| <目次> はじめに 南アルプス国立公園の魅力 稜線を歩く 広河原から北岳へ 白根三山縦走 峠の風景 夜叉神峠 北沢峠 鳳凰三山 仙丈ヶ岳 甲斐駒ヶ岳 湯けむりの癒し 奈良田温泉 芦安温泉 桃の木温泉 金山沢温泉 歩き方のポイント 南アルプスの主な山岳一覧 あとがき |
◆ はじめに
日本アルプスは、中部地方に連なる三つの山脈──飛騨山脈・木曽山脈・赤石山脈──の総称である。それぞれが、北アルプス・中央アルプス・南アルプスと呼ばれ、古くから多くの登山者に親しまれてきた。
南アルプス国立公園は、山梨・長野・静岡の三県にまたがる赤石山脈(南アルプス)を中心とした国立公園である。標高3000m級の山々が南北に連なる、日本屈指の雄大な山岳地帯であり、最高峰は北岳(3192m)。富士山に次ぐ日本第二位の高峰として知られている。
南アルプスの山々は、北アルプスとは山容も雰囲気も大きく異なる。北アルプスのような岩稜の連続ではなく、樹林帯をひたすら登り続ける静かな山歩きが中心となるのが特徴だ。岩場が少ないため高山植物の群落が多く、種類も豊富で、夏にはお花畑が広がる。さらに、南アルプスは富士山に近く、天候に恵まれれば富士山を望む絶景ポイントが随所にある。
唯一の難点は、北アルプスに比べて交通アクセスが良いとは言えないことだろう。しかし、その「不便さ」が静けさを守っているとも言える。北アルプスのように混雑することは少なく、山と向き合う時間をゆっくり楽しみたい者にとっては、むしろありがたい環境である。
わざわざ南アルプスへ足を運ぶ人は、きっと山そのものを愛する人なのだろう──私はいつもそう思っている。
南アルプスの山々には、静けさの中に人を包み込むような優しさがある。歩くほどに、山と自分の距離がゆっくり縮まっていく──そんな時間を求めて、私はまたこの山域を訪れたくなる。

南アルプス国立公園は、標高3000m級の山々が南北に連なる、日本でも屈指の静かな山岳地帯である。北アルプスのような華やかさや賑わいはないが、その分、山と向き合う時間がゆっくり流れ、歩くほどに心が澄んでいく。本稿では、稜線の風景をたどり、峠の静けさに身を置き、山深い温泉で湯けむりに癒される──そんな「大人の山旅」を紹介したい。
南アルプス国立公園の魅力
──天空の静寂が広がる場所
南アルプスは、飛騨・木曽・赤石の三山脈からなる日本アルプスの中でも、もっとも山深く、もっとも静けさが守られている山域だ。北岳・間ノ岳・農鳥岳の白根三山をはじめ、仙丈ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山など、気品ある山々が連なる。
南アルプスは、北アルプスのような岩稜の連続ではなく、樹林帯をゆっくり登り、やがて広い稜線へと出る構造が多い。山の懐に抱かれるような安心感があり、歩くリズムが自然と整っていく。
樹林帯の長い登り、広い稜線、富士山を望む展望──そのどれもが、南アルプスならではの魅力である。高山植物の種類も豊富で、初夏にはハクサンイチゲやチングルマが咲き乱れ、北岳固有のキタダケソウがひっそりと姿を見せる。
さらに、南アルプスは富士山に近く、稜線に立てば富士の姿が大きく、そして美しく見える。天候に恵まれた日の展望は、まさに「天空の静寂」と呼ぶにふさわしい。
南アルプスの魅力は、雄大な山容だけではない。歩くほどに感じる「静けさ」と「気品」、そして高山植物の豊かさ──それらが重なり合い、独特の山旅の世界をつくり出している。
そして、山旅の締めくくりには、山里にひっそりと湧く秘湯が待っている。歩く時間と湯けむりの時間が、静かに心を整えてくれる旅となるだろう。
稜線を歩く
──白根三山の風景と峠の物語
南アルプスの稜線歩きは、静けさと雄大さが同居する贅沢な時間だ。白根三山の稜線はその象徴であり、歩くほどに山々の気品が際立ってくる。
広河原から北岳へ
広河原から北岳【きただけ】へ向かう道は、樹林帯の中を静かに登る。高山植物の群落が多く、季節ごとに表情が変わる。北岳肩の小屋付近まで登ると、富士山が大きく姿を現し、南アルプスならではの展望が広がる。

