はじめに
龍安寺【りょうあんじ】は、京都市右京区にある臨済宗妙心寺派の寺院で、美しい石庭で有名である。
龍安寺は、室町時代の1450年に細川勝元によって創建された寺院である。元々この地には平安時代に建立された円融寺があったが、円融寺は徐々に衰退し、細川勝元がその地を譲り受けて龍安寺を建立したという。
1467年に始まった「応仁の乱」の際、龍安寺は焼失したが、1488年に細川勝元の子である細川政元によって再建された。その後、織田信長や豊臣秀吉などの支援を受けて寺領が拡大したという。

江戸時代には、龍安寺の石庭が特に有名になり、現在も多くの観光客が訪れる名所となっている。龍安寺の石庭は、枯山水の庭園として知られ、白砂と石を使って水の流れや山の風景を表現している。15個の石が配置されているが、どの角度から見ても必ず1つの石が見えないように設計されているのは不思議である。
1994年にはユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の一部として登録されている。龍安寺はその歴史と美しい枯山水の石庭で訪れる私たちを魅了する。
龍安寺
龍安寺【りょうあんじ】は、大本山妙心寺の境外塔頭で、臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は大雲山で、御本尊は釈迦如来である。
応仁の乱の東軍総大将として知られている細川勝元によって開基された寺院であり、境内にある方丈庭園(石庭)で有名である。
細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻したとされる。
そして勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手し、政元と特芳禅傑【とくほうぜんけつ】によって再興されたという。明応8年(1499年)には方丈が上棟された。その後、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。
龍安寺の方丈(本堂)には、美しい襖絵が描かれており、その芸術的価値も高く評価されている。方丈の天井には龍の絵が描かれており、その迫力は一見の価値がある。
寛政9年(1797年)に起こった火災により、方丈(本堂)、開山堂、食堂、仏殿など主要な伽藍が焼失したらしい。そのため、塔頭の西源院【せいげんいん】の方丈を移築したものが現在の龍安寺の方丈である。また、明治時代初期の廃仏毀釈によって、龍安寺は衰退したという。
方丈庭園は、「龍安寺の石庭」として有名な枯山水の庭園で、国の史跡・特別名勝に指定されている。
龍安寺の枯山水は、白砂の砂紋で波の重なりを表している。幅25m、奥行10mの庭に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の5群の石組、合計で15の大小の石が配置されている。
この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。それはある石に別の石が重なるよう設計する「重なり志向」を取り入れた日本庭園独自の作庭技法であるされている。
龍安寺の前には「鏡容池」と呼ばれる池を中心とした池泉回遊式庭園がある。鏡容池の周囲には西源院以外にもいくつか塔頭寺院がある。しかし、それらは龍安寺の塔頭ではなく、妙心寺の境外塔頭である。
名 称 | 龍安寺 |
所在地 | 京都市右京区龍安寺御陵下町13 |
駐車場 | あり(1時間無料) |
Link | 大雲山 龍安寺|Ryoanji |
あとがき
龍安寺の魅力は、世界的にも有名な枯山水庭園である。この庭園には、大小15個の石が配置されており、白砂の中に独特の美しさを持っている。配置された石の数は、一度に全てを見ることができないように設計されており、どの位置から見ても14個の石しか見えないと言われている。このようなデザインは、観る者に深い瞑想や思索を促すとされる。
庭園以外にも、境内には美しい自然が広がっている。春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が美しい景色を作り出す。季節ごとに変わる風景は、訪れる度に新しい発見がある。
龍安寺は、禅宗の寺院であり、参拝者は静かな環境の中で瞑想や座禅を行うことができる。
庭園の美しさや自然の中で心を落ち着け、日常の喧騒から離れることができる龍安寺は魅力的な寺院である。