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世界文化遺産「古都京都の文化財」に登録された社寺

はじめに

私が京都の景勝地に行かなくなって久しい。以前は先輩や友人・知人に会うために京都駅周辺の飲食店までは出向いたものであるが、コロナ禍で京都駅へすらも足が遠のいている。

私が観光で京都に行かなくなった理由は、観光客が多すぎるからである。ゆっくりと神社仏閣の境内や日本庭園を散策したりすることができなくなっていることに嫌気がさしているのである。平安神宮・八坂神社や清水寺、金閣寺など人気の神社仏閣には当時も多くの観光客が参拝していたのは確かではあるが、かつては穴場的な観光スポットも残されていたように思う。しかし、今日ではそのような穴場的な景勝地は京都には残されていない。

京都の神社仏閣では、人物(他人)を全く入れずに写真を撮ることは至難の技になっている。このような状況はオーバーツーリズムの弊害の一つの現れでもある。

しかしながら、京都は観光地としては人気が高く、オーバーツーリズムをものともせず多くの観光客がコロナ禍が緩和された今、国内外から京都に押し寄せている。その理由は、京都には歴史的、文化的に貴重な神社仏閣が多く、訪ねた者を魅了する力があるからだ。

かつては私も京都が大好きであった。海外から来た友人を京都観光によく誘ったものである。それは京都には日本の誇る文化遺産としての神社仏閣が多いからだ。

京都の神社仏閣は国際的にも有名であり、世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産として下記の17か所が登録されている。

かつて京都(平安京)の中心部は「洛中」と呼ばれ、その周辺部は「洛外」 であった。洛外はさらに洛東、洛西、洛南、洛北に区分されていた。私もそれに倣って京都の神社仏閣を区域別にみていきたいと思う。

洛中には二条城と西本願寺がある。洛外の洛東エリアには清水寺と銀閣寺(慈照寺)があり、洛西エリアには金閣寺(鹿苑寺)、天龍寺、仁和寺、龍安寺、西芳寺(苔寺)、高山寺がある。そして洛南エリアには、教王護国寺(東寺)、醍醐寺、平等院、宇治上神社があり、洛北エリアには上加茂神社、下鴨神社、延暦寺がある。

目次
はじめに
二条城
西本願寺
清水寺
銀閣寺(慈照寺)
金閣寺(鹿苑寺)
天龍寺
仁和寺
龍安寺
西芳寺(苔寺)
高山寺
教王護国寺(東寺)
醍醐寺
平等院
宇治上神社
上加茂神社
下鴨神社
延暦寺
あとがき

元離宮二条城

元離宮二条城【もとりきゅうにじょうじょう】は、元々は徳川家康が京都の守護や上洛の際の宿所として造営した平城である。徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜が「大政奉還」を行った場所として有名である。

二条城は、明治維新後、政府によって徳川将軍家から接収され、皇室の離宮として利用された。その後は京都市に恩賜され、「元離宮二条城」と改称されて、現在に至る。

国の史跡に指定されている他、世界遺産(文化遺産)の構成資産の一つに登録されている。(詳しくは、徳川家の栄枯盛衰を見守った歴史の城・元離宮二条城

名 称元離宮二条城
所在地京都市中京区二条城町541
TEL075-841-0096
駐車場なし
Link二条城 世界遺産・元離宮二条城

西本願寺

西本願寺【にしほんがんじ】は、浄土真宗本願寺派の本山の寺院で、山号は龍谷山【りゅうこくざん】という。御本尊は阿弥陀如来である。

1272年に親鸞の廟堂として京都東山の吉水の地に創建されたと伝わる。しかし、比叡山延暦寺からの迫害を逃れるために場所を転々とし、現在地には1591年に豊臣秀吉の寄進を受けて移転したという。(詳しくは、歴史と信仰の聖地、心の安寧を求める寺・西本願寺

名 称西本願寺龍谷山 本願寺
所在地京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町60
(カーナビ入力:京都市下京区本願寺門前町)
TEL075-371-5181
駐車場あり(有料)
Linkお西さん(西本願寺)-本願寺への参拝

清水寺

清水寺【きよみずでら】は、北法相宗の大本山の寺院で、山号は音羽山と称する。御本尊は十一面千手観世音菩薩である。

国宝の本堂の一部である舞台(本堂舞台)は、古くから雅楽や能などの日本の伝統技能が演じられてきた場所であり、「清水の舞台」として清水寺随一の観光スポットとなっている。物事を思い切って決断することを「清水の舞台から飛び降りるつもりで」というが、約13mの高さは人が恐怖を感じるのに十分である。

