| <目次> はじめに ヤマト王権とは何だったのか 邪馬台国からヤマト王権へ 纒向遺跡を訪ねて 箸墓古墳を訪ねて 大王たちが築いた古代の大和 巨大古墳が語る王権の力 大仙古墳を訪ねて 河内王朝と継体天皇をめぐる謎 飛鳥への道を開いた大王たち 古墳の地を歩いて感じたこと あとがき |
◆ はじめに
日本という国は、いつ、どのようにして生まれたのだろうか。
学校で学んだ歴史の中で、私たちは縄文時代や弥生時代、邪馬台国や聖徳太子について知る。しかし、その間をつなぐ「国家誕生の瞬間」については、意外なほど知られていない。
卑弥呼が治めたとされる邪馬台国の謎。纒向遺跡に現れた巨大な政治都市。突然出現する前方後円墳。そして、日本最大の大仙古墳へと続く壮大な古墳文化。
3世紀から6世紀にかけての約300年間は、日本列島各地の豪族たちが結びつき、対立し、そして統合されながら、「ヤマト王権」という広域政権を築き上げていった激動の時代であった。
その歩みは決して一直線ではない。
神話と歴史が入り混じり、英雄と巫女が活躍し、巨大古墳が築かれ、王統をめぐる争いが起こり、やがて仏教や大陸文化を受け入れながら飛鳥時代へと受け継がれていく。
私はこれまで、纒向遺跡や箸墓古墳、大仙古墳をはじめ、各地の古墳や古代史ゆかりの地を訪ね歩いてきた。
現地に立つと、歴史書の中では見えなかったものが見えてくる。
広大な古墳の墳丘に込められた人々の思い。大王たちが目指した国家の姿。そして、この国の成り立ちそのものへの問いかけである。
本稿では、実際に現地を訪ねながら、邪馬台国からヤマト王権、そして飛鳥時代へと至る古代国家誕生の道のりをたどってみたい。
大和の地に残る古墳や遺跡を巡る旅は、日本という国の原点に触れる歴史浪漫の旅でもあるのである。
ヤマト王権とは何だったのか
ヤマト王権とは、3世紀後半から4世紀にかけて大和(奈良盆地)を中心に形成された、古代日本最大の政治勢力である。大王(おおきみ)を中心に各地の有力豪族が結びついた連合政権であり、後の朝廷や律令国家へと発展していく日本古代国家形成の出発点となった。
その成立は、それまで各地に分立していた政治勢力が広域的な統合へ向かう大きな転換点であった。古墳時代を通じて、ヤマト王権は列島各地の豪族をまとめながら勢力を拡大し、日本列島の政治的統合を進めていったと考えられている。
ヤマト王権を特徴づけるものの一つが、前方後円墳である。奈良盆地で出現したこの独特な墳墓様式は、やがて九州から関東に至る広い範囲へと広がった。巨大な前方後円墳の分布は、各地の首長たちがヤマト王権を中心とする政治的・文化的ネットワークに参加していたことを示す有力な手がかりとされている。
また、ヤマト王権は「倭国」の代表として東アジアの国々と交流した。5世紀には、いわゆる「倭の五王」が中国南朝の宋に使節を派遣し、国際的な地位の確立を図ったことが中国の史書にも記されている。さらに朝鮮半島との交流を通じて、鉄器の製造技術や馬文化、漢字をはじめとする先進的な文化を受け入れた。6世紀になると仏教も伝来し、日本の政治や文化に大きな影響を与えることになる。
もっとも、初期のヤマト王権は後世のような中央集権国家ではなかった。大王が全国を直接支配していたわけではなく、各地の有力豪族がそれぞれの勢力基盤を維持しながら大王家と結びつく「豪族連合政権」の性格が強かったと考えられている。吉備や毛野をはじめとする有力豪族は、地域の支配権を保持しつつ、大王に軍事力や労働力を提供する関係にあった。
5世紀から6世紀にかけて王権の組織化はさらに進んだ。豪族には「臣(おみ)」や「連(むらじ)」などの姓(かばね)が与えられ、それぞれの地位や役割が明確化された。こうした氏姓制度の整備により、大王家を頂点とする支配体制が築かれ、後の中央集権国家への基盤が形づくられていった。
邪馬台国がどこに存在したのかという論争は現在も続いている。九州説と畿内説の双方に有力な論拠があり、決着はついていない。しかし、3世紀後半以降に奈良盆地東南部の纒向遺跡周辺が政治的中心地として急速に発展したことは広く認められており、ここが初期ヤマト王権の中枢を担った可能性は極めて高いと考えられている。
では、なぜヤマト王権は大和の地から誕生したのだろうか。
奈良盆地は周囲を山々に囲まれた天然の要害であり、防衛に適した地形を備えていた。また盆地内には豊かな水と肥沃な土地が広がり、当時の社会を支える稲作生産に非常に適していた。
さらに大和は、瀬戸内海・大阪湾を通じて西日本や海外と結ばれる一方、東海・関東方面や日本海側へ向かう交通路が交差する要衝でもあった。人・物・情報が自然に集まる地理的優位性は、広域政権の本拠地として大きな強みとなったのである。
そして大阪平野の河内地域は、朝鮮半島や中国大陸との交流を支える玄関口であった。ヤマト王権は河内の有力豪族と連携することで、大陸からもたらされる鉄器や先進技術、渡来人の知識を積極的に取り入れることができた。
このように大和は、豊かな生産力、防御に適した地形、そして国内外を結ぶ交通の結節点という条件を兼ね備えていた。ヤマト王権がこの地から成長し、日本最初の本格的な広域政治勢力へと発展したのは、決して偶然ではなかったのである。
邪馬台国からヤマト王権へ
邪馬台国とヤマト王権はどのようにつながっていたのだろうか。
これは日本古代史最大の謎の一つであり、現在も研究者の間で議論が続いているテーマである。結論から言えば、両者の間には政治的・文化的な連続性が認められるものの、邪馬台国そのものが発展してヤマト王権になったのか、それとも別の勢力によって引き継がれたのかについては、いまだ確定的な答えは出ていない。
