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弘法大師が開いた真言密教の聖地「高野山」

はじめに

高野山は、816年に弘法大師・空海(774年~835年入定)によって開山された真言密教の聖地であり、1200年以上の歴史を持っている。高野山全域を「総本山金剛峯寺」とし、真言密教の修行の場としての高野山には重要な聖地が点在し、多くの仏教寺院や文化財が残されている。特に奥之院壇上伽藍は二大聖地として信仰を集めている。ユネスコ認定の世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素にもなっている。

高野山は、真言密教の聖地ではあるが、宗派や民族を問わず、すべての人々を受け入れる寛容さが特徴である。奥之院の参道には、戦国武将から庶民まで、さまざまな人々の墓石や慰霊碑が並んでいる。他宗派の僧侶の墓石もある。このように高野山は宗派を問わず、寛容さと平等の精神をもつことで、全世界の人々とも繋がろうとしている雰囲気がある。

高野山では、瞑想や写経などの修行体験ができ、心身ともにリフレッシュすることができる。静寂な環境の中で、自分自身と向き合う時間を持つこともできる。

高野山は美しい自然に囲まれており、四季折々の風景が楽しめる場所である。山上は大阪や神戸と比べる格段に涼しいので、避暑を目的とした観光客は夏場が最も多い。しかしながら、秋の紅葉の季節や冬の雪景色も見事である。写真を撮るならこれらの季節がお薦めである。


<目次>
はじめに
弘法大師・空海
壇上伽藍
奥之院
金剛峯寺
金剛三昧院
大門
女人堂
徳川家霊台
密厳院苅萱堂
あとがき

弘法大師空海

弘法大師空海(号は遍照金剛)を描いた書籍は数多い。そこには、空海がその多彩な才能から大天才であったと記されている。その多彩な才能とは何か? 

弘法大師空海

最初に挙げられるのが、書の天才であったこと。「弘法も筆の誤り」ということわざもある。書の本家、唐の長安でも舌をまかれた程の書を披露したことが伝えられている。さらに筆の作り方や紙の作り方も習得して帰国している。

絵画に使用する顔料についても造詣が深かったようだ。空海は教を唐から持ち帰る際に、密教を教えるには華麗な曼荼羅の絵が必要と考え、その曼荼羅を描くためには紙、顔料、筆が必要と考えたのである。

すなわち、密教を日本に持ち帰るために美術工芸も持ち帰ったのである。社会科授業では、空海は唐から密教を持ち帰ったとしか学ばなかったけれども、実は、空海は文化工業技術も持ち帰ったのである。

書籍にも具体例が紹介されている。真言密教の壮麗な灌頂の式を執り行うために必要な三鈷杵【さんこしょ】などの法具【しゃく】、すなわちスズで出来ているが、当時の日本には治金鋳造の技術はおろか、彫金の技法もなかった。

空海は唐での短い滞在期間(約2年間)で、気の遠くなるような文化と工芸、工業の技術をマスターしている。それもたった一人でやり遂げている。これが大天才と称される所以である。

ただでさえ真言密教の習得は、困難を極めるとされていた。膨大な量の真言密教の経典を読破するにはそれなりの時間を要する。それが、唐の長安に辿り着いた後、わずか三カ月で密教のすべてを、それも恵果阿闍梨から直々に伝授されている。

恵果阿闍梨は約2000人の弟子をさしおいて当時は一介の留学僧でしかなかった空海を密教の後継者に指名したのである。

その本当の理由は未だ解明されていないという。しかしながら、密教がやがて中国から消えるように亡んでしまった現実をみせられた時、恵果阿闍梨には先見の明があったのではないかと私は思うのである。

唐から帰国した空海は、大陸文化と日本文化の結びつきを達成し、真言密教という哲学的宗教を軸に文学教育から土木灌漑に至るまで八面六臂の活躍を、その秘密のベールに覆われた死?(入定)の直前まで続けたのである。

