◆ はじめに
伊賀国は、かつて日本の地方行政区分として設けられた令制国の一つで、現在の三重県西部──上野盆地一帯に相当する。東海道に属し、伊賀市と名張市を中心とする地域は、今も「伊賀」と呼ばれ、歴史と文化の独自性を色濃く残している。 伊賀は、伊賀流忍者の発祥地として広く知られるほか、伊賀焼(陶器・炻器)や伊賀組紐の産地としても名高い。山里の静けさと職人の技が息づく土地である。
そんな伊賀の山里にひっそりと残る 百地丹波守の砦跡 は、戦国期の伊賀流忍者の拠点として知られる場所である。 永保寺の裏山から続く小さな尾根道を歩いていくと、静かな山の気配の中に、かつて忍びたちが暮らし、技を磨き、戦乱に備えた砦の跡が姿を現す。
百地丹波守は、伊賀流忍術の三傑に数えられる百地三太夫の一族とされ、伊賀惣国一揆の時代には地域の自治を支えた地侍の一人でもあった。 その拠点が今も山里に残されていることは、伊賀の歴史が単なる伝説ではなく、確かにこの地で生きた人々の物語であったことを静かに語りかけてくれる。
華やかさとは無縁の、ただ「そこにある」静けさ。 その静けさの奥に、忍びの里の記憶がそっと重なっていく。 本稿では、百地丹波守の砦跡をゆっくり歩きながら、伊賀流忍者の息づかいに触れてみたいと思う。
百地丹波守の砦跡の由緒
──伊賀流忍者・百地氏の拠点として
百地丹波守の砦跡は、戦国期の伊賀流忍者の上忍・百地丹波守が多くの下忍と共に住んでいた拠点と伝わる中世城館の遺構である。百地氏は伊賀流忍者の中でも特に名高い一族で、百地三太夫をはじめとする忍者の系譜を支えた家柄として知られている。
砦跡は永保寺の裏山に位置し、寺と砦が隣り合う地形は、 永保寺が百地氏の祈りと生活の中心であったことを示している。 砦は、伊賀惣国一揆の時代には地侍たちの合議や防衛の拠点として機能し、 天正伊賀の乱(1581年)では織田軍に対する抵抗の場となったと伝えられている。
現在は小さな広場のような静かな場所となっているが、 尾根の形状や郭(くるわ)の跡が残り、当時の城館の構造を今に伝えている。 伊賀流忍者の拠点としての歴史を感じられる貴重な史跡である。現在、砦跡一帯は史跡公園として整備されており、砦跡近隣には百地氏ゆかりの永保寺や百地氏の菩提寺・青雲寺もある。
| 名 称 | 百地丹波守の砦跡(百地砦跡) |
| 所在地 | 伊賀市喰代(ほおじろ) |
| アクセス | 名阪国道「友生IC」から約12分 |
| 駐車場 | なし |
| Link | 伊賀三大上忍 百地丹波守の砦跡・百地砦跡 伊賀の中世城館群と天正伊賀の乱激戦の百地砦跡 |
百地丹波守について
──伊賀流忍者を支えた上忍の横顔
百地丹波守は、戦国期の伊賀流忍者を代表する上忍の一人として伝えられている人物である。「百地三太夫」の名で知られる伝説的忍者の実像には諸説あるが、その民俗学的モデル、あるいは同一人物とみなされることもあり、百地氏の中でも特に重要な位置を占める存在である。
丹波守は、服部半蔵、藤林長門守と並び 「伊賀三大上忍」 と称されることが多い。 これは史料というより後世の伝承に基づく呼称だが、 伊賀流忍者の象徴的な存在として語り継がれてきたことを示している。
● 地侍としての百地氏
百地丹波守は、伊賀惣国一揆の時代に地域の自治を担った地侍の一族であり、 伊賀の山里で暮らしながら、忍びの技と情報網を駆使して地域を守ったとされる。
その拠点が、永保寺裏山に残る 百地砦跡(百地丹波城跡) である。 砦は尾根の地形を巧みに利用して築かれた中世城館で、郭(くるわ)と呼ばれる平坦地がいくつも配置され、 忍びたちが集い、訓練し、戦乱に備えた場であったと考えられている。