『魏志倭人伝』によれば、2世紀後半に倭国では大きな争乱が続いていたが、女王・卑弥呼の登場によって収束したとされる。卑弥呼は約30ほどの小国からなる連合体の盟主として擁立され、それまでの地域的な勢力を超えた広域的な政治同盟を築き上げた。
ここで注目されるのは、卑弥呼の権力が単独の武力支配ではなく、諸国の首長たちの合意によって支えられていた点である。複数の有力豪族が共通の権威を中心に結びつくという仕組みは、後のヤマト王権が持つ豪族連合政権としての性格を考えるうえで興味深い共通点といえる。
卑弥呼は238年、中国の魏へ使者を送り、「親魏倭王」の称号や銅鏡などを授けられた。こうした外交関係は単なる国際交流ではなく、国内における権威の源泉でもあった。海外との外交を主導し、先進的な文物を受け入れて各地へ分配することが、倭国の盟主としての地位を支える重要な役割を果たしたのである。
卑弥呼の死後、宗女の台与(とよ)が王位を継ぎ、西晋へ使節を派遣したことが中国史書に記されている。しかし、その後しばらく倭国の記録は中国の正史から姿を消す。およそ4世紀を中心とするこの時期は、文字史料が極めて乏しいことから「空白の4世紀」と呼ばれている。
もっとも、この時代に何も起こらなかったわけではない。中国大陸では西晋が滅亡し、東アジアの国際情勢が大きく変化していた。倭の諸勢力も朝鮮半島との交流を深め、鉄資源や先進技術の獲得に積極的に関与していたと考えられている。
そして5世紀になると、中国の史書には再び倭王たちの姿が現れる。いわゆる「倭の五王」である。この頃には、倭国は卑弥呼の時代の連合体からさらに発展し、大王(おおきみ)を中心とする広域的な政治勢力へと成長していたことがうかがえる。
文字史料が乏しいこの時代の変化を語ってくれるのが、考古学の発掘成果である。近年の調査によって、邪馬台国からヤマト王権への連続性と変化の両面が次第に明らかになってきた。
その代表例が奈良県桜井市の纒向遺跡である。纒向遺跡は3世紀前半に突如として出現した巨大な拠点集落であり、各地の土器や物資が集まる広域交流の中心地であった。邪馬台国畿内説の重要な根拠の一つとして知られ、多くの研究者がその歴史的重要性を認めている。
さらに纒向遺跡の近くには、日本最古級の巨大前方後円墳である箸墓古墳が築かれている。築造時期が卑弥呼の没年とほぼ重なる可能性があることから、「卑弥呼の墓ではないか」とする説が有力である。ただし、決定的な証拠はなく、現在も学術的な議論が続いている。
もし纒向遺跡と箸墓古墳が邪馬台国と深く関わる遺跡であるならば、邪馬台国の中心地とヤマト王権の発祥地が同じ大和地域にあった可能性は非常に高くなる。邪馬台国とヤマト王権を連続した歴史として捉える立場が支持される大きな理由もここにある。
また、古墳から出土する三角縁神獣鏡にも注目したい。これらの鏡は畿内の有力古墳だけでなく全国各地の首長墓からも見つかっており、大和を中心とする政治的ネットワークの存在を示す資料と考えられている。魏から授けられた権威や外交的伝統が、後のヤマト王権にも受け継がれていった可能性をうかがわせる。
さらに弥生時代には地域ごとに異なる墓制が存在していたが、古墳時代に入ると前方後円墳が広範囲に広がる。出雲や吉備、九州、関東の有力首長たちが共通の形式の墳墓を採用したことは、列島規模で政治的・文化的な一体化が進んだことを示している。
こうした考古学的成果を総合すると、邪馬台国からヤマト王権への移行は単純な「断絶」ではなく、一定の連続性を持ちながら進んだ可能性が高い。卑弥呼の時代に形成された広域的な政治連合が、「空白の4世紀」を経てより大規模で組織的な政治体制へと発展し、その延長線上にヤマト王権が成立したと考える見方は、現在の歴史学・考古学において有力な説の一つとなっている。
もっとも、邪馬台国の所在地も、卑弥呼の墓も、なお最終的な結論には至っていない。しかし、だからこそ古代史は面白い。纒向の地に立つと、邪馬台国からヤマト王権へと受け継がれていった歴史の鼓動を、今なお身近に感じることができるのである。
纒向遺跡を訪ねて
奈良県桜井市に広がる纒向(まきむく)遺跡は、3世紀前半から中頃にかけて営まれた日本最大級の古代遺跡である。
近年の発掘調査によって、その実態は従来考えられていた一集落の規模をはるかに超えるものであることが判明した。現在では、初期ヤマト王権の政治的中枢、あるいは邪馬台国と深く関係する拠点であった可能性が高い遺跡として注目を集めている。
纒向遺跡が特に重要視されるのは、それまでの弥生時代の集落とは性格が大きく異なる点にある。
従来の集落が自然発生的に成長したのに対し、纒向は広大な区域に計画的に整備された拠点であり、日本最初の本格的な政治都市とも評される存在である。
その周辺には、箸墓古墳をはじめ、纒向石塚古墳、ホケノ山古墳など古墳時代初頭の重要な墳墓が集中している。これらは前方後円墳という新たな墳墓様式の成立を示す遺跡群であり、後に全国へ広がる古墳文化の出発点として極めて重要な価値を持っている。
また、纒向遺跡からは延長数キロにおよぶ大型の導水施設が確認されている。こうした土木事業を実現するには、多くの人員と高度な指導力が必要であり、この地域に強力な政治的統率力を持つ勢力が存在していたことをうかがわせる。
発掘成果が明らかにした最大の特徴は、纒向が単なる地方集落ではなく、広域的な交流の中心地であったことである。
遺跡から出土する土器の相当数は大和地域以外で製作されたものであり、その分布範囲は九州、吉備、出雲、近江、東海、さらには関東地方にまで及んでいる。遠隔地から人や物資が集まっていたことは疑いなく、この地が列島規模のネットワークの中心であったことを示している。