西国三十三所第16番札所であるほか、世界遺産(文化遺産)にも登録されている。(詳しくは、京都の象徴「清水の舞台」で有名な寺・音羽山清水寺

名 称清水寺音羽山 清水寺
所在地京都府京都市東山区清水1丁目294 
TEL075-551-1234
駐車場あり(有料)
Link音羽山 清水寺

銀閣寺(慈照寺)

慈照寺【じしょうじ】は、大本山相国寺の境外塔頭の一つで、臨済宗相国寺派の寺院である。山号は東山【とうざん】で、正式には、東山慈照禅寺【とうざんじしょうぜんじ】と号する。観音殿(銀閣)から別名で銀閣寺【ぎんかくじ】と呼ぶことが多い。

室町幕府8代将軍の足利義政によって開基され、御本尊は釈迦如来である。

足利義政は、文明5年(1473年)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482年)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めたという。当時は応仁の乱の終了直後であり、京都の経済は疲弊していた。しかし、義政は庶民に段銭【たんせん】(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山山荘の造営を進めた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたという。義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年からこの東山山荘に移り住んでいたとされる。

当時の東山山荘には大規模な建物が建ち並び、ある程度政治的機能も持っていたという。しかしながら、現存しているのは当時の銀閣と東求堂【とうぐどう】のみである。

名 称銀閣寺慈照寺東山慈照禅寺
所在地京都市左京区銀閣寺町2
駐車場なし
Link銀閣寺 | 臨済宗相国寺派

金閣寺(鹿苑寺)

金閣寺【きんかくじ】は、鹿苑寺【ろくおんじ】の別称で、正式名称は、北山鹿苑禅寺【ほくざんろくおんぜんじ】である。建物の内外に金箔が貼られていることから「金閣寺」と呼ばれることの方が多い。

臨済宗相国寺派の寺院であり、大本山相国寺【しょうこくじ】の境外塔頭である。御本尊は聖観音【しょうかんのん】である。

寺名の由来は、室町幕府第3代将軍の足利義満の法号「鹿苑院殿」に因んでいるという。元々は足利義満の北山山荘であった建物を彼の死後に寺院としたからである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、1950年に放火により焼失した。そのため、現在の建物は1955年に再建されたものである。

1950年の「金閣寺放火事件」を題材に三島由紀夫によって創作された長編小説『金閣寺』は、三島の代表作と言われている。

金閣寺は、世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」に登録された構成資産の一つである。

名 称金閣寺鹿苑寺
所在地京都府京都市北区金閣寺町1
駐車場なし
Link金閣寺 | 臨済宗相国寺派

天龍寺

天龍寺【てんりゅうじ】は、臨済宗天龍寺派の大本山の寺院であり、山号は霊亀山【れいぎざん】。正式名称は、霊亀山天龍資聖禅寺【れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ】である。

室町幕府初代将軍の足利尊氏によって開基され、夢窓疎石が開山したと伝わる。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。御本尊は釈迦三尊である。

足利尊氏は、後醍醐天皇と反目していたが、天皇が吉野山で崩御するとその菩提を弔う寺院として建立したのが天龍寺である。この寺院の建立を尊氏に強く勧めたのが禅僧・夢窓疎石であったとされる。

天龍寺は、応永17年(1410年)以来、京都五山の第一位として広大な寺域を有し、子院も150か寺を擁して栄えたという。

しかしながら、天龍寺は、創建後40年間に4度の大火に見舞われ、創建当時の仏殿、法堂、三門など多くの伽藍を焼失させている。その後も2度の大火(6回目は応仁の乱)で伽藍のほとんどを消失したという。現存する伽藍はその後に再建されたものである。(詳しくは、歴史と自然が織りなす庭・禅の心を感じる庭の天龍寺

名 称天龍寺
所在地京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
TEL075-881-1235
駐車場あり(有料)
Link世界遺産|京都 嵯峨嵐山 臨済宗大本山 天龍寺

仁和寺

仁和寺【にんなじ】は、真言宗御室派の総本山の寺院である。山号は大内山で、御本尊は阿弥陀如来である。

宇多天皇によって開基された寺院とされ、古くから皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院)で、宇多法皇が出家後に住んだことから、御室御所【おむろごしょ】と称された。しかしながら、明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになったという。