この砦は、伊賀流忍術の源流を感じられる貴重な遺構であり、 百地氏が実際に生活し、地域を守った「忍者の実像」を伝える場所である。
● 下忍たちの修行場「丸型池」
砦跡の西側には、百地家のお抱え忍者(下忍)たちが修行に励んだと伝わる 「丸型池」 と呼ばれた堀跡が残っている。
ここでは、水蜘蛛の術や潜水術など、水を使った忍術の訓練が行われていたとされ、 当時の忍者の生活と修行の風景を今に伝える貴重な遺構である。 伝承の域を出ない部分もあるが、伊賀の地形と忍術の関係を考えるうえで興味深い場所である。
● 天正伊賀の乱と百地氏
天正伊賀の乱(1581年)では、丹波守をはじめとする百地氏が織田軍に激しく抵抗した。 伊賀の地侍たちが一致団結して戦ったこの戦いは、 伊賀流忍者の歴史の中でも特に重要な出来事であり、 百地氏の名はその象徴として語り継がれている。
丹波守は伊賀衆を率いてゲリラ的な山岳戦を展開し、織田軍を大いに苦しめたと伝えられる。 しかし、圧倒的な兵力差の前に砦も激しい戦火に包まれ、建物はすべて焼失した。
百地丹波守自身の最期は諸説あり、 この地で討死したとも、密かに脱出して生き延びたとも言われ、 その結末は今も謎に包まれている。 砦跡には百地氏累代の墓石が残され、静かに往時を物語っている。
● 静けさの中に残る忍びの気配
砦跡に立つと、建物こそ残っていないものの、 尾根の形状や郭の配置が、かつての拠点の姿を静かに伝えてくれる。
風が山を渡り、木々が揺れるたびに、 丹波守や百地氏の人々がここで暮らし、 伊賀の地を守ろうとした気配がふと立ち上がるように感じられる。
百地丹波守は、華やかな伝説の中心に立つ人物ではない。 しかし、伊賀流忍者の実像── 地侍として地域を守り、忍びの技を生活の中で磨き、 戦乱の時代を生き抜いた人々の姿──を語るうえで欠かせない存在である。
砦跡の静けさの中に立つと、その「実像としての忍者」の気配が、そっと心に染み込んでくる。
百地丹波守の砦跡を歩く
──山里に残る忍びの拠点
永保寺の裏山から続く散策路を進むと、 四国八十八カ所石仏や西国三十三観音石仏が並ぶ静かな山道が続く。 その祈りの道を抜けると、やがて百地丹波守の砦跡にたどり着く。
● 尾根に残る郭の跡
砦跡は、なだらかな尾根を利用して築かれている。 尾根の高低差を活かした地形は、戦国期の山城の特徴をよく残しており、 郭(くるわ)と呼ばれる平坦地がいくつか確認できる。
城郭は東西約250メートル、南北約60メートルという伊賀市内でも有数の大規模な「伊賀流土豪城郭」である。
- 天然の地形の加工
- 尾根を平らに削って作られた4つの郭が重なるように配置
- 巧妙な防御策
- 最も大きい主郭には高い土塁が築かれ、周囲には空堀や屈曲した進入路が設けられるなど、外敵の侵入を徹底的に防ぐための忍者らしい巧妙な工夫が見られる
この郭こそが、百地氏が拠点とした場所であり、 忍びたちが集い、訓練し、情報を共有した場であったと考えられている。
● 静けさの中に残る気配
砦跡には建物は残っていないが、 静かな山の空気の中に立つと、 かつてここで暮らした人々の気配がふと立ち上がるように感じられる。
風が尾根を渡り、木々が揺れるたびに、 忍びの里・伊賀の歴史がそっと姿を見せる。 華やかな観光地とは異なる、静かな史跡ならではの時間が流れている。
悲恋の伝説と式部塚
──山里に残る哀しみの記憶
現在、百地砦跡一帯は史跡公園として整備されており、周辺には百地氏ゆかりの史跡が点在している。 その中でもひときわ静かな佇まいを見せるのが、百地砦跡の南側にひっそりと残る 式部塚(しきぶづか) である。