2009年には、遺跡中央部の辻地区で大型建物群の跡が発見された。4棟の建物が一直線に整然と配置されたその構造は極めて計画的であり、一般的な住居とは明らかに異なる性格を持っていた。
建物の用途については諸説あるものの、政治的な会議や祭祀儀礼の場であった可能性が高いと考えられている。後世の宮殿や朝廷へとつながる公的施設の原型を見る思いがする。
さらに周辺からは約2,700個もの桃の種が見つかっている。古代中国や日本では桃は邪気を払う霊力を持つと信じられており、祭祀との関連が指摘されている。また木製祭器や各地の土器も数多く出土しており、纒向が政治と祭祀の双方を担う特別な空間であったことを物語っている。
こうした発見は、長年続いてきた邪馬台国論争にも大きな影響を与えた。
近年の放射性炭素年代測定や年輪年代学の成果によって、纒向遺跡の最盛期や大型建物群、さらには箸墓古墳の築造時期がおおむね3世紀前半から中頃に位置づけられるようになった。この年代は、卑弥呼が活躍したとされる時期と重なる可能性が高い。
また、『魏志倭人伝』には邪馬台国について、「宮室・楼観・城柵を設けて厳重に守る」と記されている。もちろん記述をそのまま纒向に当てはめることはできないが、同時代における広域政治拠点としては、纒向遺跡が極めて有力な候補であることは間違いない。
纒向遺跡の南東に位置する箸墓古墳は、宮内庁によって倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。しかし考古学の世界では、その築造時期や規模などから卑弥呼との関連を指摘する研究者も少なくない。
もっとも、現時点で「箸墓古墳=卑弥呼の墓」と断定できる証拠は存在しない。むしろ、この巨大古墳がなぜこの時期に突然出現したのかという謎こそが、多くの研究者を惹きつけ続けているのである。
私が実際に纒向の地を歩いて印象的だったのは、ここが単なる遺跡ではなく、日本という国の原点を感じさせる場所だということであった。
もし邪馬台国と纒向が深く結びついているのなら、この場所こそ卑弥呼が見た風景であり、そして後に大王たちが日本初の広域政権を築き上げていく舞台となったことになる。
邪馬台国とヤマト王権を結ぶ歴史の空白は、いまだすべてが解き明かされたわけではない。しかし纒向の広大な遺跡の中に立つと、その空白の奥から、日本国家誕生の鼓動が静かに聞こえてくるような気がした。
箸墓古墳を訪ねて
纒向遺跡の南東部に静かに横たわる箸墓(はしはか)古墳は、奈良県桜井市を代表する古墳であり、日本最古級の巨大前方後円墳として知られている。
その築造年代は3世紀後半頃と考えられており、古墳時代の幕開けを象徴する記念碑的な存在である。考古学者の中には、この古墳の出現こそがヤマト王権の成立を示す重要な出来事であったと評価する人も少なくない。
箸墓古墳の全長は約280メートルに及ぶ。
弥生時代後期にも大型の墳丘墓は存在したが、その規模は数十メートルから100メートル程度であった。箸墓古墳はそれらを大きく上回る規模を誇り、当時の人々にとって圧倒的な存在感を放っていたことは想像に難くない。
墳丘は前方部と後円部から構成され、後円部は5段、前方部は3段に築かれている。完成度の高い設計は、後に全国へ広がる前方後円墳の原型になったと考えられている。
実際、4世紀以降になると、吉備や毛野、北部九州、関東など各地の有力豪族が前方後円墳を築くようになる。箸墓古墳は、大王墓のモデルとして後世に大きな影響を与えた可能性が高い。
これほど巨大な墳墓を築くには、膨大な労働力と高度な組織力が必要である。
墳丘を覆う大量の葺石には大和盆地周辺だけでなく河内方面から運ばれた石材も含まれているとされ、広域的な動員体制が存在していたことをうかがわせる。箸墓古墳そのものが、初期ヤマト王権の政治力を示す壮大なモニュメントだったのである。
『日本書紀』には、この古墳について興味深い伝承が記されている。
それによれば、「昼は人が造り、夜は神が造った」とされ、大坂山の石を人々が列をなして手渡しで運んだという。もちろん神話的な表現ではあるが、それほどまでに人々の記憶に残る巨大工事だったことを物語っている。
では、この巨大古墳の被葬者は誰なのだろうか。
現在、宮内庁は箸墓古墳を第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓として管理している。
一方で考古学の分野では、古くから「卑弥呼の墓ではないか」という説が語られてきた。
その理由の一つは築造年代である。出土土器の型式や放射性炭素年代測定の成果から、箸墓古墳は3世紀後半頃に築かれたと考えられている。この年代は、248年頃に没したとされる卑弥呼の時代と比較的近く、年代的な矛盾が少ない。
また、『魏志倭人伝』には卑弥呼の墓について「大いに冢を作る。径百余歩」と記されている。
この「径百余歩」がどの程度の大きさだったのかは諸説あるが、箸墓古墳の後円部の規模と一定の比較が可能であることから、卑弥呼墓説を支持する論拠の一つとなっている。
さらに興味深いのは、倭迹迹日百襲姫命その人である。
『日本書紀』では神託を受ける巫女的な性格を持つ女性として描かれており、その姿は『魏志倭人伝』に記された鬼道を操る女王・卑弥呼を連想させる。もちろん両者を同一人物と断定することはできないが、古代の伝承の中に何らかの歴史的記憶が反映されている可能性は十分に考えられる。
もっとも、現時点では箸墓古墳の被葬者を特定できる決定的な証拠は存在しない。