北岳(標高3,193m)は、南アルプス北部(山梨県南アルプス市)に位置する日本第2位の高峰である。火山でない山としては日本最高峰である。頂上付近にしか生息していない高山植物の固有種「キタダケソウ」も登山者の間では有名である。

東側斜面には「北岳バットレス」と呼ばれる岩壁があり、ロッククライミングの対象である。

北岳は「南アルプスの盟主」とも呼ばれる名峰であり、間ノ岳と農鳥岳とともに「白根三山」と呼ばれる。

北岳から中白根山を経て間ノ岳に至る約3km余りの稜線は標高3,000m超のため「天上の散歩道」とも呼ばれる人気の高い縦走路である。高山植物の豊富な山域でもある。

夜叉神峠から展望する雪をまとった白根三山の姿は圧巻の素晴らしさである。私が北岳が大好きになったきっかけでもある。
白根三山縦走
──北岳〜間ノ岳〜農鳥岳
白根三山の稜線は、南アルプスの「大きな山体」を実感できる場所だ。間ノ岳【あいのだけ】の広い山頂からは360度の展望が広がり、農鳥岳【のうとりだけ】から眺める北岳は、深田久弥が「清秀な高士」と表現した気品そのもの。歩くほどに山々の静けさが心に染みてくる。

間ノ岳(標高3,190m)は、山梨県と静岡県にまたがる日本第3位の高峰である。北アルプスの最高峰・奥穂高岳に並ぶ標高であり、南アルプスでは北岳に次ぐ標高を誇る。山頂の東側には細沢カールがある。間ノ岳は、北岳と農鳥岳とともに白根三山と呼ばれるが、北岳(北側)と農鳥岳(南側)の真ん中に位置するため「間ノ岳」と名付けられたという。

農鳥岳(標高3,026m)は、山梨県と静岡県にまたがる山である。山頂は東西に分かれ、南東側は農鳥岳(本峰)と呼ばれ、北西側は西農鳥岳(標高3,051m)と呼ばれる。標高は西農鳥岳の方が高いが、三角点があるのは農鳥岳の方である。山名の由来は、春に山頂東面に白鳥の形の残雪(雪形)が現れることかららしい。
峠の風景
──南アルプスの静けさを象徴する場所
南アルプスには、稜線だけでなく、峠にも独特の魅力がある。峠は山と山をつなぐ「静けさの通り道」であり、名峰を眺める「展望台」なることが多く、旅の記憶に深く残る場所だ。
夜叉神峠
夜叉神峠【やしゃじんとうげ】(標高1,770m)は、鳳凰三山の南端に位置に位置する、南アルプス前衛の山にある峠である。南アルプスの入口として知られる夜叉神峠は、白根三山を一望できる絶好の展望地だ。残雪を抱いた北岳の姿は、初めてこの山域を訪れた者の心に深く刻まれる。朝の光に浮かぶ山々は、静けさの中に凛とした気配を宿している。

夜叉神峠は、鳳凰三山への登山口であることに加え、白根三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳の総称)の展望台として知られる。

私も大学1年の春に「新歓山行」(新入生歓迎登山)と称する初めての登山で夜叉神峠に行ったことがある。そしてその年の夏合宿で南アルプス縦走で、白根三山にも登山をした経験がある。夜叉神峠から見上げた残雪の白根三山は本当に綺麗であった。登ってみたいと心から思った記憶が蘇ってくる。
| 名 称 | 夜叉神峠 |
| 所在地 | 山梨県南アルプス市 |
| 駐車場 | あり(有料) |
| Link | 夜叉神峠 | 南アルプス市 |
北沢峠
北沢峠【きたざわとうげ】(標高2,032m)は、山梨県南アルプス市と長野県伊那市との境界にある峠である。甲斐駒ヶ岳や仙丈ヶ岳などへの登山拠点となっている。
私は、大学1年のときワンゲル部の夏合宿で南アルプス北部縦走のために北沢峠から仙丈ヶ岳に登った経験がある。
| 名 称 | 北沢峠 |
| 所在地 | 山梨県南アルプス市、 長野県伊那市 |
| 駐車場 | あり(有料) |
| Link | 南アルプス林道バス:伊那市 南アルプス北沢峠へ |
鳳凰三山
──薬師岳・観音岳・地蔵岳
鳳凰山【ほうおうざん】(標高2,841m)は南アルプス北東部(山梨県)に位置する、3つの山(地蔵ヶ岳・観音ヶ岳・薬師ヶ岳)の総称である。鳳凰三山とも呼ばれる。
地蔵ヶ岳と赤抜沢ノ頭との鞍部には「賽ノ河原」と呼ばれる、多くの石地蔵が安置されている。鳳凰山は南アルプスの主稜線上からは離れているので、甲斐駒ヶ岳や白峰三山の眺望が良い。
| 山名 | 備考 |
|---|---|
| 地蔵ヶ岳(2,764m) | 山頂にオベリスクあり |
| 観音ヶ岳(2,841m) | 鳳凰山の最高点 |
| 薬師ヶ岳(2,780m) | 南峰と北峰の双耳峰、 標高は北峰の方が高い |
白砂の稜線とオベリスクの迫力が印象的な鳳凰三山は、富士山の展望が美しく、シニアでも歩きやすい静かな縦走路が続く。南アルプスの中でも、特に「気品ある山旅」を楽しめる山域だ。
仙丈ヶ岳
仙丈ヶ岳【せんじょうがたけ】(標高3,033m)は、南アルプスに位置する、長野県伊那市と山梨県南アルプス市にまたがる山である。北東側に小仙丈岳、南西側に大仙丈岳の小ピークを従え、大仙丈岳の南側には、塩見岳に至る長大な仙塩尾根が連なる。
仙丈ヶ岳はカール地形が美しく、穏やかな山容が魅力の山である。南アルプスの象徴的な名峰であり、稜線に吹く風がやわらかい。

