豊浦宮跡と飛鳥宮跡を訪ねて──日本国家誕生の地を歩く

<目次>
はじめに
豊浦宮跡の由緒
豊浦宮跡を歩く
飛鳥の宮跡を訪ねる前に
伝飛鳥板蓋宮跡の由緒
伝飛鳥板蓋宮跡を歩く
あとがき



◆ はじめに



奈良県明日香村には、飛鳥寺や岡寺をはじめ、飛鳥時代の面影を今に伝える史跡が数多く残されている。そのなかでも豊浦宮跡と飛鳥宮跡は、日本国家の形成を語るうえで欠かすことのできない場所である。

豊浦宮は、日本初の女性天皇である推古天皇が即位した宮であり、聖徳太子や蘇我馬子とともに新しい国づくりが進められた舞台であった。一方、飛鳥宮は中大兄皇子や中臣鎌足が乙巳の変を起こし、大化改新へとつながる歴史の転換点となった場所として知られている。

現在、その地に壮大な宮殿は残されていない。しかし、飛鳥の穏やかな田園風景のなかに立っていると、かつてこの場所で国の未来をめぐる決断が重ねられたことを実感する。

本稿では、豊浦宮跡と飛鳥宮跡を訪ねながら、推古朝から大化改新、そして律令国家へとつながる日本国家誕生の足跡をたどってみたい。


豊浦宮跡の由緒

豊浦宮跡は、奈良県明日香村豊浦に所在する飛鳥時代の宮殿跡である。592年、推古天皇が即位した宮として知られ、日本初の女性天皇の治世がここから始まった。豊浦の地は蘇我氏の本拠地であり、この豊浦宮の造営をもって飛鳥時代の幕開けとする見方もある。

推古天皇の時代は、聖徳太子や蘇我馬子が国政を担い、冠位十二階や憲法十七条の制定、遣隋使の派遣など、日本が東アジアの国際社会へ本格的に歩み出した重要な時代であった。その出発点となったのが、この豊浦宮である。

推古11年(603年)、推古天皇は北方に新たな宮殿である小墾田宮へ移ったとされる。その後、豊浦宮跡は蘇我氏に与えられ、寺院へと姿を変えた。発掘調査では、豊浦寺の講堂跡の下から宮殿とみられる建物跡が発見されており、宮殿跡の上に寺院が建てられたことが裏付けられている。

この寺院は豊浦寺と呼ばれ、日本最初の尼寺と伝えられている。日本最初の出家者である善信尼ゆかりの寺としても知られ、飛鳥における仏教受容の歴史を語るうえで欠かせない存在である。現在は向原寺の境内に豊浦宮跡・豊浦寺跡の遺構が保存されている。

豊浦宮跡は、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らが新しい国づくりに取り組んだ舞台であり、日本国家形成の原点の一つといえる場所なのである。


豊浦宮跡を歩く

豊浦宮跡は、推古天皇が即位した宮殿跡として知られ、その後、日本最古の尼寺と伝わる豊浦寺へと姿を変えた場所である。現在は浄土真宗本願寺派の向原寺(こうげんじ)の境内となっており、飛鳥時代の歴史を今に伝えている。

向原寺は、蘇我氏ゆかりの寺として知られる。『日本書紀』によれば、百済から仏像が献上された際、蘇我稲目が向原の家にこれを安置したことが寺の起こりとされている。境内一帯は古くから蘇我氏の本拠地であり、日本における仏教受容の歴史を語るうえでも重要な場所である。

発掘調査では、豊浦寺の講堂跡の下から石敷きを伴う建物跡が発見されており、豊浦宮の遺構と考えられている。現在も境内には飛鳥時代の石敷きが保存されており、日本最初の女性天皇である推古天皇や、聖徳太子、蘇我馬子らが行き交った時代に思いを馳せることができる。


