| <目次> はじめに 飛鳥時代とはどのような時代だったのか 聖徳太子とは何者だったのか 斑鳩と飛鳥 橘寺を訪ねて 飛鳥寺を訪ねて 豊浦宮跡・伝飛鳥板蓋宮跡を訪ねて 法隆寺を訪ねて 中宮寺を訪ねて 法起寺を訪ねて 法輪寺を訪ねて 四天王寺を訪ねて 冠位十二階と十七条憲法 遣隋使が切り開いた未来 律令国家への道 飛鳥の地を歩いて感じたこと あとがき |
◆ はじめに
正岡子規の有名な俳句に、
柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺
という一句がある。
秋の斑鳩の里で柿を口にした子規の耳に、法隆寺の鐘の音が静かに響いてきたのであろうか。素朴な情景を詠んだ一句でありながら、その背後には1400年以上の時を超えて受け継がれてきた日本の歴史と文化の重みが感じられる。
法隆寺は、奈良県の斑鳩(いかるが)の地に建つ世界最古の木造建築群として知られ、古くから聖徳太子ゆかりの寺として親しまれてきた。静かな佇まいの中にも、飛鳥時代という激動の時代を今に伝える特別な存在感がある。
その聖徳太子が暮らした斑鳩と、政治の中心であった飛鳥を結ぶ道は、今では「太子道」と呼ばれている。厩戸皇子(後世の聖徳太子)が斑鳩宮から飛鳥の宮へ通ったと伝えられるこの古道には、法隆寺や中宮寺、橘寺をはじめ、太子ゆかりの寺社や史跡が点在している。
私はこれまで各地の歴史遺産を訪ね歩いてきたが、飛鳥と斑鳩ほど「日本の原点」を強く感じさせる場所は決して多くない。そこには、まだ国家の形が定まっていなかった時代に、新しい国づくりを模索した人々の息遣いが今も色濃く残されている。
聖徳太子は、仏教を中心とする精神文化を育みながら、冠位十二階や十七条憲法、遣隋使の派遣などを通じて、新しい国家のあり方を追い求めた人物であった。その理想は生前に完成することはなかったものの、やがて大化改新や律令国家の成立へと受け継がれ、日本という国の礎になっていく。
今回の旅では、斑鳩と飛鳥を訪ね歩きながら、聖徳太子ゆかりの寺院や史跡を巡り、この国の原点ともいうべき時代に思いを馳せてみたいと思う。
のどかな田園風景の中に点在する古寺や宮跡を訪ねるうちに、教科書の中の人物であった聖徳太子が、一人の理想に燃えた政治家として少し身近に感じられるようになった。
法隆寺の鐘の音に耳を澄ませながら、飛鳥の地から始まった壮大な国づくりの物語をたどってみたい。
飛鳥時代とはどのような時代だったのか
飛鳥時代(一般的には592年〈または593年〉頃から710年の平城京遷都まで)は、日本が豪族連合による政治体制から、天皇を中心とする中央集権的な律令国家へと大きく姿を変えていった変革の時代である。
● 豪族の時代から中央集権国家へ
古墳時代までのヤマト王権は、蘇我氏や物部氏など有力豪族の協力によって成り立つ連合政権的な性格を持っていた。
645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足らは「乙巳の変」によって蘇我入鹿を討ち、豪族中心の政治体制を改める改革に着手した。これを契機として始まった一連の政治改革が、いわゆる「大化の改新」である。
さらに672年の壬申の乱では、大海人皇子(のちの天武天皇)が勝利し、強力な王権を確立した。天武天皇と持統天皇の時代には律令整備が本格化し、飛鳥浄御原令の制定を経て、701年に大宝律令が完成する。こうして天皇を頂点とする律令国家の骨格が整えられた。
● 仏教伝来と国づくり
6世紀半ば、百済から仏教が公的にもたらされた。伝来年については538年説と552年説があり、現在は538年説が有力とされるが、両説が併記されることも多い。
新しい信仰である仏教をめぐっては、受容に積極的な蘇我氏と、在来の神々を重視した物部氏が対立した。しかし587年の丁未の乱で蘇我氏が勝利すると、仏教は次第に国家の保護を受けるようになる。
推古天皇のもとで政治を支えた聖徳太子(厩戸皇子)は、603年に冠位十二階を制定し、604年には十七条憲法を定めた。これらは豪族の家柄だけに頼らず、能力や人格を重視する政治理念を示したものであり、後の中央集権国家への第一歩として高く評価されている。
また、飛鳥寺(法興寺)や法隆寺の建立に代表されるように、この時代には仏教文化が大きく花開き、日本最古級の寺院建築や仏像彫刻が数多く生み出された。
● 東アジア情勢と倭国
飛鳥時代の日本は、東アジアの国際情勢と深く結びついていた。
589年に中国を統一した隋は東アジアの大国として君臨し、倭国はその先進的な制度や文化を学ぶため遣隋使を派遣した。とくに607年、小野妹子らが隋へ赴いた遣隋使はよく知られている。
その後、隋が滅亡して唐が建国されると、630年には犬上御田鍬らを派遣して遣唐使が始まり、日本は引き続き大陸文化の吸収に努めた。