東側に小仙丈沢カール、北側に藪沢カール、南東側に大仙丈沢カールと三つのカール(圏谷)があるほか、高山植物が豊富な山として知られている。
仙丈ヶ岳は雄大な山で、登山口にあたる北沢峠から登り始めたが頂上が非常に遠くに感じた想い出がある。その雄大さは、主峰の北岳に勝るとも劣らないイメージとして私の脳裏に残る。
甲斐駒ヶ岳
甲斐駒ヶ岳【かいこまがたけ】(標高2,967m)は、南アルプス北端に位置する、山梨県北杜市と長野県伊那市にまたがる山である。白い花崗岩が輝き、どこか神々しさを感じさせる。

独立峰のような峻険な山容をもつ南アルプス屈指の名峰である。日本各地には「駒ヶ岳」の名を冠する山が18あるが、甲斐駒ヶ岳が最高峰である。

アサヨ峰【アサヨみね】(標高2,799m)は、南アルプス稜線上の甲斐駒ヶ岳と鳳凰山とを結ぶ早川尾根上にある山である。山名の由来は、「朝早くから日が当たる山」という意味であると言われている。
湯けむりの癒し
──南アルプスの秘湯を訪ねて
山旅の締めくくりには、湯けむりの時間がふさわしい。南アルプスの山里には、湯治場として長く親しまれてきた温泉や静かに湧く秘湯が点在する。湯けむりと山の香りが混じる時間は、歩き疲れた身体と心をそっと包み込んでくれ、歩く旅の疲れをゆっくりとほどいてくれる。
● 奈良田温泉
南アルプスの玄関口にある奈良田温泉は、とろりとした湯質で知られる名湯だ。山深い集落にひっそりと佇み、白根三山縦走後の「ご褒美の湯」として多くの登山者に愛されている。
山梨県早川町の最奥部に位置し、かつて孝謙天皇が療養した伝説も残る秘境の温泉である。東日本一の泉質とも称される、まるで化粧水のようなぬるぬるとした極上の「美肌の湯」が特徴で、日帰り入浴で気軽に楽しむことができる。
| 名 称 | 奈良田温泉 |
| 所在地 | 奈良田温泉 白根館 山梨県南巨摩郡早川町奈良田1026-1 奈良田の里温泉 女帝の湯 山梨県南巨摩郡早川町奈良田1029-1 |
| Link | 奈良田温泉白根館【公式HP】 【公式】奈良田温泉女帝の湯 |
● 芦安温泉
芦安温泉【あしやすおんせん】は、夜叉神峠への登山口に向かう途中にある温泉地で、宿泊施設は10軒ほどで温泉街を作る。登山帰りに立ち寄るのに最適だ。落ち着いた湯処で、山の余韻を静かに味わうことができる。泉質は、ナトリウム・カルシウム-硫酸塩泉で、源泉の温度は25〜43℃である。
| 名 称 | 芦安温泉 |
| 所在地 | 南アルプス市芦安芦倉 |
| Link | 芦安温泉郷 | 南アルプス市 |
● 桃の木温泉
桃の木温泉【もものきおんせん】は、山間の一軒宿として、登山者は勿論、ペット愛好家にも愛されている。日本秘湯を守る会会員の宿である。秘湯とは言え、自噴温泉で湯量が豊富なため源泉かけ流しの湯が提供されている。泉質は、アルカリ性単純泉である。四季折々の山の表情と眺めながら温泉に浸かる醍醐味は格別であると言わざるを得ない。
| 名 称 | 桃の木温泉 |
