、それを支えた伊賀衆の息遣いが今も聞こえてくるようである。
| 名 称 | 平庸山 無量寿院 徳永寺 |
| 所在地 | 三重県伊賀市柘植町2318 |
| TEL | 0595-45-2250 |
| アクセス | 名阪国道「上柘植IC」または「伊賀IC」から約5分 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 徳永寺 徳永寺 | 観光三重 |
徳永寺の境内を歩く
徳永寺の境内には、徳川家康の「伊賀越え」にまつわる遺構や、伊賀市指定文化財に指定された歴史的価値の高い文化財が点在している。静かな境内を歩けば、戦国から江戸へと続く長い歴史の息吹を感じることができる。
● 本堂の葵紋瓦
徳永寺を訪れてまず目を引くのが、本堂の屋根に見られる三つ葉葵の紋瓦である。
寺伝によれば、徳川家康が伊賀越えの際に受けた厚遇への感謝として、徳川家の象徴である葵紋の使用を許したと伝えられている。現在も本堂の瓦にその紋が用いられており、徳永寺が「神君伊賀越え」ゆかりの寺であることを今に伝えている。
境内には実際に使用されていた葵紋瓦の見本も展示されており、特徴的な紋様を間近で見ることができる。
● 梵鐘と鐘楼堂(伊賀市指定文化財)
徳永寺の鐘楼と梵鐘は、伊賀市指定文化財に指定されている。梵鐘は享保3年(1718)に鋳造されたもので、鐘銘から鋳物師が近江国八日市の堤理左衛門家次であることが分かっている。
この梵鐘は、もともと穴石神社の別当寺であった石照院に伝わったもので、昭和23年(1948年)に徳永寺へ移された。また鐘楼も梵鐘と同じ享保3年の建立と伝えられている。
● 石造宝篋印塔(伊賀市指定文化財)
境内には、南北朝時代後期の作と伝えられる石造宝篋印塔が残されている。
相輪の一部に欠損が見られるものの、当時の石造美術の特色を今に伝える貴重な文化財であり、長い歳月を経た風格が感じられる。
● 閻魔堂(十王堂)
境内の一角には、江戸時代中期に建立されたと伝わる閻魔堂(十王堂)がある。
堂内には閻魔大王をはじめ十王信仰に関わる諸尊が祀られ、古くから地域の人々の信仰を集めてきた。その奥には、西国三十三所観音霊場を模した観音堂や水子地蔵も並び、静かな祈りの空間となっている。
● 善光寺堂
境内には善光寺信仰にちなむ善光寺堂もある。
堂内には善光寺如来を祀り、春と秋の彼岸には法要が営まれる。全国的に広がった善光寺信仰が、伊賀の地にも根付いていたことをうかがわせる建物である。
● 山号額「平庸山」
本堂には、徳永寺の山号である「平庸山」を記した格調高い額が掲げられている。
この額は、徳永寺出身で京都・知恩院第66世住職となった察誉貞瑞大僧正の揮毫によるものと伝えられる。故郷の寺に寄せた深い思いを伝える文化遺産として見逃せない。
境内は決して広くはないが、徳川家康の伊賀越えを伝える葵紋瓦をはじめ、梵鐘や宝篋印塔など歴史的価値の高い文化財が数多く残されている。徳永寺は単なる古寺ではなく、戦国動乱の記憶と地域の信仰の歴史を今に語り継ぐ、伊賀を代表する歴史寺院の一つといえるだろう。
静かな境内には、家康の危難を支えた伊賀衆の記憶と、地域の人々に守られてきた信仰の歴史が今も息づいている。
◆ あとがき
徳永寺は、豪壮な伽藍や著名な国宝を持つ寺院ではない。しかし、その静かな境内には、天下人となる前の徳川家康が危機を乗り越えた「伊賀越え」の記憶と、それを支えた伊賀の人々の歴史が今も刻まれている。
本堂の葵紋瓦、古鐘の響きを伝える鐘楼、そして南北朝時代の宝篋印塔。そこに残る一つひとつの文化財は、戦国の動乱から江戸時代、そして現代へと受け継がれてきた長い歳月を静かに物語っている。
伊賀を旅する際には、忍者や城跡だけでなく、この徳永寺にもぜひ足を運んでみたい。境内をゆっくり歩いていると、家康を守り導いた伊賀衆の姿や、地域の人々が守り続けてきた信仰の歴史に思いを馳せることができるだろう。
歴史とは、教科書の中だけにあるものではない。こうした古刹を訪ねることで、私たちは四百年以上前の人々の息遣いを身近に感じることができるのである。
静かな境内に立つと、家康の危難を支えた伊賀衆の足音が、時を超えて聞こえてくるような気がした。