仁和寺は、桜の名所としても知られている。そのため特に春の桜の時期と、秋の紅葉の時期には多くの参拝者で賑わう。(詳しくは、御室御所と呼ばれ、御室桜で知られる名刹「仁和寺」

名 称大内山 仁和寺
所在地京都府京都市右京区御室大内33
駐車場あり(有料)
Link世界遺産 真言宗御室派総本山 仁和寺

龍安寺

龍安寺【りょうあんじ】は、大本山妙心寺の境外塔頭で、臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は大雲山で、御本尊は釈迦如来である。

応仁の乱の東軍総大将として知られている細川勝元によって開基された寺院であり、境内にある方丈庭園(石庭)で有名である。

細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻したとされる。

そして勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手し、政元と特芳禅傑【とくほうぜんけつ】によって再興されたという。明応8年(1499年)には方丈が上棟された。その後、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。

寛政9年(1797年)に起こった火災により、食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要な伽藍が焼失したらしい。そのため、塔頭の西源院【せいげんいん】の方丈を移築したものが現在の龍安寺の方丈である。また、明治時代初期の廃仏毀釈によって、龍安寺は衰退したという。

龍安寺の石庭」として有名な方丈庭園(国の史跡・特別名勝に指定)は、白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水である。

龍安寺の枯山水は、幅25m、奥行10mの庭に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の5群の石組、合計で15の大小の石が配置されている。

この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。それはある石に別の石が重なるよう設計する「重なり志向」を取り入れた日本庭園独自の作庭技法であるされている。

龍安寺の前には「鏡容池」と呼ばれる池を中心とした池泉回遊式庭園がある。鏡容池の周囲には西源院以外にもいくつか塔頭寺院がある。しかし、それらは龍安寺の塔頭ではなく、妙心寺の境外塔頭である。(詳しくは、枯山水の美、石庭の静寂、心安らぐ禅の庭「龍安寺」

名 称大雲山 龍安寺
所在地京都市右京区龍安寺御陵下町13
駐車場あり(1時間無料)
Link大雲山 龍安寺|Ryoanji

西芳寺(苔寺)

西芳寺【さいほうじ】は、臨済宗系単立の寺院である。山号は洪隠山で、御本尊は阿弥陀如来である。伝承によれば、飛鳥時代には西芳寺の場所に聖徳太子(厩戸皇子【うまやどのみこ】)の別荘があり、太子作の阿弥陀如来像が祀られていたという。

奈良時代になり、天平3年(731年)に行基が第45代の聖武天皇の勅願を得て、別荘から寺院へと改めたという。当初は法相宗の寺院で「西方寺」と称したらしい。

鎌倉時代に、摂津守・中原師員が再興し、西芳寺と穢土寺に分けたという。招いた法然浄土宗に改宗し、本尊に金泥を施したという。その後は親鸞が愚禿堂を建立して、滞在したという。

しかしながら、建武年間(1334年~1338年)に寺は再び荒廃したらしい。暦応2年(1339年)に、室町幕府重臣で、松尾大社の宮司でもあった摂津親秀が再び再興した。このとき作庭の名手でもあった夢窓疎石が招かれ、この時に西方寺と穢土寺は統一された。夢窓疎石は臨済宗に改宗し、寺名を「西芳寺」に改めた。そのため、寺伝では夢窓疎石を中興の祖としている。

応仁の乱(1467年~1477年)の際に、東軍総大将の細川勝元が陣を敷いたため、1469年に西軍の攻撃を受けて焼失したと伝わる。さらには1485年に洪水で被災したが、本願寺の蓮如によって再興されたという。また、室町幕府第8代将軍の足利義政によって指東庵が再建されたという。

安土桃山時代には、1568年に丹波国・柳本氏の兵乱で焼失したが、織田信長が天龍寺の策彦周良に命じて再建させたという。

江戸時代には、寛永年間(1624年~1644年)と元禄年間(1688年~1704年)に2度、洪水で被災し、荒廃したという。昭和44年(1969年)に本堂がようやく再建された。

西芳寺の庭園は、元々は枯山水であったが荒廃してしまい、江戸時代末期頃から庭園が【コケ】で覆われるようになったと考えられている。すぐそばを川が流れ、湿度の高い谷間という地理的要因が苔の生育に大きく影響しているとされる。