宮内庁の管理下にあるため本格的な発掘調査は行われておらず、今後もなお多くの謎を残している。しかし近年の航空レーザー測量や周辺調査によって、その築造年代や構造についての理解は着実に深まっている。
私が実際に箸墓古墳を訪れて強く感じたのは、その圧倒的な存在感であった。
周囲の田園風景の中に横たわる巨大な墳丘は、写真で見るよりはるかに大きく、3世紀の人々がこの古墳を目の当たりにしたときの衝撃を想像せずにはいられない。
纒向遺跡の中心にそびえるこの巨大古墳は、単なる一人の支配者の墓ではなく、新しい時代の到来を告げる象徴だったのかもしれない。
卑弥呼であれ、台与であれ、あるいは別の王であれ、その死を契機として各地の豪族が結集し、「大王を中心とする新たな秩序」を受け入れた。その象徴として築かれたのが箸墓古墳だったのだとすれば、私たちはここに、日本という国が形を取り始めた歴史の瞬間を見ることができるのである。
大王たちが築いた古代の大和
箸墓古墳が築かれた3世紀後半以降、ヤマト王権はしだいに勢力を拡大し、日本列島を代表する広域政権へと成長していった。
4世紀から5世紀にかけての時代は、古墳文化が全国へ広がり、大王を頂点とする政治秩序が形づくられていく重要な時期である。そして『古事記』や『日本書紀』には、この時代の王権形成を象徴する数々の大王たちの物語が伝えられている。
もちろん、これらの記録には神話や伝承も多く含まれている。しかし、その背後にはヤマト王権が列島各地へ影響力を広げていった歴史的な記憶が投影されているとも考えられている。
● 崇神天皇と王権の拡大
第10代とされる崇神天皇は、『日本書紀』において「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」、すなわち「初めて国を治めた天皇」と称えられている。
現在の歴史学では、崇神天皇その人の実在を証明することはできない。しかし、その時代の記録には王権の拡大や統治制度の整備を思わせる記事が多く見られることから、初期ヤマト王権の発展過程を象徴する存在として注目されている。
記紀によれば、崇神天皇は四道将軍を各地へ派遣し、北陸・東海・丹波・西道(山陽方面)へ王権の影響力を広げたという。
史実かどうかは別として、この伝承は大和の勢力が近畿一円を超えて列島規模の政治勢力へ成長していった過程を反映しているとも考えられている。
また、疫病の流行や神々の祭祀の混乱が語られている点も興味深い。単なる軍事的支配ではなく、人々の信仰を統合することが王権にとって重要な課題だったことを物語っている。
● 垂仁天皇と祭祀国家の形成
第11代とされる垂仁天皇の時代になると、記紀の物語は領土拡大よりも祭祀や制度整備に重点を置くようになる。
特に有名なのが、皇祖神である天照大御神を祀る地を求めて、皇女・倭姫命が各地を巡幸したという伝承である。
その旅の終着点が伊勢であり、これが後の伊勢神宮の起源として語り継がれている。
歴史的事実としてそのまま受け取ることはできないものの、この伝承はヤマト王権が各地の信仰を取り込みながら、自らの権威を支える宗教的基盤を築いていったことを象徴している。
また垂仁天皇の時代には、殉死の代わりに埴輪を用いるようになったという有名な説話も伝えられている。
実際には埴輪の起源や発展にはさまざまな要因が考えられているが、古墳文化の発展とともに新しい葬送儀礼が形成されていったことをうかがわせる興味深い伝承である。
● 景行天皇とヤマトタケルの伝説
第12代とされる景行天皇、そしてその皇子ヤマトタケルの物語は、記紀の中でも最も壮大な英雄譚として知られている。
記紀によれば、景行天皇は九州の熊襲や東国の勢力に対する遠征を進め、その中心的な役割を担ったのがヤマトタケルであった。
ヤマトタケルは熊襲征討や東国平定を成し遂げた英雄として描かれている。草薙剣を携え、各地の困難を乗り越えながら進軍する姿は、後世の人々に強い印象を与えた。
もっとも、これらをそのまま史実とみなすことはできない。
しかし、王権が東海地方や関東地方へ影響力を拡大していった歴史的過程や、各地の豪族との関係を物語として表現したものと考えることはできるだろう。
遠征の帰途、ヤマトタケルは伊勢から東国へ向かう途中で力尽き、現在の三重県亀山市から鈴鹿市周辺とされる能褒野で亡くなったと伝えられる。
そしてその魂は巨大な白鳥となって空へ舞い上がり、大和を目指して飛び去ったという。
この「白鳥伝説」は現在も大阪府の白鳥陵や奈良盆地周辺の各地に伝わっており、多くの人々がヤマトタケルを慕い続けてきたことを物語っている。
● 神話から歴史へ
崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇、そしてヤマトタケル。
彼らの物語は神話と伝承に彩られている。しかし、その背後には王権の拡大、祭祀の整備、地方豪族との統合という、ヤマト王権が国家へと成長していく歩みが映し出されている。
記紀に描かれる大王たちは、単なる超人的な英雄ではない。
疫病や反乱に苦しみ、神々の意思に悩み、家族や家臣との葛藤を抱える極めて人間味のある存在として描かれている。
それは、中国王朝のような強力な中央集権国家とは異なり、多様な地域社会や信仰を抱える列島をまとめ上げるために試行錯誤を重ねたヤマト王権の姿そのものなのかもしれない。
古墳が次々と築かれ、大王の権威が全国へ広がっていった4世紀から5世紀。その歩みこそが、後の日本国家へとつながる「古代の大和」の礎となったのである。
巨大古墳が語る王権の力
4世紀から5世紀にかけての日本列島では、巨大な前方後円墳が次々と築かれた。