663年の白村江の戦いでは、日本(倭国)は百済復興を支援して朝鮮半島へ出兵したが、唐・新羅連合軍に大敗した。この敗戦は朝廷に大きな衝撃を与え、防人や水城の整備など国土防衛の強化が急速に進められることとなった。
また、この時代には国家意識が大きく成熟し、「日本」という国号や「天皇」という称号も7世紀後半から8世紀初頭にかけて定着していったと考えられている。
● 飛鳥時代が残したもの
飛鳥時代は単に古い時代の一つではない。
中央集権国家の成立、仏教文化の定着、大陸文化の積極的な受容、そして律令国家への道筋が築かれたこの時代は、日本という国の基礎が形づくられた時代であった。
斑鳩や飛鳥の地に立つと、聖徳太子や天武・持統朝の人々が思い描いた「新しい国づくり」の息吹を、今なお身近に感じることができるのである。
聖徳太子とは何者だったのか
聖徳太子は、飛鳥時代に天皇を中心とする国家体制の形成に大きな役割を果たした皇族であり、日本史上もっとも広く知られた人物の一人である。
生前は主に「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」あるいは「厩戸王(うまやどのおう)」と呼ばれ、推古天皇のもとで政治の中枢に携わった。後世になると、その功績は伝説とともに語られるようになり、「聖徳太子」の名で広く尊崇される存在となった。
● 厩戸皇子の生涯
厩戸皇子は574年、用明天皇の皇子として誕生した。
「厩戸」の名は、厩(うまや)の近くで生まれたことに由来すると伝えられるが、その真偽は定かではなく、後世に付加された伝承と考える研究者もいる。
また、幼少期から非常に聡明であったとされ、「一度に十人の訴えを聞き分けた」という「豊聡耳(とよとみみ)」の逸話は有名である。しかし、これも後世の『日本書紀』や太子伝説の中で語られたものであり、そのまま史実として受け止めるのではなく、太子への尊崇の念が生み出した伝説として理解するのが一般的である。
一方で、厩戸皇子が深く仏教に帰依していたことは確かである。『勝鬘経』『維摩経』『法華経』についての注釈書(いわゆる「三経義疏」)が伝えられており、そのすべてが本人の著作かどうかは議論があるものの、高度な仏教思想に通じていた人物として記憶されてきた。
晩年には斑鳩宮を拠点として活動し、法隆寺創建とも深い関わりを持ったとされる。そして622年、49歳でその生涯を閉じた。
● 推古天皇と蘇我馬子
592年、崇峻天皇が殺害されるという政変の後、推古天皇が即位した。推古天皇は日本最初の女性天皇として知られ、そのもとで厩戸皇子が皇族の代表として政治を担い、蘇我氏の長であった蘇我馬子が実務面を支えるという体制が築かれた。
この時代の政治は、推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子の三者による協調の上に成り立っていたと考えられている。
三者は仏教興隆や国家体制の整備という点で共通の目標を持っていたが、一方で必ずしも常に意見が一致していたわけではなかった。『日本書紀』には、蘇我馬子が葛城県の土地を望んだ際、厩戸皇子が天皇の権威を重んじて反対したという記事も見られる。
こうした体制のもとで、603年には冠位十二階、604年には十七条憲法が制定された。また607年には小野妹子を隋へ派遣し、積極的な外交政策が展開された。
これらの施策は、豪族中心の政治から、天皇を中心とする国家体制への転換を目指した試みとして高く評価されている。
● 後世に語り継がれた太子信仰
厩戸皇子の死後、その評価は時代を経るごとに高まっていった。
643年には子の山背大兄王らが蘇我入鹿によって滅ぼされるが、この悲劇的な最期もまた、太子一族への同情と尊崇を深める契機となった。
奈良時代から平安時代にかけて、太子は単なる政治家ではなく、日本仏教を守護する聖人として信仰されるようになる。やがて「救世観音の化身」や「観音菩薩の生まれ変わり」とまで語られ、その信仰は全国へ広がっていった。
最澄、空海、親鸞、日蓮など、多くの仏教者が聖徳太子を篤く敬い、それぞれの著作や伝承の中で太子への尊崇を語っている。そのため聖徳太子は「日本仏教の祖」とも称されるようになった。
また、法隆寺をはじめとする寺院建築の守護者として大工や左官、木工職人たちからも信仰を集め、各地で「太子講」が組織された。その伝統は現代にも受け継がれている。
近年の歴史研究では、後世に形成された「聖徳太子像」と史実上の「厩戸皇子」を区別して理解しようとする傾向が強まっている。そのため、中学校や高校の教科書では「厩戸王(厩戸皇子)」の表記が用いられることも多い。
しかし、伝説が加わったからといって、その歴史的意義が失われるわけではない。むしろ、1400年以上にわたって人々が太子を理想の政治家、理想の宗教家として語り継いできたこと自体が、厩戸皇子という人物の存在の大きさを物語っているのである。
斑鳩と飛鳥
斑鳩(いかるが)とは、現在の奈良県生駒郡斑鳩町を中心とする地域を指す。法隆寺をはじめとする飛鳥時代の文化遺産が集中し、聖徳太子ゆかりの地として広く知られている。