現在では庭園は約120種の苔に覆われ、苔寺【こけでら】の通称で知られるようになった。

苔寺の庭園は、史跡に指定され、特別名勝にもなっている。庭園は、上段の枯山水庭園と、下段の池泉回遊式庭園の2つから成っている。

枯山水庭園は、夢窓疎石の作庭であると伝えられ、1339年に作庭された日本最古とされる枯山水の石組みが残されている。

西芳寺庭園として有名な庭は「苔の庭」で、木立の中にある黄金池(心字池)と呼ばれる池を中心とした池泉回遊式庭園の方である。池の周囲を埋め尽くす100種類以上の苔からなる苔庭は、作庭当時から存在したものではなく、江戸時代末期になってから出来上がったものであると言われている。(詳しくは、苔の絨毯に包まれる静寂の庭で有名な西芳寺(苔寺)

名 称洪隠山 西芳寺苔寺
所在地京都市西京区松尾神ケ谷町56
駐車場なし
Link西芳寺|苔寺 Saihoji | Kokedera

高山寺

高山寺【こうざんじ】は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町【とがのおちょう】にある真言宗系単立の寺院である。山号は栂尾山と称すし、御本尊は釈迦如来である。

創建は奈良時代と伝わるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵とされる。明恵は、神護寺の文覚の弟子である。明恵は、元々栂尾の地にあった神護寺の荒廃した子院を高山寺にしたと伝わる。

高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。石水院は、当時「経蔵」と呼ばれた建物である。

石水院から開山堂に至る道の両側に残る石垣は、かつての諸堂や塔頭を偲ばせている。

高山寺は、有名な「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。

境内は国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」の一部としてユネスコの世界文化遺産にも登録されている。(詳しくは、鳥獣人物戯画などの文化財と茶の起源に関わる高山寺

名 称高山寺
所在地京都市右京区梅ヶ畑栂尾町8
駐車場あり(無料)(11月のみ有料)
Link世界遺産 栂尾山 高山寺

教王護国寺(東寺)

東寺【とうじ】は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の総本山の寺院で、山号を八幡山と称する。御本尊は薬師如来である。

東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇から弘法大師空海に下賜される際に、東寺の正式名称は教王護国寺【きょうおうごこくじ】となった。以来、教王護国寺(東寺)は、真言密教の根本道場として栄えた。

中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な寺院として存続している。

1934年に国の史跡に指定され、1994年12月にはユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産の一部として登録された。(詳しくは、立体曼荼羅を具現化した寺「教王護国寺(東寺)」

名 称教王護国寺東寺
所在地京都府京都市南区九条町1 
TEL075-691-3326
Link東寺 – 世界遺産 真言宗総本山 教王護国寺

醍醐寺

醍醐寺【だいごじ】は、京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派の総本山の寺院である。山号を醍醐山(深雪山とも)と称し、御本尊は薬師如来である。

上醍醐の准胝堂【じゅんていどう】の御本尊は、准胝観世音菩薩であり、西国三十三所第11番札所となっている。残念なことに、2008年8月24日の落雷による火災で准胝堂が全焼したため、西国三十三所札所は下醍醐の観音堂に仮に移されているという。

醍醐寺は、京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、豊臣秀吉による「醍醐の花見」が行われた地としても知られている。

平安時代初期の874年、弘法大師空海の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が准胝観音および如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山したのが醍醐寺のはじまりとされる。聖宝は、笠取山の山頂付近を「醍醐山」と命名し、876年に准胝堂と如意輪堂を建立したという。以来、醍醐寺は、醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展したと伝わっている。

その後、醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、907年には醍醐天皇の勅願によって薬師堂が建立されている。さらに、その圧倒的な財力によって926年には醍醐天皇の勅願により醍醐山麓の広大な平地に釈迦堂(金堂)をはじめとする大伽藍「下醍醐」が建立されて、大いに栄えたという。

明治初期の廃仏毀釈の際、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したりする中で、醍醐寺はその寺宝を良く守り抜いて時代の荒波を切り抜けてきたという。

国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵しており、「古都京都の文化財」として世界文化遺産に登録されている。(詳しくは、豊臣秀吉の「醍醐の花見」で有名な世界遺産・醍醐寺

