◆ はじめに
滋賀県甲賀市の郊外に佇む田村神社は、征夷大将軍として知られる坂上田村麻呂【さかのうえ の たむらまろ】を祀る古社である。 厄除の神として古くから地域の人々に親しまれ、 静かな境内には長い年月を経た祈りの気配がそっと漂っている。鳥居をくぐると、山里の風が頬を撫で、 木々のざわめきが耳に届く。華美な装飾はないが、その素朴さこそが田村神社の魅力であり、訪れる者の心をゆっくりと整えてくれる。
本稿では、田村神社を歩きながら出会った 坂上田村麻呂の伝承、厄除の信仰、 そして山里の静けさを綴りたいと思う。

田村神社の由緒と歴史
坂上田村麻呂は、平安時代初期の公卿であり、武官としても名高い人物である。彼の主な功績としては、征夷代将軍として蝦夷征討に大きな功績を残したことと、平城天皇と嵯峨天皇の間で起こった政変「薬子の変」において嵯峨天皇側に立ち、政変を鎮圧したことが挙げられる。
このように、坂上田村麻呂は武勇に優れ、毘沙門天の生まれ変わりと噂されるほどの人物であったとされる。そんな坂上田村麻呂を主祭神として祀るのが、田村神社である。田村神社は、滋賀県甲賀市土山町に鎮座し、「厄除けの神」として広く信仰されている。
創建については、西暦410年4月8日、甲可翁が天照大御神を奉じて甲可日雲宮に鎮祀した倭姫命の生霊を鎮祭して高座大明神と称したのが田村神社の始まりであるとされる。

平安時代、坂上田村麻呂は嵯峨天皇に鈴鹿峠の悪鬼を平定するよう命じられ、たちまち悪鬼を平定した。その際、坂上田村麻呂は残っていた矢を放って「この矢の功徳で万民の災いを防ごう。矢の落ちたところに自分を祀りなさい」と言い、矢の落ちたところに本殿を建てさせたと伝えられている。
坂上田村麻呂が亡くなった811年の翌年(812年)に、嵯峨天皇の勅によって坂上田村麻呂を祀る祭壇が鈴鹿峠の二子の峰に設けたという。そして同年、この近辺で疫病が発生したため嵯峨天皇の勅命により当社で厄除の大祈祷が行われたという。
このことが当社が「厄除の神」として崇敬されるようになったきっかけである。また、坂上田村麻呂が鈴鹿峠の悪鬼を討伐して交通を安全にしたことから、「交通安全の神」としても崇敬されるようになったとされる。
822年4月8日に、二子の峰にあった坂上田村麻呂を祀る社を高座大明神の傍に移して高座田村大明神と称したとされる。
明治5年(1872年)に高座神社と名称を改め、さらに15年後の明治20年(1887年)4月6日に田村神社と改称したという。

境内の風景
──社殿・石段・木々が語る静けさ
境内には、長い年月を経た木々が立ち並び、 その木肌には風雨が刻んだ痕跡が残っている。 石段を上ると、 社殿が静かに佇んでいる。社殿は素朴でありながら凛としており、 田村神社の歴史を静かに伝えている。 木々のざわめき、鳥の声、 山里の風── それらが重なり合い、 境内には穏やかな時間が流れている。
田村神社の拝殿は、華美な装飾はないが、木の質感がそのまま残されており、 長い年月を経た信仰の重みが静かに漂っている。拝殿の前に立つと、 木々のざわめきと山風がそっと耳に届き、 自然と背筋が伸びるような感覚が生まれる。 地域の人々が厄除や家内安全を願い、 静かに手を合わせてきた祈りの時間が、この空間に息づいている。

本殿に向かう参道の途中に架かる「厄落とし太鼓橋」は、 田村神社を象徴する独特の存在である。 緩やかな弧を描くアーチ橋で、 参拝者はこの橋を渡ることで「厄を落とし、清らかな心で本殿へ向かう」とされている。
橋の下を流れる水は澄んでおり、 山里の静けさと相まって、 心をそっと整えてくれるような気配がある。 太鼓橋を渡る一歩一歩が、 日々の不安や重荷を静かに手放す儀式のように感じられる。
田村神社を訪れる人々にとって、 この太鼓橋は「心の区切り」を与えてくれる大切な存在である。