用明天皇の皇子であった厩戸皇子(後世に聖徳太子と呼ばれる)は、この斑鳩の地を拠点として活動したと伝えられている。
『日本書紀』によれば、推古天皇9年(601年)に斑鳩宮の造営が始まり、推古天皇13年(605年)に厩戸皇子が移り住んだとされる。法隆寺についても、太子が深く関与した寺院として古くから伝えられているが、その創建の経緯についてはなお研究が続いている。
斑鳩は大和川水系に近く、河内や飛鳥を結ぶ交通の要衝でもあった。そのため、厩戸皇子の一族である上宮王家は、この地を重要な拠点としていたと考えられている。
一方、飛鳥(あすか)は、現在の奈良県高市郡明日香村を中心とする地域である。
この地には歴代の天皇の宮が置かれることが多く、推古天皇が即位した592年頃から、持統天皇が694年に藤原京へ遷都するまでの約100年間は、一般に「飛鳥時代」と呼ばれている。
飛鳥は当時の政治・外交の中心地であり、推古天皇の豊浦宮、小墾田宮、舒明天皇の岡本宮、天武・持統天皇の浄御原宮など、多くの宮殿が営まれた。わが国が律令国家へと歩みを進めた舞台そのものであった。
斑鳩と飛鳥を結ぶ古道は、現在「太子道(たいしみち)」として知られている。厩戸皇子が斑鳩宮から飛鳥の宮へ通った道であったと伝えられ、その沿線には太子ゆかりの寺院や史跡が点在している。
推古天皇のもとで厩戸皇子は蘇我馬子と協力しながら政治に携わり、冠位十二階や十七条憲法に象徴される政治改革を進めたと伝えられる。また、小野妹子らを遣隋使として派遣し、中国大陸の先進制度や文化を積極的に学ぼうとした。
こうした取り組みは、後の律令国家成立への重要な礎となった。
622年に厩戸皇子が没し、さらに643年にはその子の山背大兄王らが蘇我入鹿によって滅ぼされると、上宮王家は歴史の表舞台から姿を消した。しかし、彼らが活動した斑鳩の地は、その後も太子ゆかりの聖地として人々の記憶に深く刻まれることになる。
厩戸皇子は篤く仏教を信仰し、その興隆に尽力した人物として語り継がれてきた。そのため後世には「太子信仰」が全国に広まり、太子は理想の政治家であり、日本仏教の守護者として崇敬されるようになった。
とりわけ法隆寺と四天王寺は太子信仰の中心として発展し、多くの僧侶や信者、さらには職人たちの信仰を集めてきた。
斑鳩と飛鳥を歩いていると、単なる古代遺跡の集まる土地ではなく、日本という国のかたちが模索され、仏教文化が根づき、新しい時代が切り開かれた現場であることを実感する。
今回の旅は、まさにその原点をたどる旅の始まりであった。
橘寺を訪ねて
橘寺(たちばなでら)は、奈良県明日香村にある聖徳太子ゆかりの寺院である。
この地は、聖徳太子(厩戸皇子)の生誕地と伝えられており、寺伝によれば、欽明天皇の別宮であった「橘の宮」を、推古天皇の命によって寺院に改めたことが始まりとされている。橘寺は古くから「聖徳太子建立七大寺」の一つに数えられ、太子信仰の重要な拠点として知られてきた。
ただし、創建当初の詳細については不明な点も多く、発掘調査からは飛鳥時代前半にはすでに寺院が存在していたことがうかがえるものの、現在も研究が続けられている。
奈良時代には広大な寺域を誇り、66もの堂宇が建ち並ぶ大寺院として栄えたという。度重なる火災や戦乱によって往時の伽藍は失われたが、現在も江戸時代に再建された本堂(太子殿)が往年の信仰を今に伝えている。
境内を歩くと、「聖徳太子御誕生所」としての静かな空気が感じられる。飛鳥の田園風景に囲まれた橘寺は、豪壮な大寺院というよりも、太子の人柄や信仰を偲ばせる穏やかな古刹であった。
なかでも飛鳥時代の謎を残す「二面石」は有名である。善相と悪相が刻まれたこの石造物は、人間の心の二面性を表しているともいわれ、訪れる人々の想像力をかき立てる。1400年の時を超えて残された石の表情を見つめていると、飛鳥という時代の奥深さを改めて感じさせられる。
飛鳥寺を訪ねて
奈良県明日香村にある飛鳥寺(あすかでら)は、日本仏教史の原点ともいえる寺院である。
飛鳥寺は蘇我馬子の発願によって588年に造営が始まり、596年に完成した日本最初の本格的な仏教寺院である。当時は「法興寺(ほうこうじ)」とも呼ばれ、後の元興寺へとつながる由緒ある寺院でもあった。
創建当初の飛鳥寺は、一つの塔を中心に三つの金堂を配置する「飛鳥寺式伽藍配置」を採用し、百済から招かれた技術者たちによって最新の建築技術が導入された。瓦葺きの壮大な寺院は、それまでの古墳中心の時代から、仏教を中心とする新しい時代への転換を象徴していたのである。
飛鳥寺建立の背景には、仏教受容をめぐる蘇我氏と物部氏の対立があった。587年の丁未の乱で蘇我氏が勝利したことにより、仏教は国家の保護を受けながら発展していくことになる。飛鳥寺は単なる宗教施設ではなく、新しい国家理念を示す象徴的な存在でもあった。