名 称深雪山 醍醐寺
所在地京都府京都市伏見区醍醐東大路22
TEL075-571-0002
駐車場あり(有料)
Link世界遺産 京都 醍醐寺

平等院

平等院【びょうどういん】は、京都府宇治市宇治蓮華にある単立寺院で、山号を朝日山と称する。御本尊は、阿弥陀如来である。開基は、藤原頼通、開山は明尊とされる。17世紀以来、天台宗と浄土宗を兼ねていたが、現在は特定の宗派に属していない。

京都の南に位置する宇治は、『源氏物語』<宇治十帖>の舞台として知られ、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。平等院がある現在の地には、9世紀末頃に嵯峨源氏の左大臣・源融の別荘があり、それが陽成天皇、次いで宇多天皇に渡り、朱雀天皇の離宮「宇治院」となり、それが宇多天皇の孫・源重信を経て、998年に藤原道長の別荘「宇治殿」となっていた。道長は、1027年に宇治殿で没する。

藤原道長の子の藤原頼通は、末法の世が到来したこともあって、1052年に宇治殿を寺院に改めようと考えた。そして、その開山を天台宗寺門派で、園城寺長吏を務め、平等院(岡崎)の住持となっていた明尊大僧正に頼んだ。

その際、関白頼通は新たな寺院の名称として「平等院」の名を欲したので、明尊は平等院(岡崎)の名称を譲ったとされる。尚、岡崎の平等院は円満院と改名したという。こうして、宇治の平等院は園城寺の末寺として創建された。

本堂(金堂)は、元は宇治殿の寝殿でそれを仏堂に改造したものである。1053年には、西方極楽浄土をこの世に出現させるかのような阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立されている。1074年、頼通は平等院で亡くなっている。

鳳凰堂は、国宝に指定され、世界的にも広く知られている。平等院の数々の建造物を中心とする寺宝と文化財は、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成物件の一つとして登録されている。

また、平等院と周辺地域は、琵琶湖国定公園の指定区域の一角「宇治川沿岸地区」の中核をなしている。(詳しくは、藤原氏が極楽浄土を現世に具現化した名刹「平等院」

名 称平等院
所在地京都府宇治市宇治蓮華116
TEL0774-21-2861
駐車場あり(有料)
Link世界遺産 平等院

宇治上神社

宇治上神社【うじかみじんじゃ】は、京都府宇治市にある神社で、平安時代に創建されたとされているが、正確な創建年代は不明である。この神社は、平等院の鎮守社としても知られている。

御祭神は、菟道稚郎子命【うじのわきいらつこのみこと】、応神天皇、仁徳天皇の三柱である。菟道稚郎子命は、応神天皇の皇子であり、仁徳天皇の異母兄弟である。

本殿は、平安時代後期に建てられたもので、現存する最古の神社建築とされ、国宝に指定されている。

拝殿は、鎌倉時代初期に建てられたものであるが、平安時代の建築様式を思わせる優美な建物である。拝殿も国宝に指定されている。

桐原水は、「宇治七名水」の一つで、現在も湧き続けている貴重な湧水である。現在は、手を清めるために利用されている。

宇治上神社は、1994年にユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の一部として登録されている。

名 称宇治上神社
所在地京都市北区上賀茂本山339
Link世界文化遺産 宇治上神社公式HP

上加茂神社

賀茂別雷神社【かもわけいかづちじんじゃ】は、京都市北区上賀茂本山にある神社で、通称は上賀茂神社【かみがもじんじゃ】である。上賀茂神社の主祭神は、 賀茂別雷大神【かもわけいかづちのおおかみ】である。

京都最古の歴史を有する一社であり、かつてこの地を支配していた古代氏族である賀茂氏の氏神を祀る神社として、賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに賀茂神社(賀茂社)と総称される。

賀茂社は奈良時代には既に強大な勢力を誇り、平安遷都後は皇城の鎮護社として京都という都市の形成に深く関わってきた。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。

創建については諸説あるが、玉依日売【たまよりひめ】が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷大神であるとされる。丹塗矢の正体は、火雷神(乙訓神社)あるいは大山咋神であるとも言われている。

賀茂県主の一族が賀茂別雷大神を奉斎して、677年に社殿を建立したと伝わっている。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社で祀られている。

上賀茂神社は、794年の平安遷都後は、皇城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、807年には最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされたという。810年以降、約400年にわたり、伊勢神宮の斎宮に倣って斎院が置かれ、皇女が斎王として奉仕したと伝わる。

上賀茂神社は、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の一部として登録されている。(詳しくは、【神話に登場する神の社】上加茂神社と下鴨神社