日本各地にお大師さんの伝説が数多く残されているのは、超人であった空海なら不思議はないのかもしれない。

しかし、常識的には、高野聖と呼ばれた修行僧の業績も合わさって後世に伝えられていると理解するのが妥当なようにも思う。

もっともその真実を知ったところで、弘法大師・空海への敬愛の念は消えることはないだろう。


壇上伽藍

壇上伽藍は、弘法大師空海が高野山を開山して最初に開拓した場所であり、密教の教えを体現する重要なエリアとされている。壇上伽藍には、根本大塔、金堂、、御影堂、西塔などの主要な法会が行われる重要な諸堂が建並んでいる。特に根本大塔は、真言密教の象徴的な建物である。まさに高野山の中心エリアである。(詳しくは、真言密教の聖地・高野山「壇上伽藍」


奥の院

奥の院は、弘法大師空海が入定(永遠の瞑想に入る修行)した場所として知られ、高野山の中でも最も重要な聖地の一つとして信仰を集める。つまり高野山の信仰の中心である。

一の橋から弘法大師御廟までの約2kmの参道の両側には樹齢約700年の杉木立の中に約20万基の墓石が並んでいる。(詳しくは、弘法大師空海が瞑想を続ける聖地「高野山・奥之院」


金剛峯寺

金剛峯寺は高野山真言宗の総本山であり、国内最大級の石庭「蟠龍庭」や狩野派の襖絵などが見どころである。(詳しくは、真言密教の聖地・高野山真言宗の総本山「金剛峯寺」


金剛三昧院

金剛三昧院は、鎌倉時代の1211年に北条政子の発願により創建され、源頼朝や源実朝の菩提を弔うために建立された寺である。

金剛三昧院・本坊

金剛三昧院の多宝塔(国宝)や、経蔵、四所明神社本殿、客殿及び台所などはユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。(詳しくは、源頼朝と北条政子を弔う寺「金剛三昧院」


大門

大門【だいもん】は、高野山の入口にあり、一山の総門である。現在の建物は1705年に再建されたものである。五間三戸の二階二層門で、高さは約25mもある。

大門の正面には「日々の影向【ようごう】を闕【かか】さずして、処々の遺跡を檢知す」という聯【れん】が掲げられている。この聯は、「お大師さまは毎日御廟から姿を現され、所々を巡ってはわたしたちをお救いくださっている」という意味であり、同行二人信仰(大師信仰)を表しているとされる。

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高野山への総門大門【だいもん】

高野山への総門は、大門【だいもん】と呼ばれ、左右に巨大な仁王像(金剛力士像; 吽形像阿形像)が安置されている。

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吽形像(高さ:558 cm) 京都の仏師・運長が造立

仁王像(金剛力士像)は、大門のスケール感にマッチして非常に大きい。この仁王像は東大寺南大門の仁王像に次ぐ我が国二番目の巨像と云われ、江戸中期に活躍した大仏師である運長と康意の作と伝えられている。

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阿形像(高さ:546 cm) 京都の仏師・康意が造立

大門は、国の重要文化財およびユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。

名 称大門
所在地和歌山県伊都郡高野町高野山132
駐車場あり(無料)
Link大門 | 和歌山県公式観光サイト

女人堂

かつて高野山へは七つの入り口があり、高野七口【こうやななくち】と呼ばれていた。明治5年(1872年)に女人禁制が解かれるまで、高野山への女性の立ち入りが厳しく制限され、そのため各入り口には女性のための参籠所(籠もり堂)が設けられ、それを女人堂【にょにんどう】と呼んでいた。高野山が女人禁制の時代には女性はここまでしか入れなかったという。