現在の飛鳥寺で最も大きな見どころは、本尊の銅造釈迦如来坐像、通称「飛鳥大仏」である。
この仏像は鞍作止利(鳥仏師)によって造られ、609年に完成したと伝えられる。度重なる火災によって補修を受けているものの、日本最古の丈六仏として知られ、飛鳥時代の面影を今に伝えている。
飛鳥大仏の前に立つと、その穏やかな表情に引き込まれる。華やかな奈良仏教の仏像とは異なり、どこか素朴で力強い。日本人が初めて本格的な仏教文化に出会い、その精神世界を形にしようとした時代の息吹が感じられるようであった。
創建当時の壮大な伽藍は失われたものの、境内には塔跡や礎石が残されている。飛鳥寺は単なる古寺ではなく、日本という国が仏教国家として歩み始めた原点に立つ場所なのである。
豊浦宮跡・伝飛鳥板蓋宮跡を訪ねて
豊浦宮跡と伝飛鳥板蓋宮跡は、飛鳥時代の政治の中心地として栄えた宮殿跡である。
ここでは、聖徳太子と推古天皇による新しい国づくりが始まり、その後の乙巳の変や大化改新を経て、律令国家への道が切り開かれた。まさに日本の国家形成を語るうえで欠かすことのできない歴史舞台である。
● 豊浦宮跡
豊浦宮跡は、592年に即位した推古天皇が最初に営んだ宮殿跡とされる。
現在は向原寺(豊浦寺)周辺に比定されており、日本初の女性天皇である推古天皇がここを拠点として政治を行ったと伝えられている。
推古朝では、厩戸皇子(聖徳太子)が皇族の代表として政治に参与し、蘇我馬子と協力しながら国家運営を進めた。仏教興隆政策や大陸文化の積極的な受容が進められ、日本が東アジアの国際社会へ本格的に歩み出した時代でもあった。
現在、往時の宮殿を思わせる建物は残っていない。しかし、飛鳥の静かな集落の中に立つと、約1400年前、この地で日本の未来を模索した人々の息遣いを想像することができる。
● 伝飛鳥板蓋宮跡
伝飛鳥板蓋宮跡は、飛鳥時代最大級の歴史的事件である「乙巳の変(645年)」の舞台として知られている。
この宮殿では、皇極天皇の御前で中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を討ったと伝えられている。この政変は、その後の大化改新へとつながり、日本の政治体制を大きく転換させる契機となった。
近年の発掘調査によって、この場所には飛鳥板蓋宮だけでなく、後岡本宮や飛鳥浄御原宮など複数の宮殿が重なって営まれていたことが明らかになっている。
つまり、この地は一時代の宮殿跡ではなく、飛鳥時代を通じて歴代天皇の政治の中心であり続けた場所なのである。
現在は礎石や建物配置が復元され、往時の宮殿の規模を体感できるよう整備されている。広々とした遺跡空間を歩いていると、飛鳥の田園風景の中にありながら、かつてここが日本最大の政治舞台であったことを実感する。
聖徳太子の時代に始まった国家づくりは、この地での乙巳の変を経て大きく加速し、やがて天武・持統天皇の時代に律令国家として結実していく。その意味で、豊浦宮跡と伝飛鳥板蓋宮跡は、日本という国家の原点を感じることのできる特別な場所であった。
法隆寺を訪ねて
法隆寺(ほうりゅうじ)は、聖徳太子ゆかりの寺院として知られ、伝承では用明天皇の病気平癒を願って建立が発願され、その遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子によって創建されたとされる。創建は607年と伝えられている。
現在の西院伽藍は、金堂や五重塔を中心とする現存世界最古の木造建築群として知られ、日本が世界に誇る文化遺産の一つである。1993年には「法隆寺地域の仏教建造物」として、日本で初めて世界文化遺産に登録された。
広大な境内には飛鳥時代から伝わる数多くの国宝や重要文化財が残されており、聖徳太子が理想とした仏教文化と国家の姿を今に伝えている。五重塔と金堂が並び立つ光景を前にすると、1400年にわたって受け継がれてきた日本文化の原点を実感することができる。
中宮寺を訪ねて
中宮寺(ちゅうぐうじ)は、法隆寺東院の東隣に位置する尼寺である。
寺伝によれば、聖徳太子が母の穴穂部間人皇后のために創建した寺院とされ、日本最古級の尼寺の一つとして知られている。創建当初は現在地から約500メートル東方にあり、後に現在の場所へ移された。
中宮寺で最も有名なのが、国宝の菩薩半跏像(伝如意輪観音)である。右手を頬に添えて思索する姿は「半跏思惟像」の傑作として名高く、その穏やかな微笑みは古来多くの人々を魅了してきた。
堂内は静寂に包まれ、法隆寺の荘厳さとはまた異なる穏やかな空気が流れている。飛鳥人の美意識と信仰心が凝縮された空間であった。
法起寺を訪ねて
法起寺(ほうきじ)は、「聖徳太子建立七大寺」の一つに数えられる古刹である。
この地は、聖徳太子が法華経を講じたと伝わる岡本宮の跡とされる。寺伝では、太子の遺命により、その子の山背大兄王が宮殿を寺院に改めたことが始まりと伝えられている。したがって、寺の本格的な整備は太子没後に進められたことになる。