それらは単なる墓ではない。巨大古墳の出現と全国への広がりは、ヤマト王権が各地の豪族を自らの政治秩序へ組み込みながら発展していった過程を物語る重要な歴史資料である。
文字による記録が乏しい古墳時代において、古墳そのものが当時の政治構造を伝える「石と土の史書」と言ってよいだろう。
前方後円墳は、後円部と前方部を組み合わせた日本独特の墳墓形式である。
なぜこの不思議な形が生まれたのかについては諸説あるが、埋葬の場と祭祀の場を一体化したものではないかと考える研究者もいる。
その起源は古墳時代初頭の大和地方に求められ、箸墓古墳はその完成形を示す最初期の巨大前方後円墳として知られている。
弥生時代には、出雲の四隅突出型墳丘墓や吉備の特殊器台を伴う墳丘墓など、地域ごとに独自の墓制が存在していた。
ところが古墳時代に入ると、前方後円墳という共通様式が急速に広がり始める。
この変化は、各地域の首長たちが共通の政治的・文化的ネットワークに参加するようになったことを示していると考えられている。
特に注目すべきなのは、前方後円墳の規模に明確な階層性が見られることである。
最大級の古墳は大王墓と考えられる畿内に集中し、地方へ行くほど規模は小さくなる傾向がある。
つまり古墳の大きさそのものが、当時の政治的地位や権力の大きさを示す指標として機能していた可能性が高いのである。
4世紀以降、前方後円墳は近畿地方から九州、瀬戸内、東海、関東へと広がっていく。
地方豪族が大和の王権と同じ形式の墳墓を築いたことは、自らがその政治秩序の一員であることを示す象徴的な行為だったのかもしれない。
そこには単なる模倣ではなく、「ヤマト王権と結びつくことで権威を得る」という政治的意味が込められていたと考えられている。
また、各地の古墳からは三角縁神獣鏡をはじめとする青銅鏡や鉄製武器、甲冑、馬具などが出土している。
これらの副葬品の中には、大和政権を中心とする流通網や外交ネットワークを通じてもたらされたものも少なくない。
王権が先進的な技術や貴重な品々を掌握し、それを各地の豪族へ分配することで政治的な結び付きを強めていた可能性が指摘されている。
古墳の分布を地図上に描いてみると、さらに興味深い事実が見えてくる。
大王墓が集中する大和・河内地域に次いで、特に大規模な古墳が築かれているのは、王権にとって重要な地域ばかりなのである。
たとえば吉備では、岡山市の造山古墳が全長約350メートルを誇り、全国有数の規模を持つ。
その巨大さは、吉備が単なる地方勢力ではなく、ヤマト王権と並び立つほどの有力勢力、あるいは王権を支える重要な同盟勢力であったことをうかがわせる。
また東国では、群馬県の太田天神山古墳が全長約210メートルを誇る。
関東地方にこれほど巨大な古墳が存在することは、上毛野地域が東国経営の重要拠点であり、ヤマト王権との密接な関係を持っていたことを示している。
さらに九州や東海地方にも有力な前方後円墳が数多く築かれており、列島規模の政治ネットワークが形成されていた様子がうかがえる。
こうして見ると、ヤマト王権は単純に武力だけで全国を制圧した政権ではなかったことが分かる。
むしろ、大王を頂点とする秩序の中で、各地の豪族に地位や権威を認めながら結び付きを強めていった連合政権としての性格が強かったのである。
巨大古墳は、その仕組みを目に見える形で示した象徴だった。
前方後円墳という共通の様式、各地へ広がる副葬品のネットワーク、そして地域ごとに階層化された古墳の規模。それらは、人々が同じ政治秩序の中に組み込まれていったことを雄弁に物語っている。
古墳の地を歩いていると、そこに眠るのは単なる王や豪族ではなく、日本列島を一つの共同体へとまとめようとした時代そのものではないかと思えてくるのである。
大仙古墳を訪ねて
大阪府堺市にある大仙古墳(だいせんこふん)は、日本最大の前方後円墳であり、百舌鳥(もず)古墳群を代表する存在である。
教科書や歴史番組で何度も目にしてきた古墳だが、実際に訪れると、その巨大さは想像をはるかに超えている。空から見なければ全体像を把握できないほどの規模は、古代日本における王権の大きさを今に伝えている。
大仙古墳は、宮内庁によって「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として管理され、第16代仁徳天皇陵に治定されている。
墳丘の全長は約486メートルに及び、周囲の濠を含めると広大な範囲を占める。その規模は世界有数であり、しばしばエジプトのクフ王ピラミッドや中国の秦始皇帝陵と並ぶ巨大墳墓の一つとして紹介される。
この古墳が築かれたのは5世紀前半から中頃と考えられている。
正確な築造期間は分かっていないが、これほど巨大な墳墓を築くためには膨大な土木工事と人員動員が必要であったことは間違いない。高度な測量技術と計画性、そして広域にわたる政治的統率力がなければ実現できなかった事業である。
記紀に描かれる仁徳天皇は、民の暮らしを思いやる「聖帝」として知られる。
高殿に上って国を見渡した際、民家から炊煙が上がっていないことに気づき、三年間にわたって税や労役を免除したという有名な説話は、多くの日本人に親しまれてきた。
もちろん、この話をそのまま史実とみることはできない。しかし、後世の人々が仁徳天皇を理想的な統治者として記憶していたことは確かであろう。
現在、大仙古墳では本格的な学術発掘は行われていない。
そのため被葬者が誰なのかを断定することはできないが、周辺の調査成果や出土遺物の研究から、5世紀前半頃の大王墓である可能性が高いと考えられている。