| 所在地 | 南アルプス市芦安芦倉1672 |
| Link | 桃の木温泉 さんわそう |
● 金山沢温泉
金山沢温泉【かなやまさわおんせん】は、南アルプスへの玄関口に設置された共同入浴施設である。内風呂と露天風呂が備えられており、登山帰りの登山者をはじめ、家族連れ観光客にも人気が高いという。子ども向けの遊具やバーキュー施設も充実しているからであろう。
| 名 称 | 金山沢温泉 |
| 所在地 | 南アルプス市芦安芦倉1525 |
| Link | 金山沢温泉 – 南アルプス市 |
歩き方のポイント
──シニア世代の登山者にも安心のガイド
南アルプスは静かな山域だが、山深い分だけ慎重な歩き方が求められる。ここでは、私たちシニア世代の登山者にも安心して歩けるポイントをまとめた。
【南アルプスの歩き方】
- 樹林帯の長い登りでは、一定のペースを保つことが大切
- 稜線では風が強いことが多く、防風対策が必要
- 高山植物の見頃は6月下旬〜7月上旬
- 交通アクセスが限られるため、余裕ある旅程を組む
- 温泉と組み合わせることで、無理のない山旅が可能
南アルプスの主な山岳一覧
南アルプス(赤石山脈)には標高が3,000mを超える山が9座もあり、その数は北アルプスをも上回る。北アルプスに比較すると交通が不便な分、北アルプスのように混雑することもほとんどない。
山好きには山を独り占めにできる魅力的な場所であり、この大自然を後世にも残していきたいと願っている。
| 山岳名 | 標高(m) |
|---|---|
| 鋸岳 | 2,685 |
| 甲斐駒ヶ岳 | 2,966 |
| アサヨ峰 | 2,799 |
| 鳳凰山 | 2,840 |
| 仙丈ヶ岳 | 3,033 |
| 北岳 | 3,193 |
| 間ノ岳 | 3,189 |
| 農鳥岳 | 3,025 |
| 西農鳥岳 | 3,051 |
| 広河内岳 | 2,895 |
| 塩見岳 | 3,047 |
| 毛無山 | 1,945 |
| 荒川岳 | 3,141 |
| 赤石岳 | 3,121 |
| 兎岳 | 2,738 |
| 聖岳 | 3,013 |
| 上河内岳 | 2,803 |
| 光岳 | 2,592 |
鋸岳【のこぎりだけ】(標高2,685m)は赤石山脈(南アルプス)の北端に位置する山で、その名のごとく鋸状の急峻な山容をしている。鋸岳の南東には甲斐駒ヶ岳が隣接している。
塩見岳【しおみだけ】(標高3,052m)は、南アルプス中央部に位置する、長野県伊那市と静岡県静岡市にまたがる山である。山頂は東峰(3,052m)と西峰(3,047m)に分かれ、東峰の方が高いが、三角点は西峰に設置されている。仙丈ヶ岳から続く長大な仙塩尾根の南端に位置し、鉄兜にも似たドーム形の独特な姿で、一見すると独立峰のような山容を誇る。山名の由来は、山頂から駿河湾(潮)が見えるからという説や、山麓に塩の産地があるからという説、あるいは製塩作業の煙が山頂から見えたことに由来するという説などがあり、定かでない。