● 日本仏教の始まりを伝える「難波池」

向原寺の境内には、「難波池(なにわいけ)」と呼ばれる小さな池が残されている。

伝承によれば、百済からもたらされた仏像を祀ったところ疫病が流行したため、排仏派の物部氏らがその仏像を「難波の堀江」に投げ捨てたという。この難波池は、その難波の堀江にあたると伝えられている。

さらに『善光寺縁起』では、後に信濃国の本田善光がこの仏像を見いだし、長野の善光寺へお迎えしたと語られている。史実かどうかはともかく、日本仏教の広がりを象徴する興味深い伝説として現在も語り継がれている。


● 貴重な遺構の一般公開

境内では、発掘調査によって確認された豊浦寺講堂跡の一部や石敷遺構を見ることができる。

飛鳥時代の宮殿や寺院の遺構をこれほど身近に見学できる場所は決して多くない。派手さはないものの、実際に足元に残る石敷きを眺めていると、1400年以上前にこの地で営まれていた政治や信仰の息吹が静かに伝わってくるようである。


豊浦宮跡(向原寺)から飛鳥宮跡までは、自転車なら数分、徒歩でも20分ほどの距離である。途中には飛鳥寺や蘇我入鹿首塚など飛鳥時代を代表する史跡が点在しており、推古朝から大化改新へと続く日本古代史の舞台をたどりながら歩くことができる。

名 称豊浦宮跡(向原寺)
所在地奈良県高市郡明日香村豊浦630
Link豊浦宮跡|日本遺産ポータルサイト

飛鳥の宮跡を訪ねる前に

豊浦宮跡や飛鳥宮跡は、いずれも屋外に広がる開放的な史跡であり、当時の宮殿建築そのものは残されていない。

そのため、見学の前後に奈良文化財研究所 飛鳥資料館や明日香村埋蔵文化財展示室へ立ち寄ることをおすすめしたい。館内では飛鳥宮や飛鳥京の復元模型、発掘された瓦や土器、出土品などを見ることができる。

事前にそれらを見学しておくと、現地で目にする石敷きや建物跡が単なる遺構ではなく、かつて天皇や豪族たちが政務を執り行った壮大な宮殿として脳裏によみがえってくる。

飛鳥の遺跡めぐりは、史跡と展示施設をあわせて訪れることで、その魅力が何倍にも深まると感じた。


伝飛鳥板蓋宮跡の由緒

飛鳥宮跡は、飛鳥時代の政治の中心となった宮殿跡である。なかでも、かつて「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれていた遺跡は、皇極天皇が舒明天皇の没後に造営を命じ、皇極2年(643年)に遷った飛鳥板蓋宮と考えられている。板蓋宮の名は、当時一般的であった茅葺や檜皮葺ではなく、板で屋根を葺いていたことに由来すると伝えられる。

この宮殿は、日本史を大きく動かした「乙巳の変(いっしのへん)」の舞台として知られる。皇極4年(645年)、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、宮中で権勢を誇っていた蘇我入鹿を討った。この事件は、その後の大化改新へとつながり、豪族中心の政治から天皇を中心とする中央集権国家への転換点となった。『日本書紀』には、皇極天皇が見守る中で入鹿が斬られた様子が記されており、日本古代史を代表する劇的な場面として知られている。

しかし、その後の発掘調査によって、この場所には飛鳥板蓋宮だけではなく、複数の宮殿が重なって営まれていたことが明らかになった。現在では、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、そして天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮が、この一帯に連続して築かれていたと考えられている。

こうした発掘成果を受けて、2016年(平成28年)には史跡名が「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」へと改められた。これは、単なる名称変更ではなく、この地が一つの宮殿跡ではなく、7世紀を通じて日本の政治の中心であり続けた宮殿群の遺跡であることを反映したものである。

推古天皇の豊浦宮が日本の国家形成の出発点であったとするならば、飛鳥宮はその国家が大きく変貌を遂げた舞台であった。ここでは乙巳の変や大化改新、さらには天武・持統朝による律令国家建設へとつながる重要な政治が行われたのである。