太鼓橋を渡った参道の奥、石段を登った先に鎮座する本殿には、 征夷大将軍・坂上田村麻呂が祀られている。 武勇に優れ、蝦夷征討を成し遂げた田村麻呂は、 古くから「厄除の神」「武運の神」として信仰されてきた。本殿は素朴でありながら凛とした佇まいを見せ、 木肌には長い年月の風雨が刻んだ痕跡が残っている。 その静けさは、田村麻呂の力強さと、 地域の人々が寄せてきた祈りの深さを静かに物語っている。
本殿の前に立つと、 山里の風と木々のざわめきが重なり、 自然と心が整っていく。 田村神社が「厄除の古社」として大切に守られてきた理由が、 この本殿の佇まいからそっと伝わってくる。

田村神社において毎年2月17日~19日の3日間に執り行われる厄除大祭は特に有名である。かつてはこの厄除大祭の初日には必ず大雪が降ることが地元では当たり前のように信じられていた。
私も甲賀に住んでいた頃に経験がある。スタットレスタイヤが普及していない頃で、通勤のために朝食後にタイヤチェーンを装着するのが億劫だったことを想い出す。暖冬が続く現在ではどうなのだろうか。
| 名 称 | 田村神社 |
| 所在地 | 滋賀県甲賀市土山町北土山469 |
| 駐車場 | あり(無料) |
| Link | 開運厄除・交通安全 田村神社 |
坂上田村麻呂の信仰と伝承
坂上田村麻呂は、弘仁2年(811年)に54歳で亡くなったと伝えられている。彼の死後、嵯峨天皇の勅命により、平安京の守護神として祀られたという。それほどに嵯峨天皇の信頼が厚く、功績も大きかったのであろう。
坂上田村麻呂の功績は、日本の歴史において重要な位置を占めている。私と同年代の者で、坂上田村麻呂の名前を憶えていない者は少ないのではなかろうか。

坂上田村麻呂は、身長が約176cmと当時としては非常に背が高く、立派な体格を持っていたとされる。そして、彼は武勇に優れ、毘沙門天の生まれ変わりと噂されるほどの人物であったと伝えられている。
その武勇と天皇への忠誠心から坂上田村麻呂には多くの伝説が残されている。代表的な伝説には下記のようなものがある。
◆ 鬼退治の伝説
坂上田村麻呂は、征夷大将軍に任命され、蝦夷討伐のために東北地方に派遣された。彼は多くの鬼神を討伐したとされ、その中でも特に有名なのが大多鬼丸【おおたおにまる】の討伐である。大多鬼丸は大滝根山を本拠としていた賊の首領であり、坂上田村麻呂は彼を討つために戦い、多くの伝説が生まれたという。
◆ 鈴鹿御前との伝説
坂上田村麻呂は、鈴鹿山に住む美しい女性であった鈴鹿御前と出会い、彼女の助けを借りて悪路王【あくろおう】や赤頭【あかがしら】といった妖怪を討伐したとされている。鈴鹿御前は、坂上田村麻呂の妻となり、共に戦ったとされる伝説も残されている。
他にも、京都の清水寺の創建にも坂上田村麻呂が関わっているとする伝説や、各地で温泉を発見したり、休息した石や矢をかけた松など、様々な場所に彼の伝説が残されている。
これらの伝説は、田村麻呂の武勇と信仰心を象徴するものとして語り継がれている。彼の伝説は、日本各地に広がり、彼の功績とともに多くの人々に親しまれてきたという長い歴史がある。しかしながら、現代の日本人、特に若者たちの間で坂上田村麻呂の名を知っている人はどの程度いるのだろうか。

◆ あとがき
田村神社は、 坂上田村麻呂を祀る厄除の古社として、 長い年月を地域の人々と共に歩んできた。山里の静けさの中で、 武神としての凛とした気配にふれ、 祈りの時間を過ごすことは、 心をゆっくりと整えてくれるものだった。また季節を変えて、 この静かな古社を歩きたくなる── そんな余韻を残す旅となった。