荒川岳【あらかわだけ】(標高3,141m)は、南アルプス中央部に位置する3つの山(前岳・中岳・悪沢岳)の総称である。別名、荒川三山とも呼ばれる。「荒川三山」と呼ぶ場合はそれぞれの山は次のような山名で呼ばれる。
- 前岳(荒川前岳) 標高3,068m
- 中岳(荒川中岳) 標高3,084m
- 悪沢岳(荒川東岳)標高3,141m (最高峰)
荒川岳一帯には氷河によって削られた地形であるカール(圏谷)が数多く見られる。カールの中腹や底は、いずれも大規模な高山植物のお花畑となっており、特に中岳、前岳から荒川小屋に下る斜面では大規模のお花畑の中を登山道が通っているため登山を楽しむことができる。
赤石岳【あかいしだけ】(標高3,121m)は、長野県と静岡県にまたがる山で、山頂には一等三角点が設置されている。稜線の東側斜面にはいくつかのカール(圏谷)が見られる。一方、南斜面は大井川支流の赤石沢の源流になっている。
兎岳【うさぎだけ】(標高2,818m)は、飯田市と静岡市にまたがる山である。兎岳の東南東の稜線上(尾根)には聖岳がある。
聖岳【ひじりだけ】(標高3,013m)も静岡市と飯田市にまたがる山である。南アルプスの中で標高3,000 m超の山としては最南端に位置する。
上河内岳【かみこうちだけ】(標高2,803m)も静岡市と飯田市にまたがる山である。
光岳【てかりだけ】(標高2,592m)は、南アルプス最南部に位置する山である。山名の由来は、静岡県西部から遠望した時に山頂の南西直下に夕日に照らされて白く光って見える光岩【てかりいわ】と呼ばれる石灰岩の岩峰があることだと言われている。
◆ あとがき
日本で一番好きな山はどれかと尋ねられれば、私は迷わず「北岳」と答えたい。 富士山に次ぐ標高 3,193m を誇る南アルプスの主峰──北岳。高村薫の傑作『マークスの山』(早川書房、1993年)にも登場する名峰である。
穂高岳や槍ヶ岳のように、登山者の人気ランキングで常に上位に入る山々ももちろん好きだ。しかし、私にとっては、なぜか北岳がいつも特別な位置を占めてしまう。
その理由を改めて考えてみると、まず私は高山植物が好きである。北岳固有の高山植物・キタダケソウは、山頂部にのみ咲く希少種で、直径2cmほどの白い花をつける。開花期は6月下旬前後と早く、夏山シーズンの7〜8月にはもう姿を消してしまう。 恥ずかしい話だが、私はかつてチングルマをキタダケソウと勘違いし、その悔しさから「本物を見るためだけ」に再び登頂したことがある。


さらに北岳には、かつてクライマーたちの練習場であった北壁「バットレス」があり、どこかヨーロッパアルプスの名峰・アイガー北壁を思わせる雰囲気がある。
しかし、私を惹きつけていたのは、キタダケソウやバットレスだけではない。 大学のワンダーフォーゲル部に入部して初めての山行で、夜叉神峠から眺めた残雪の白根三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳)は、今も鮮烈な記憶として残っている。 その年の夏合宿で南アルプス主稜線を縦走した経験も大きい。確かに初めての夏合宿はきつかった。しかし、今ではその苦しささえ、懐かしい良き思い出となっている。
人に理由を尋ねられれば、私はこれらの話をしてきた。嘘ではない。しかし、どこか「本当の理由は別にあるのではないか」という釈然としない思いが、ずっと心の底に残っていた。
学生時代はもちろん、社会人になってからも北岳には何度も登った。それほど好きなのに、なぜ好きなのかを自分でもうまく説明できないままに。
──そして、ある日ふと、『日本百名山』(深田久弥著)の北岳の章(第80章、P.174–175)を読み返した。 おそらく40年以上ぶりだっただろう。 わずか2ページの短い文章の中に、私は忘れていた一節を再発見したのである。
深田は北岳をこう描いている。
「この山が謙虚だからである。どうだおれは、といったような、抜きん出て人の眼を引こうとするところがない。それでいて高い気品をそなえている。いつも前山のうしろに、つつましく、しかし凛とした気概をもって立っている。奥ゆかしい山である。」
そして続けて、北岳の姿をこう讃える。
「清秀な高士のおもかげがある。飄爽として軽薄でなく、ピラミッドでありながら俗っぽくない。惚れ惚れするくらい高等な美しさである。」
さらに、北岳の大きな山体についても触れている。
「これほどドッシリした土台を踏まえた峰は稀である。」
この文章を読み返したとき、私は思わず苦笑した。 青年期の私は、深田久弥の言葉に知らず知らずのうちに心を掴まれ、そのまま北岳という山の「気品」に魅了され続けてきたのだろう。
北岳が好きな理由── それは、キタダケソウでも、バットレスでも、初めて見た白根三山の残雪でもない。 もっと根源的なところで、深田久弥の描いた「北岳の気品」に、私は長い年月をかけて共鳴し続けてきたのだ。
今になってようやく、そのことを静かに思い出したのである。
山は、若い頃に見た姿と、歳を重ねてから見える姿が、少しずつ違ってくる。北岳は、いつ訪れても変わらずそこに立ち、しかし私の方だけが静かに変わっていく──そのことが、今はとても愛おしい。
【参考資料】
| ヤマケイアルペンガイド 南アルプス(山と渓谷社、2020.06.17発行) |
| 南アルプス(山と渓谷社、2009.06.27発行) |