かつては7か所にあった女人堂も現在では一か所が残るのみである。それが京大坂道の到着地点の不動坂口にある女人堂である。

この不動坂口に建つ女人堂が高野七口に建つ女人堂の中で最大だったと言われている。女人堂として唯一現存する建物である。

女人堂には大日如来、弁財天、神変大菩薩が祀られている。金輪公園一心院谷にあり、公園になっている。

名 称女人堂【にょにんどう】
所在地和歌山県伊都郡高野町高野山709
Link高野山・女人堂

徳川家霊台

徳川家霊台【とくがわけ れいだい】は、寛永20年(1643年)に三代将軍・徳川家光によって建立されたもので、徳川家康と秀忠の霊廟がある。

一重宝形造り【いちじゅうほうぎょうづくり】の建物が二つ並んでいて、向かって右側が初代将軍の徳川家康を祀る東照宮家康公霊舎(おたまや)であり、左側が二代将軍の徳川秀忠を祀る台徳院秀忠公霊舎となっている。

境内の東端には三代将軍以下および御三家の尊牌堂【そんぱいどう】があったが、明治21年(1888年)に焼失したという。

徳川家霊台は、国の史跡および重要文化財であると共にユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部として登録されている。

名 称徳川家霊台【とくがわけ れいだい】
所在地和歌山県伊都郡高野町大字高野山682
Link徳川家霊台 | 和歌山県公式観光サイト

密厳院苅萱堂

密厳院苅萱堂【みつごんいんかるかやどう】は、高野山真言宗の寺院で、総本山金剛峯寺の塔頭の一つである。苅萱道心【かるかやどうしん】と石童丸【いしどうまる】の哀話の舞台としても知られている。

苅萱堂は苅萱道心が出家し、実の子である石道丸と共に父子を名乗ることなく仏道修行に明けくれたお堂として伝えられている。

名 称密厳院苅萱堂【みつごんいんかるかやどう】
所在地和歌山県伊都郡高野町高野山478
Link宗教法人密厳院 | 高野山 密厳院苅萱堂

あとがき

高野山には大好きだった伯母が住んでいたので物心ついた頃からよく遊びに行った想い出がある。伯父が高野山のある寺院の執事をしていたので高野山の寺院や宿坊のことを教えてもらった想い出もある。また実家が法事をするときには金剛三昧院にお世話になっているので、私が高野山に行く機会は比較的多いのではないかと思う。

昔は「林間学校」と称して夏場には多くの中学生や高校生が高野山に来ていたのを覚えている。今はどうなのであろうか。最近は高野山に行くと海外からの観光客に出会うことも珍しくなく、昔とは全く違った光景を目にすることが多い。写真撮影が禁止されている場所も増えたように思うし、人が多くて無動作に被写体にカメラを向けることに躊躇してしまう場面が多くなった。

カメラも持たずに手ぶらで奥の院の参道をゆっくりと歩くのが高野山を旅する本来の楽しみ方なのかも知れない。

奥の院の最奥にある御廟の地下には、今だに弘法大師は生きておられる。御廟の前に立ち、皆合掌する。誰もが弘法大師の存在を信じて、疑うことはない。皆、そう信じている。

毎日、二人の僧が弘法大師の食事を箱に入れて、その地下室へ降りてゆく。千二百年以上もの間、絶えることなくずっとそれは続いているのである。 実に驚くべきことではないか。

私も弘法大師(地元では「お大師さま」と呼ぶ)を信仰してきた一人である。自分自身がシニアになり、お大師さまをより近くに感じる世代にもなった。


【参考資料】
空海の風景(上巻・下巻)司馬遼太郎著(中央公論社)
空海 早坂暁著(大和書房)
空海 高村薫著(新潮社)
空海入門 ひろさちや著(祥伝社)
いま、空海の救い 加藤精一著(講談社)
空海!ちょっと悟って感動の人生学 大栗道栄著(中経出版)
眠れないほど面白い空海の生涯 由良弥生(三笠書房)
定年からは同行二人 小林淳宏著(PHP研究所)
四国八十八所遍路(徳島・高知編)・(愛媛・香川編)
宮崎忍勝・原田是宏著(朱鷺書房)

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