式部塚は、南北朝時代に百地氏の先祖と都の女性「式部」との間に生まれた悲恋の伝承── いわゆる 「百地伝説」 を今に伝える塚である。 史料としての裏付けは乏しいものの、地域では古くから語り継がれてきた民間伝承であり、 伊賀の山里に残る「人の情」の記憶として大切にされている。
百地伝説のあらすじ
──京の恋、伊賀の山里で果てる
● 京での出会い
南北朝時代、百地大膳長高は南朝方の武将として京都に上洛していた。 その折、京の公家の娘、あるいは身分の高い女性であった 式部 と出会い、深く恋に落ちた。 戦乱の世にあっても、二人は互いを想い合い、再会を誓い合ったという。
● 再会の約束
やがて戦況の変化により、長高は本拠地である伊賀国喰代へ戻らなければならなくなる。 長高は式部に 「時期が来たら必ず迎えをやる。それまで待っていてほしい」 と約束し、伊賀へ帰郷した。
しかし、式部のもとに迎えはいつまで経っても届かなかった。
● 式部の決意
長高を諦めきれない式部は、ついに自らお供を連れ、 険しい山々を越えて伊賀の喰代へ向かう決意をする。 都の女性が山里へ旅することは容易ではなく、 その道中には多くの苦難があったと伝えられている。
● 本妻の嘘と悲劇
ようやく喰代の百地砦近くまでたどり着いた式部は、村人に長高の居場所を尋ねた。 これを知った長高の本妻は嫉妬に駆られ、式部に先回りして 「大膳長高様は、つい先日病で亡くなられました」 と嘘を告げた。
長い旅路を経てようやく辿り着いた式部は、その言葉を真に受け、 絶望のあまりその場で自ら命を絶ったと伝えられている。
● 長高の嘆きと式部塚
後に真実を知った長高は深く嘆き悲しみ、 式部を哀れんで砦の南側に手厚く葬った。 これが現在の 式部塚 の由来である。
その後、本妻は式部の怨霊に取り憑かれ狂い死んだとも、 百地家に災いが続いたとも語られており、 式部塚は「祟りの伝承」を伴う場所としても知られている。
● 式部塚の信仰
──悪縁を断つ祈りの場
この伝承から転じて、式部塚は現在 「悪縁切り」 のご利益がある場所として信仰されている。 使い古したハサミやカミソリを納めて祈願する風習があり、 今も参拝者が絶えないという。
式部塚には、参拝にまつわる独特のルールがある。 地元の言い伝えでは、「式部塚に参拝した後は、絶対に後ろを振り返らずに帰らなければならない」 とされている。
もし振り返ってしまうと、 断ち切ったはずの悪縁や怨念が再びついてくる── そんな言い伝えが今も静かに受け継がれている。
● 山里に残る哀しみの余韻
式部塚の前に立つと、 伊賀の山里の静けさの中に、式部の想いと長高の嘆きが ふと立ち上がるように感じられる。
百地砦跡の武士の気配とは異なる、 人の情が残した「もうひとつの伊賀の物語」。 その余韻は、訪れた者の心にそっと染み込んでくる。
◆ あとがき
──静けさの中に残る忍びの記憶
百地丹波守の砦跡を歩く時間は、 伊賀流忍者の歴史を静かにたどる旅そのものである。 百地氏ゆかりという背景は、この場所にひとつの物語を与えているが、 歩き終えて心に残るのは、史実の重みよりも、山里に満ちる穏やかな空気だ。
永保寺から続く祈りの道と、砦跡に残る忍びの気配。 その二つが山の静けさの中でゆっくりと重なり、 訪れる者の心にそっと余韻を残してくれる。
尾根を渡る風の音、木々の揺れ、土の匂い── それらが、かつてこの地で暮らし、技を磨き、 伊賀の山里を守ろうとした人々の気配を静かに呼び起こす。
百地砦跡の静けさは、場所を離れたあとも長く心に残り続け、 旅の終わりにやわらかな静けさを添えてくれる。 伊賀の山里を歩く旅は、歴史を知るだけでなく、 その静けさを心の奥にそっと灯してくれる時間でもある。