境内にそびえる三重塔は706年頃の建立とされ、現存する日本最古の三重塔として国宝に指定されている。また法隆寺とともに世界文化遺産「法隆寺地域の仏教建造物」の構成資産となっている。
周囲に広がる田園風景の中に立つ三重塔はひときわ美しく、斑鳩の里を象徴する景観の一つとなっている。
法輪寺を訪ねて
法輪寺(ほうりんじ)は、法隆寺の北東に位置する飛鳥時代ゆかりの古刹である。別名を「三井寺(みいでら)」といい、寺名の由来となった三つの井戸の伝承が現在も残されている。
創建については複数の伝承があるが、一般には622年、聖徳太子の病気平癒を願って、子の山背大兄王らが建立したと伝えられている。一方で、法隆寺焼失後に再建されたとする説もあり、現在も研究が続いている。
法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔とともに「斑鳩三塔」に数えられるが、旧三重塔は1944年に落雷によって焼失した。その後、多くの人々の支援を受け、宮大工・西岡常一棟梁の手によって1975年に飛鳥様式で再建された。
講堂(収蔵庫)には飛鳥時代後期の薬師如来坐像や虚空蔵菩薩立像などの重要文化財が安置されており、斑鳩に花開いた仏教文化の深さを伝えている。
法隆寺ほどの賑わいはないが、その分、静かな境内をゆっくり歩くことができる。聖徳太子とその一族の息吹を感じながら、飛鳥時代へ思いを馳せることのできる寺院であった。
斑鳩の地で聖徳太子の理想と信仰に触れた後、私はもう一つの太子ゆかりの大寺院、大阪の四天王寺へ向かった。
四天王寺を訪ねて
大阪市天王寺区にある四天王寺(してんのうじ)は、聖徳太子ゆかりの寺院として知られ、日本仏教史において極めて重要な位置を占める古刹である。
『日本書紀』によれば、推古天皇元年(593年)、聖徳太子によって建立されたと伝えられている。日本最初の本格的な官寺の一つとされ、飛鳥時代の国家形成と仏教興隆を象徴する寺院である。
その創建の由来は、仏教受容をめぐる蘇我氏と物部氏の対立にさかのぼる。聖徳太子は、物部守屋との戦いに際して四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)に勝利を祈願し、「戦いに勝つことができたなら、四天王を祀る寺を建立する」と誓願したと伝えられている。
やがて蘇我氏側が勝利を収めると、その誓いを果たすために建立されたのが四天王寺であった。
この寺は単なる仏教寺院ではない。
聖徳太子が目指したのは、仏教の教えを国家運営の礎とする理想的な社会の実現であった。そのため四天王寺は、仏法を広める道場としての役割に加え、人々を救済するための施設を備えた総合的な社会事業の拠点でもあったと伝えられている。
とくに有名なのが「四箇院(しかいん)」である。
そこには、病人を治療する療病院、薬を施す施薬院、身寄りのない人々を保護する悲田院、そして教育や福祉に関わる敬田院が置かれたとされる。歴史的事実としては後世の整備や発展も含まれるが、四天王寺が古くから慈善事業や社会救済の象徴として受け止められてきたことは間違いない。
現在の伽藍は幾度もの戦災や火災を経て再建されたものであるが、創建当初の「四天王寺式伽藍配置」は今も受け継がれている。中門・五重塔・金堂・講堂が一直線に並ぶ姿は、日本最古級の寺院様式を今に伝えている。
境内を歩いていると、聖徳太子が思い描いた「仏教によって人々が支え合う国づくり」の理念が、単なる理想論ではなく具体的な形として表現されていたことが実感される。
斑鳩の法隆寺が聖徳太子の精神文化の中心であったとすれば、四天王寺はその理念を社会へ広げるための実践の場であったのかもしれない。
冠位十二階と十七条憲法
冠位十二階(603年)と十七条憲法(604年)は、推古天皇の時代に行われた代表的な政治改革である。
これらは、厩戸皇子(聖徳太子)や蘇我馬子らが進めた国家体制整備の一環として位置づけられており、それまでの豪族中心の政治から、天皇を中心とする国家へと転換する大きな一歩となった。
● 人材登用への挑戦(冠位十二階)
飛鳥時代以前の政治では、「氏姓制度(うじかばねせいど)」に基づき、有力豪族が代々高い地位を受け継ぐことが一般的であった。
冠位十二階は、そうした家柄中心の仕組みを改め、個人の能力や功績に応じて官位を与えることを目指した制度である。
冠位は、儒教の徳目である「徳・仁・礼・信・義・智」をそれぞれ大小二段階に分けた十二階からなり、位ごとに異なる色の冠を着用した。
もちろん当時の豪族社会を一気に変えるほどの力を持ったわけではなかったが、「家柄よりも能力を重視する」という考え方を国家制度に取り入れた意義は大きい。
また、中国の隋をはじめとする東アジア諸国に対して、倭国が独自の官僚制度を整えつつあることを示す意味もあったと考えられている。
● 和を重んじる理念(十七条憲法)