また、中国の史書に登場する「倭の五王」が活躍した時代とも重なるため、その時代の大王に関わる陵墓ではないかとする見解もある。ただし、具体的に誰の墓であるかについては現在も議論が続いている。
大仙古墳は単独で存在しているわけではない。
その周辺には大小さまざまな古墳が築かれ、巨大な百舌鳥古墳群を形成している。さらに隣接する羽曳野市・藤井寺市の古市古墳群とともに、2019年には「百舌鳥・古市古墳群-古代日本の墳墓群」としてユネスコ世界文化遺産に登録された。
この古墳群を歩いていると、5世紀のヤマト王権がいかに巨大な政治勢力へ発展していたかを実感する。
初期ヤマト王権の中心は奈良盆地にあったが、5世紀になると大阪平野、とりわけ河内地域の重要性が高まった。大阪湾は朝鮮半島や中国大陸へ通じる海上交通の玄関口であり、海外との交流を担う重要な拠点だったのである。
大仙古墳が築かれた場所も、当時の海岸線に比較的近い位置にあったと考えられている。そのため、この巨大古墳は単なる墳墓ではなく、国内外へ王権の威信を示す役割も果たしていたのではないかと考える研究者もいる。
そして百舌鳥古墳群を見渡すと、さらに興味深いことに気づく。
大仙古墳の周囲には、陪塚と呼ばれる小型古墳や、前方後円墳、円墳、方墳が数多く配置されているのである。その姿は、大王を頂点とし、有力豪族や一族が取り巻く当時の政治秩序を立体的に表しているようにも見える。
私は大仙古墳の周囲を歩きながら、奈良県の纒向遺跡や箸墓古墳のことを思い出した。
3世紀の纒向で生まれたばかりのヤマト王権は、箸墓古墳という最初の巨大プロジェクトを経て、やがて5世紀にはこの大仙古墳を築き上げるまでに成長したのである。
纒向が「国家誕生の舞台」だとすれば、大仙古墳は「王権完成の象徴」と言えるかもしれない。
その圧倒的な大きさを前にすると、古代の人々が大王という存在に抱いた畏敬の念が、千六百年の時を超えて静かに伝わってくるのである。
河内王朝と継体天皇をめぐる謎
ヤマト王権の歴史を語るうえで、最も興味深いテーマの一つが「継体天皇の即位」をめぐる謎である。
5世紀に絶頂を迎えたヤマト王権は、その後どのようにして6世紀の新たな時代へ移行したのか。そして天皇家の系譜は本当に途切れることなく続いていたのか。この問題は現在も研究者たちの議論が続く日本古代史最大級のミステリーである。
5世紀のヤマト王権は、大阪平野の河内地域を重要な政治拠点とし、百舌鳥・古市古墳群に代表される巨大古墳を次々と築いた。
この時代になると、副葬品にも大きな変化が見られる。4世紀頃まで重視されていた鏡や玉類に加え、大量の鉄製武器や甲冑、馬具などが目立つようになり、王権の軍事的性格がより強まったことをうかがわせる。
その象徴的な発見が、熊本県の江田船山古墳や埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣である。
これらには「ワカタケル大王」と読める銘文が刻まれており、多くの研究者は『日本書紀』に登場する雄略天皇との関連を指摘している。
特に注目されるのは、このような王権の名が九州や関東の有力豪族の古墳から発見されたことである。それは、5世紀後半には広範囲にわたる政治的ネットワークが形成されていたことを示している。
この時代の大王たちは、中国の正史『宋書』倭国伝に登場する「倭の五王」と関係すると考えられている。
讃・珍・済・興・武の五王は、中国南朝へたびたび使節を派遣し、自らの地位を国際的に認めさせようとした。特に「武」の上表文は有名であり、祖先以来の武功を誇りながら王権の正統性を訴えている。
その中には、
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」
という記述も見られる。
もちろん、この数字を文字どおり受け取ることはできない。しかし、当時の王権が列島各地へ勢力を広げたという自負を示す貴重な史料であることは間違いない。
ところが、このように隆盛を極めた王権にも大きな転機が訪れる。
5世紀末から6世紀初頭にかけて、皇位継承をめぐる状況が大きく変化したのである。
ここで登場するのが、いわゆる「王朝交替説」である。
この説は、法制史学者の水野祐氏によって提唱された学説で、ヤマト王権の歴史には複数回の王統交代があったと考える。
特に注目されたのが、第26代継体天皇の即位であった。
『古事記』『日本書紀』によれば、継体天皇は応神天皇の五世の孫にあたり、越前国で育った男大迹王(おおどのおう)であったという。
しかし、応神天皇から数えて五代も離れていることや、即位当初の政治基盤が近江や越前にあったことから、
「実際には地方の有力勢力が新たに王位を継承したのではないか」
という見方が生まれたのである。
もっとも、この説は現在でも決着していない。
継体系譜の信頼性を認める研究者も多く、王朝そのものが交代したと断定できる証拠も存在していない。
しかし、継体天皇の即位過程が極めて特異であったことは確かである。
507年に即位した継体天皇は、すぐには大和へ入らず、河内や山背などを拠点として政治を行った。記録によれば、大和に本格的な宮を構えたのは即位から約20年後のことである。
この事実は、当時の政権内部で複雑な政治調整が行われていたことを想像させる。そこに武力対立があったのか、有力豪族との交渉が続いていたのかは分からない。しかし王権の再編成が進められていたことは間違いないだろう。
さらに継体天皇は、先帝の血統につながる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に迎えている。