名 称上加茂神社
所在地京都市北区上賀茂本山339
Link賀茂別雷神社(上賀茂神社)公式Webサイト

下鴨神社

賀茂御祖神社【かもみおやじんじゃ】は、京都市左京区下鴨泉川町にある神社で、通称は下鴨神社【しもがもじんじゃ】という。主祭神として玉依日売【たまよりひめ】/玉依姫命【たまよりひめのみこと】(東殿)と賀茂建角身命【かもたけつぬみのみこと】(西殿)が祀られている。玉依姫命は、賀茂別雷大神(上賀茂神社の主祭神)の母であり、賀茂建角身命は玉依姫命の父であるとされる神である。

下鴨神社は、賀茂建角身命を祀るため、本来は「賀茂御祖神社」と呼ばれる。金鵄および八咫烏は賀茂建角身命の化身とされる。

社伝では、神武天皇の御代に御蔭山に祭神が降臨したという。また、崇神天皇の御代に神社の瑞垣の修造の記録があるため、この頃の創建とする説もある。あるいは、天平時代に上賀茂神社から分置されたとも言われているが定かではない。いずれにせよ、下鴨神社は、上賀茂神社とともに奈良時代以前から朝廷の崇敬を受け、平安遷都後はより一層の崇敬を受けるようになったという。807年には上加茂神社と共に最高位の正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭として執り行われたという。

下鴨神社は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)とともに賀茂氏の氏神を祀る神社であり、両社は賀茂神社(賀茂社)と総称される。両社で催す賀茂祭(通称 葵祭)で有名である。

下鴨神社は、2つの川の合流地点から一直線に伸びた参道と、その正面に神殿、という直線的な配置になっている。境内には、糺の森【ただすのもり】、御手洗川、みたらし池がある。御手洗社の水は、葵祭の「斎王代清めの聖水」であるとされる。

平安時代中期以降、21年毎に御神体を除く全ての建物を新しくする式年遷宮を行っていたが、本殿2棟が国宝に指定されたのを機に、現在は一部を修復するのみである。

下鴨神社は、ユネスコの世界文化遺産「古都京都の文化財」の一部として登録されている。(詳しくは、【神話に登場する神の社】上加茂神社と下鴨神社

名 称下鴨神社
所在地京都市左京区下鴨泉川町59
Link下鴨神社 (shimogamo-jinja.or.jp)

延暦寺

延暦寺【えんりゃくじ】は、比叡山(標高848m)の全域を境内とする天台宗総本山の寺院である。山号は比叡山で、御本尊は薬師如来である。

延暦寺とは単独の堂宇の名称ではなく、比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔【とうどう】、西塔【さいとう】、横川【よかわ】などの区域にある150ほどの堂塔の総称である。

平安時代初期の延暦7年(788年)に伝教大師・最澄が薬師如来を本尊とした一乗止観院という草庵を東塔北谷に建てたのが開山とされる。そして開創時の年号をとって、延暦寺という寺号が許されたのは、最澄没後の弘仁14年(823年)であると伝わる。

比叡山延暦寺は最澄による開創以来、高野山金剛峯寺と並んで平安仏教の中心的寺院であった。天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持ったという。特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、弘法大師・空海の東寺での密教「東密」に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ、互いに覇を競ったという。

また、延暦寺は新仏教の開祖など多くの名僧を輩出し、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。

延暦寺の住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を強い権力で統括してきた。比叡山の寺社は最盛期には三千を越える寺社で構成されていたと伝わる。

奈良の興福寺を指す南都に対しては、延暦寺は北嶺【ほくれい】と呼ばれてきた。一方、園城寺(三井寺)を指す寺門に対し、延暦は山門と呼ばれてきた。(詳しくは、伝教大師最澄が開いた仏教修行の聖地・比叡山延暦寺

名 称比叡山延暦寺
所在地滋賀県大津市坂本本町4220
駐車場あり(無料)
Link天台宗総本山 比叡山延暦寺

あとがき

世界遺産に登録されている寺社は、さすがに素晴らしい景勝地であるところが多い。改めて公開できるような写真を撮りに行きたいと思う。しかし、オーバーツーリズムで国内外からの観光客で混雑している景勝地に私が出かけて行くことは現状のままでは当分はないであろう。本稿をかきながら、図らずも古き良き時代の京都観光を回顧することになってしまった。


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