翌604年に制定された十七条憲法は、現代の憲法のような法体系ではない。むしろ、朝廷に仕える官人たちが守るべき政治倫理や行動規範を示した文書である。
その第一条に記された
「和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗とせよ」
は、日本史上もっとも有名な言葉の一つとして広く知られている。
当時の政治の世界では、有力豪族同士の対立や権力争いが絶えなかった。そのため十七条憲法は、互いに協調し、十分な議論を尽くしながら政治を行うことの重要性を説いている。
第二条では、
「篤く三宝を敬え」
として、仏・法・僧の三宝を尊ぶことを求めている。
これは単なる宗教政策ではなく、仏教を国家の精神的支柱として位置づけようとする考え方を示したものと考えられている。
さらに各条文には、天皇への忠誠、公平な裁判、職務への誠実な取り組みなど、政治を担う者に求められる心構えが繰り返し説かれている。
● 律令国家への第一歩
十七条憲法には、
「国に二君なく、民に二主なし」
という趣旨の考え方が示されている。
これは、それまで強大な権力を持っていた豪族たちに対して、国家の中心には天皇が存在することを明確に打ち出したものであった。
一方、冠位十二階は能力に基づく官人登用の道を開き、十七条憲法は国家を支える政治理念を示した。
つまり、この二つの改革は制度と理念の両面から新しい国家の姿を模索した試みだったのである。
その成果は直ちに完成したわけではない。しかし、645年の乙巳の変と大化改新、さらに天武・持統天皇の時代を経て、701年の大宝律令へと受け継がれていった。
冠位十二階と十七条憲法は、日本最初の本格的な律令国家が成立するまでのおよそ一世紀にわたる改革の出発点であったといえる。
こうした国内改革と並行して、厩戸皇子たちは国外にも目を向けていた。新しい国家を築くためには、東アジアの先進文明から学ぶことが不可欠だったのである。
遣隋使が切り開いた未来
遣隋使は、飛鳥時代の倭国が東アジアの大国であった隋と直接交流するために派遣した公式使節団である。
その目的は、先進的な政治制度や文化、仏教思想を学ぶことに加え、激しく変化する東アジア情勢の中で倭国の立場を確立することにあった。
遣隋使の派遣は、日本が国際社会へ本格的に踏み出した歴史的な出来事であり、その経験は後の律令国家形成へとつながっていく。
● 小野妹子の派遣
607年、推古天皇のもとで小野妹子(おののいもこ)が遣隋使の正使として隋へ派遣された。『日本書紀』によれば、妹子は通訳の鞍作福利らとともに海を渡り、隋の皇帝・煬帝に国書を届けた。
当時の航海は命がけであり、朝鮮半島を経由して隋の都へ赴く長い旅であった。
帰国の際には、隋の使者である裴世清(はいせいせい)が同行し、日本と隋との外交関係はさらに発展することになる。
また、この遣隋使には後に大化改新で活躍する高向玄理や僧旻、南淵請安ら留学生・留学僧が参加した。彼らは隋から唐へと移り変わる中国社会を現地で学び、その知識を日本へ持ち帰った。
なお、小野妹子が隋の返書を帰国途中に失ったという逸話は有名である。返書を百済で紛失したと『日本書紀』に記されているが、その経緯については現在も議論が続いており、真相は分かっていない。
● 隋との外交
遣隋使でとりわけ有名なのが、倭国の国書に記された次の一節である。
「日出處天子、致書日沒處天子、無恙云云」
(日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々)
この文言は『隋書』倭国伝に記録されている。
従来、この文章は「日本の天子が中国皇帝に対等外交を求めた宣言」として説明されることが多かった。しかし近年では、その解釈についてさまざまな研究が行われている。少なくとも隋の煬帝はこの国書を快く思わず、『隋書』には「帝、これを覧て悦ばず」と記されている。
それでも隋は倭国との関係を断つことはなく、翌608年には裴世清を公式使節として派遣した。こうして両国の外交関係は継続され、日本は東アジアの国際秩序に直接参加する道を開いていった。
● 国際国家への飛躍
遣隋使の最大の成果は、隋という当時の世界最先端国家から多くの知識や制度を学んだことであった。
留学生や留学僧たちは、中国の行政制度、法律、外交、仏教、学問を吸収し、それを日本へ持ち帰った。こうした知識は後の遣唐使にも受け継がれ、日本の国家形成に大きな影響を与えていく。
飛鳥時代後半に進められた律令制度の整備や、701年の大宝律令の制定、さらには平城京や藤原京に見られる計画都市の建設も、大陸から学んだ制度や文化の影響なくしては考えられない。
遣隋使は単なる外交使節ではなかった。
それは、日本が東アジアの国際社会の中で自らの立場を模索しながら、先進文明を積極的に取り入れ、新しい国家を築こうとした挑戦であったのである。
そしてその挑戦は、やがて大化改新を経て律令国家の完成へと結実していくことになる。