これによって新たな政権と従来の王統との結び付きが強化され、王権の正統性が支えられたと考えられている。
そして継体天皇の系統から、欽明天皇、推古天皇、さらには聖徳太子が活躍する時代へとつながっていく。
この意味で、継体天皇の即位は単なる皇位継承ではなかった。
それは、5世紀の武人的な王権から、飛鳥時代へ向かう新しい国家体制への転換点だったのである。
河内の巨大古墳群が象徴する時代が終わりを迎え、新たな政治秩序が模索される中で誕生した継体天皇。その即位をめぐる謎は、ヤマト王権が崩壊の危機を乗り越え、後の飛鳥国家へと再生していく過程を映し出している。
だからこそ継体天皇の物語は、単なる皇室の系譜の問題ではなく、「日本という国家がどのように生き残り、発展したのか」を考える上で欠かせない重要なテーマなのである。
飛鳥への道を開いた大王たち
5世紀から6世紀にかけての大王たちの歩みは、武力を背景に勢力を拡大した古墳時代から、制度と文化によって国家を支える飛鳥時代へと移り変わる、大きな転換期であった。
巨大古墳が次々と築かれた時代の終わりとともに、日本は新たな国家形成の段階へと歩み始める。その橋渡しを担ったのが、雄略天皇や継体天皇をはじめとする大王たちであった。
● 雄略天皇と王権の絶頂
5世紀後半に活躍した第21代雄略天皇は、『日本書紀』の中でも特に個性の強い大王として描かれている。
時に苛烈な性格の持ち主として語られる一方で、強大な指導力を発揮した王としても記憶されている。
考古学上でも、雄略天皇は実在した可能性が高い大王の一人と考えられている。
その大きな理由が、埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣である。
これらの銘文には「ワカタケル大王」と読める文字が刻まれており、多くの研究者はこれを雄略天皇に比定している。
九州や関東の有力豪族が同じ大王との関係を誇示していたことは、5世紀後半の王権が広範囲な政治的ネットワークを築いていたことを示している。
また、中国南朝の史書『宋書』に登場する「倭王武」を雄略天皇とみる説も有力である。
倭王武が宋へ送った上表文には、
「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国」
と記されている。
数字そのものの正確性は別として、当時の王権が各地へ勢力を広げ、自らを列島の盟主として認識していたことがうかがえる。
さらにこの時代には、多くの渡来人がヤマト王権に仕えた。
製鉄技術、土木技術、機織り、須恵器生産など、多様な知識や技術がもたらされ、王権の経済力と文化水準は大きく向上していったのである。
● 継体天皇と王権の再編
しかし、雄略天皇の死後、王権は必ずしも安定していたわけではなかった。
皇位継承をめぐる混乱が続き、6世紀初頭には新たな体制づくりが求められることになる。
その中で即位したのが第26代継体天皇である。
継体天皇は507年に即位したが、すぐには大和へ入らず、河内や山背を拠点として政治を行った。最終的に大和へ進出するまでには長い年月を要している。
この経緯から、当時の王権内部では複雑な政治的調整が行われていたと考えられている。
継体天皇は、既存の有力豪族である大伴氏や物部氏との協力関係を維持しながら、王権再建に取り組んだ。
さらに後に大きな力を持つ蘇我氏も、この時期から存在感を強めていく。
継体朝を語る上で欠かせない出来事が、528年の磐井の乱である。
筑紫君磐井は北部九州に強い影響力を持つ豪族であり、新羅との外交問題を背景にヤマト王権と対立したとされる。
継体天皇は物部麁鹿火を派遣してこれを鎮圧した。
この出来事は、王権が地方支配を強化していく過程を示す象徴的な事件として位置付けられている。
また、この頃から屯倉(みやけ)と呼ばれる王権直轄地の整備が進み、中央による統治体制が徐々に強化されていったと考えられている。
● 巨大古墳の時代の終わり
継体天皇の時代を経て、古墳文化そのものにも大きな変化が現れる。
5世紀には大仙古墳に代表される巨大前方後円墳が築かれたが、6世紀後半になると、その築造は急速に終息へ向かった。
代わって横穴式石室を持つ比較的小規模な古墳や群集墳が各地に広がるようになる。
これは単なる墓制の変化ではない。
巨大古墳によって権威を示す時代から、別の形で権力を表現する時代へ移行したことを意味していた。
● 仏教と飛鳥の時代へ
その新たな象徴となったのが仏教である。
6世紀半ば、百済から仏教が伝来すると、ヤマト王権は新しい思想と文化に直面することになった。
仏教の受容をめぐっては、蘇我氏と物部氏の対立がよく知られている。
蘇我稲目、馬子らは積極的な受容を主張し、物部氏は伝統的な祭祀を守る立場からこれに反対した。
最終的に蘇我氏が主導権を握ると、寺院建設や仏教文化の導入が急速に進み、日本は新しい時代を迎える。
その舞台となったのが、大和盆地南部の飛鳥であった。
飛鳥には寺院や宮殿が建てられ、渡来文化を吸収しながら日本最初の本格的な国家文化が花開いていく。
● 飛鳥への扉を開いた大王たち
雄略天皇が象徴する武力中心の王権。
継体天皇が進めた王権の再編。
そして欽明天皇の時代に本格化する仏教受容と新たな国家構想。
これらは断絶した歴史ではなく、一つの流れの中でつながっている。
纒向に始まり、箸墓古墳を生み、大仙古墳に至った古墳時代の王権は、やがて飛鳥の宮殿と寺院へ姿を変えていったのである。
聖徳太子や推古天皇が活躍する飛鳥時代は突然現れたわけではない。その背後には、幾世代にもわたって王権を支え続けた大王たちの試行錯誤と改革の積み重ねがあった。