こうして飛鳥宮跡は、単なる宮殿跡ではなく、日本国家誕生の過程を今に伝える極めて重要な歴史遺産となっている。


伝飛鳥板蓋宮跡を歩く

飛鳥宮跡は、かつて「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれていた飛鳥時代を代表する宮殿遺跡である。舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮などが重なって営まれたことから、7世紀を通じて日本の政治の中心であり続けた場所である。

なかでも特に有名なのは、645年に中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を討った「乙巳の変」の舞台となったことである。この政変を契機として大化改新が始まり、日本は豪族中心の政治から律令国家へと歩みを進めていった。


● 歴史が動いたその場に立つ臨場感

現在の飛鳥宮跡には建物こそ残されていないが、発掘調査の成果をもとに整備された石敷広場や石組井戸(大井戸)、建物跡の表示などを見ることができる。

のどかな田園風景の中に広がる遺跡は一見すると静かで素朴な空間である。しかし、その地こそが教科書で学んだ乙巳の変や大化改新、そして律令国家建設へと続く政治改革の舞台であったことを思うと、歴史の重みがひしひしと伝わってくる。

石敷きの広場に立ち、皇極天皇が政務を執り、中大兄皇子や中臣鎌足が行き交った往時の様子を想像していると、1400年の時を超えて飛鳥時代の息遣いが感じられるようである。


● 世界遺産のロマン

飛鳥宮跡は、世界文化遺産「飛鳥・藤原の宮都」の構成資産の一つとして、国内外から大きな注目を集めている。

現地には分かりやすい案内板や散策路が整備されており、飛鳥時代の宮殿が置かれた場所を実際に歩きながら見学できる。周囲には飛鳥らしいのどかな田園風景が広がり、四季折々の花々が遺跡を彩る。

特に秋にはコスモスが咲き誇り、古代史の舞台と日本の原風景が美しく調和した風景を楽しむことができる。歴史散歩を目的とする人はもちろん、写真撮影を楽しむ人にとっても魅力的な場所である。

建造物の残る寺院とは異なり、飛鳥宮跡には往時の建物は存在しない。しかし、それゆえに想像力を掻き立てられる。ここはまさに、日本という国家のかたちが築かれていった「歴史の現場」そのものなのである。

名 称飛鳥宮跡(伝飛鳥板蓋宮跡)
所在地奈良県高市郡明日香村岡
Link世界遺産「飛鳥・藤原」登録推進協議会
構成資産候補の紹介

◆ あとがき

豊浦宮跡と飛鳥宮跡を歩いてみると、飛鳥時代が決して遠い昔の物語ではなく、現代日本の礎が築かれた時代であったことを改めて感じる。

豊浦宮では、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子らが新しい国づくりに取り組み、日本が東アジアの国際社会へ歩み出す第一歩が踏み出された。そして飛鳥宮では、乙巳の変を契機として政治改革が進められ、後の律令国家へとつながる道筋が開かれた。

どちらの史跡にも、往時の宮殿建築は残されていない。しかし、それゆえに訪れる者は自由に想像を膨らませることができる。石敷きや井戸跡、静かな田園風景を前にすると、かつてこの地で天皇や豪族たちが議論を交わし、日本の未来を模索していた姿が目に浮かぶようである。

飛鳥の魅力は、華やかな遺構の多さだけではない。土地の静けさの中に、歴史の大きな転換点が息づいていることにある。

豊浦宮から飛鳥宮へ続くこの小さな旅は、日本という国の原点を見つめ直す旅でもあった。明日香村を訪れる機会があれば、ぜひ飛鳥の風景の中をゆっくりと歩きながら、1400年前の人々が思い描いた国のかたちに思いを馳せてみていただきたい。そこには、教科書だけでは伝わらない歴史の息遣いが今も静かに残されている。


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