遣隋使によってもたらされた知識や人材は、やがて飛鳥時代後半の大改革へとつながっていく。その転換点となったのが、645年の乙巳の変と大化改新であった。
律令国家への道
飛鳥時代から奈良時代にかけて、日本は豪族たちの連合政権から、天皇を中心とする律令国家へと大きく変貌していった。
その変革は一夜にして成し遂げられたものではない。聖徳太子の時代に始まった政治改革や遣隋使による国際交流が土台となり、その後およそ一世紀にわたる試行錯誤を経て、新しい国家の姿が形づくられていったのである。
● 大化改新とのつながり
645年、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足らは、蘇我入鹿を討った「乙巳の変」を起こした。
これを契機として始まった一連の改革が、いわゆる「大化の改新」である。
新政府は改新の詔を発し、豪族による私的な支配を見直し、天皇を中心とする国家体制の確立を目指した。その中で示されたのが、土地や人民を国家の管理下に置くという理念であり、後の公地公民制へとつながる重要な方向性であった。
もっとも、これらの改革が直ちに全国で実現したわけではない。実際には、その後も長い年月をかけて制度整備が進められていくことになる。
さらに663年の白村江の戦いで倭国は唐・新羅連合軍に大敗した。
この敗戦は国家に大きな衝撃を与え、朝廷は防衛体制の強化と中央集権化を急速に進めることとなった。律令国家形成が加速した背景には、この国難への危機感があったのである。
● 天武・持統朝への継承
672年、皇位継承をめぐる壬申の乱が勃発する。
この内乱に勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、強力な王権の確立を進めた。
天武朝から持統朝にかけては、律令国家形成のための基盤整備が本格化する。戸籍の整備や官僚制度の再編、中央集権化の推進などが進められ、国家統治の仕組みが次第に整えられていった。
また、この時代には「日本」という国号や「天皇」という称号が定着していったと考えられている。
持統天皇は694年、飛鳥から藤原京へ遷都した。藤原京は中国の都城制を参考にした日本初の本格的な条坊制都市であり、律令国家にふさわしい都の姿を示していた。
こうした天武・持統朝の取り組みの集大成として、701年に文武天皇のもとで大宝律令が制定される。
刑法にあたる「律」と行政法にあたる「令」を備えた本格的な法体系が整備され、日本は名実ともに律令国家として歩み始めることになった。
● 奈良時代へ続く国家形成
制度が整備された日本は、さらに国家の発展を進めていく。
710年、元明天皇は平城京へ遷都した。新しい都は唐の長安を手本とした大規模な計画都市であり、律令国家の首都として整備された。
地方では班田収授法にもとづいて口分田が与えられ、人々は租・庸・調と呼ばれる税や労役の義務を負った。こうして全国を統一的に統治する仕組みが整えられていった。
また、この時代には国家の歴史と正統性を示すための事業も進められる。
712年には『古事記』、720年には『日本書紀』が完成し、日本の神話や天皇家の歴史が体系的に記録された。これらは単なる歴史書ではなく、新たに成立した律令国家を支える思想的な基盤でもあった。
振り返れば、その出発点には推古天皇・厩戸皇子・蘇我馬子らが進めた飛鳥時代の改革があった。
冠位十二階、十七条憲法、遣隋使の派遣によって蒔かれた種は、大化改新や天武・持統朝の改革を経て大きく育ち、やがて奈良時代の律令国家として実を結んだのである。
こうした壮大な国家形成の歴史を思い浮かべながら飛鳥の地を歩くと、のどかな田園風景の中に、日本という国の原点が息づいていることを実感させられる。
飛鳥の地を歩いて感じたこと
飛鳥の地を歩いていると、そこに広がる穏やかな田園風景とは裏腹に、この国が形づくられていった時代の濃密な歴史の息吹を感じることができる。
のどかな農村風景が広がる小さな盆地。しかし、その静かな景観の中には、日本という国家の原点ともいうべき物語が刻まれている。
飛鳥を訪れる魅力は、単に史跡を見学することだけではない。その土地に立ち、風を感じながら歩くことで、1400年前の人々の息遣いに触れられることにある。
● 歴史が凝縮された小さな盆地
飛鳥の地は、周囲をなだらかな山々に囲まれたコンパクトな盆地である。
その限られた空間の中に、聖徳太子ゆかりの寺院、蘇我氏の足跡を残す史跡、歴代天皇の宮跡、そして乙巳の変の舞台となった伝飛鳥板蓋宮跡など、日本史を動かした場所が驚くほど集中している。
集落や田畑の間を歩いていると、思いがけず古代の遺構と出会う。
教科書でもよく知られる石舞台古墳をはじめ、亀石、酒船石、猿石など、その用途や意味が今なお明らかになっていない石造物が、ごく自然に地域の風景の中へ溶け込んでいる。