飛鳥への道を開いたのは、まさに彼ら大王たちだったのである。
古墳の地を歩いて感じたこと
実際に古墳の地を歩き、その圧倒的なスケールと静謐な空気に包まれると、教科書や歴史書の文字だけでは決して伝わってこない古代の息吹を感じることができる。
全国各地に点在する緑の丘は、単なる古い墓ではない。
それは、1500年以上も前に生きた人々が、より大きな共同体を築こうとした時代の記憶を封じ込めたタイムカプセルのような存在なのである。
奈良の纒向や大阪の百舌鳥・古市といったヤマト王権の中心地だけではない。
岡山、群馬、福岡、宮崎、さらには関東各地の古墳群を訪ねるたびに、私は「古代の人々は想像していた以上に広くつながっていたのだ」という驚きを覚えた。
武蔵野の台地を歩いていても、筑紫平野を歩いていても、あるいは吉備の平野を訪れても、そこには前方後円墳が静かに横たわっている。
遠く離れた土地でありながら、共通する墓制や副葬品、土木技術が見られる事実は、古墳時代の日本列島が広域的な政治的・文化的ネットワークによって結ばれていたことを教えてくれる。
また、地方の巨大古墳の前に立つと、大和の大王だけが歴史の主役だったわけではないことにも気づかされる。
たとえば岡山の造山古墳や群馬の太田天神山古墳は、地方豪族の力の大きさを物語る代表的な存在である。
そうした古墳を前にすると、各地域の人々が独自の誇りや伝統を持ちながらも、大和を中心とする大きな秩序の中で生きていたことが実感できる。
そこには単なる支配と服従ではなく、競争と協力を繰り返しながら形成された古代社会のダイナミズムが感じられるのである。
大仙古墳の濠に沿って歩いたときのことも忘れられない。
木々の向こうに広がる巨大な墳丘は、その全貌を見せてはくれない。だが、その見えない巨大さこそが、かえって古代の大王の存在感を伝えているように思えた。
また、箸墓古墳を遠くから見上げたときには、纒向の地に芽生えたばかりのヤマト王権の息遣いが、今もこの土地に残っているような気がした。
実際に訪れてみると、多くの古墳が河川の近くや交通の要衝、周囲を見渡せる場所に築かれていることにも気づく。
それらは死者を葬る場であると同時に、生きる人々へ権威を示すランドマークでもあったのだろう。
古墳は自然の地形を巧みに利用しながら築かれ、その存在自体が巨大なメッセージとなっていた。
築造当時、古墳の表面は白い葺石で覆われ、多くの埴輪が並べられていたという。
いま私たちが目にする緑豊かな森の姿とは大きく異なり、当時ははるか遠方からでも見える壮大な人工構造物だったはずである。
その巨大な建造物が、長い時間の流れの中で森となり、町の風景に溶け込みながら今日まで守られてきたこと自体、一つの奇跡のように思える。
古墳を巡る旅の中で、私は何度も「国家とは何だろうか」という問いを考えた。
巨大古墳の築造には、多くの人々の労働と協力が必要だった。
そこには支配と権力だけでは説明できない何かがあったようにも思える。
大王への敬意であったのかもしれないし、祖先への信仰であったのかもしれない。また、新たな時代を共につくるという共同体意識だったのかもしれない。
真実は分からない。
しかし確かなことは、何万人もの人々が長い年月をかけて土を運び、石を積み、巨大な墳墓を完成させたという事実である。
その営みの積み重ねの中から、後の日本という国家の原型が形づくられていったのだろう。
箸墓古墳に象徴される神秘的で祭祀的な世界。
大仙古墳に象徴される巨大な政治権力。
そして飛鳥の寺院へと受け継がれていく新しい国家理念。
古墳を歩き比べていると、日本という国が神話の世界から歴史の世界へ、そして部族の連合から国家へと変貌していく壮大なドラマが見えてくる。
古墳の地を歩くということは、単なる史跡巡りではない。
それは、日本という国の最も深い場所にある記憶と向き合い、その原点を自らの足で確かめる旅なのである。
◆ あとがき
纒向遺跡から始まり、箸墓古墳、大仙古墳、そして飛鳥へと続く歴史をたどってみると、日本という国が最初から完成された姿で存在していたわけではないことがよく分かる。
各地の豪族たちが競い合い、ときに協力し、ときに対立しながら、何世代にもわたって少しずつ築き上げた結果として、ヤマト王権という広域政権が誕生したのである。
邪馬台国はどこにあったのか。
卑弥呼の墓はどこなのか。
継体天皇は本当に王統を継承していたのか。
こうした古代史の謎は、今なお完全には解き明かされていない。
しかし私は、それで良いのではないかと思っている。
むしろ、すべてが分からないからこそ、私たちは遺跡を訪ね、古墳の前に立ち、古代人の思いに想像を巡らせることができる。
歴史の魅力とは、単に答えを知ることではなく、その時代を生きた人々の息遣いを感じることにあるのかもしれない。
纒向の広大な遺跡に立ったとき、私は国家誕生の胎動を感じた。
箸墓古墳を見上げたときには、神秘と権力が交差する古代の世界を思った。
そして大仙古墳の森を歩いたときには、大王たちが築き上げた巨大な政治秩序の重みを実感した。
それらはすべて遠い昔の出来事でありながら、不思議なことに現代を生きる私たちにもつながっている。
日本という国の歴史は、決して教科書の中だけに存在するものではない。
それは今も各地の古墳や遺跡として残り、静かに私たちへ語りかけている。
もし機会があれば、ぜひ一度、古墳の地を歩いてみてほしい。
そこには単なる史跡巡りを超えた、「日本の始まり」を探す旅が待っている。
そしてその旅は、遠い古代の大王たちを訪ねる旅であると同時に、この国の歴史の中に生きる私たち自身を見つめ直す旅にもなるはずである。