飛鳥の不思議な魅力は、歴史遺産が特別な空間として隔離されているのではなく、人々の日常生活と共存していることにある。
さらに周囲を見渡せば、飛鳥川の流れや丘陵の姿など、古代人たちも目にしたであろう風景が今なお残されている。
そのため飛鳥を歩いていると、単なる遺跡巡りではなく、過去と現在が地続きにつながる感覚を味わうことができるのである。
● 日本の原点を訪ねる意義
飛鳥を訪れる最大の意義は、この地が日本という国家の形成を見守った歴史の舞台であることにある。
推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子、中大兄皇子、天武天皇など、多くの歴史上の人物たちが、この地で新しい国のかたちを模索した。
豪族たちの連合政権から中央集権国家へ。
仏教受容をめぐる対立から国家理念の確立へ。
そして東アジアの国際社会の中で生きる国へ。
飛鳥の歴史は、そのまま日本の国家形成の歴史でもある。
また、この地には朝鮮半島や中国大陸からもたらされた文化や技術の痕跡が数多く残されている。
高松塚古墳やキトラ古墳の壁画、飛鳥寺の飛鳥大仏、各地の寺院跡や宮殿跡を目にすると、当時の人々が外の世界に学びながら、新しい時代を切り開こうとした情熱が伝わってくる。
資料館の展示を見るだけでは得られない感覚がある。
実際にその土地を歩き、空を見上げ、風を感じながら史跡を巡ることで、
「ここで聖徳太子が未来の国づくりを考えていたのだろう」
「ここで中大兄皇子や中臣鎌足が歴史を動かす決断を下したのだろう」
という実感が湧いてくる。
飛鳥の旅は、単なる歴史探訪ではない。
それは、自分たちが暮らしている日本という国の原点を見つめ直す旅であり、1400年もの時を超えて受け継がれてきた先人たちの思いに触れる旅でもある。
そして飛鳥の静かな風景の中に立つと、国家とは何か、文化とは何か、人々が未来へ受け継ごうとしたものは何だったのかを、あらためて考えさせられるのである。
◆ あとがき
私のような昭和生まれの世代にとって、聖徳太子は特別な存在である。
かつて一万円札の肖像画といえば聖徳太子だった。「聖徳太子が三枚ある」と言えば三万円を意味することは誰にでも通じたし、その顔を知らない日本人はいないと言っても過言ではなかったように思う。
それほどまでに身近な存在であったにもかかわらず、近年は「聖徳太子」という名前を耳にする機会が少なくなった。
現在の歴史教科書では、実名に近いと考えられる「厩戸王」あるいは「厩戸皇子」を基本とし、「聖徳太子(厩戸王)」と表記することが一般的になっているという。
歴史研究の進展によって人物の実像に迫ろうとする姿勢は極めて重要であり、それ自体に異論はない。しかし昭和世代の一人としては、「厩戸王」と聞いても、どうしても「聖徳太子」ほどの親しみを感じられないのも正直なところである。
時代が移り変わり、世代が交代していけば、やがて「厩戸王」という呼び名の方が自然になる日が来るのかもしれない。
それでも私は、斑鳩や飛鳥の地を歩きながら、この人物をこれからも「聖徳太子」と呼びたくなる。
なぜなら、その名には単なる歴史上の個人を超えた、日本人が長い歳月をかけて抱いてきた理想や憧れが込められているように思えるからである。
今回、聖徳太子ゆかりの寺院や史跡を巡り、その足跡をたどりながら改めて考えたのは、「太子はどのような国を目指していたのか」ということであった。
もちろん1400年前の人物の真意を正確に知ることはできない。しかし残された事績から見えてくるのは、古い身分や家柄だけに支配されない国家、道徳と法に支えられた秩序ある社会、そして東アジアの中で自立した国を築こうとする強い意思である。
その理想は、おおよそ次の三つに集約できるだろう。
- 血筋だけではなく、能力や人格を重視する国家
- 仏教や儒教の精神を礎とする調和ある社会
- 外国に従属することなく、自らの意思で歩む独立した国家
しかし、その壮大な構想が太子の生前に完成することはなかった。
既存勢力との対立は根強く、太子の死後には、理想を受け継ごうとした山背大兄王ら上宮王家も歴史の舞台から姿を消してしまう。
それでも太子が蒔いた種は失われなかった。
冠位十二階や十七条憲法に込められた理念は、大化改新へと受け継がれ、さらに天武天皇・持統天皇の時代を経て、大宝律令と平城京という形で大きく花開くことになる。
そう考えると、飛鳥を歩く旅とは、単に古代遺跡を巡る旅ではない。
それは、この国の原点を訪ねる旅であり、先人たちがどのような未来を思い描き、どのような社会を築こうとしたのかを見つめ直す旅でもある。
斑鳩や飛鳥の穏やかな風景の中に立つと、1400年前の人々が抱いた夢が、形を変えながらも今なお現代へ受け継がれていることに気づかされる。
そして聖徳太子が「厩戸王」と呼ばれる時代になったとしても、その功績と理想が語り継がれていく限り、飛鳥の地はこれからも日本の原点として、多くの人々を魅了し続けることだろう。

