小川城跡──徳川家康「神君伊賀越え」を支えた甲賀の城

目次
はじめに
小川城跡の由緒
小川城跡を歩く
あとがき

はじめに

滋賀県甲賀市信楽町に残る小川城跡は、戦国時代に多羅尾氏が本拠とした山城であり、徳川家康の「神君伊賀越え」ゆかりの地として知られている。

天正10年(1582年)、本能寺の変によって織田信長が倒れると、堺に滞在していた家康は一転して命を狙われる立場となった。わずかな供回りとともに危険な伊賀路を越え、三河への帰還を目指した「神君伊賀越え」は、日本史上屈指の逃避行として語り継がれている。

その際、甲賀武士・多羅尾氏は家康一行を支援したとされ、小川城周辺も重要な舞台の一つとなった。現在も山中には土塁や堀切、礎石建物跡などの遺構が良好な状態で残されており、戦国の山城の姿を今に伝えている。

今回は、多羅尾氏ゆかりの小川城跡を訪ねながら、家康の危機を支えた甲賀武士たちの歴史をたどってみたい。


小川城跡の由緒

小川城跡は、甲賀市信楽町小川に残る戦国時代の山城である。築城の起源については諸説あり、鎌倉時代末期に鶴見氏または小川氏によって築かれたと伝えられているが、現在見られる城郭は戦国時代後期に多羅尾氏によって大規模に改修されたものと考えられている。

小川城は、信楽から多羅尾を経て伊賀へ向かう街道を見渡せる要衝に位置している。戦国時代には信楽一帯に勢力を張った甲賀武士・多羅尾氏の支配下に入り、街道の監視や防衛を担う重要な拠点となった。

発掘調査では、現在残る城郭遺構の多くが16世紀後半のものであることが確認されている。また、小川中ノ城・小川西ノ城と連携する「三城一体」の防衛網を形成していたと考えられており、多羅尾氏による大規模な改修が行われた天正13年(1585年)頃には、本格的な山城として完成したとみられている。

小川城が広く知られるのは、天正10年(1582年)の「本能寺の変」に際してである。堺に滞在していた徳川家康は、織田信長の死を知ると、自領三河へ帰還するため危険な「神君伊賀越え」を敢行した。その途中、家康一行は多羅尾光俊の保護を受け、小川で一夜を過ごしたと伝えられている。これが後に「神君伊賀越え」の重要な舞台として語り継がれるようになった。

なお、家康の宿泊地については、従来は小川城とされてきたが、近年では城麓にあった妙福寺に宿泊したとする史料も見つかっており、現在も研究が続けられている。

その後、多羅尾氏は徳川家康との縁によって江戸時代には代官として重用されることになるが、一方で豊臣秀次事件との関わりから一時改易されたと伝えられている。小川城も戦国時代末期にはその役割を終え、やがて廃城となった。

現在、小川城跡は滋賀県指定史跡として保存されており、日本遺産「忍びの里 伊賀・甲賀」を構成する文化財の一つにも数えられている。山頂からは信楽の町並みや伊賀へ続く山並みを望むことができ、家康の危機を救った甲賀武士たちの歴史に思いを馳せながら散策を楽しめる。

名 称小川城跡
所在地滋賀県甲賀市信楽町小川字和田
駐車場数台分の駐車スペースあり
Link小川城跡 | 滋賀県観光情報

小川城跡を歩く

小川城跡へは、基本的に車でのアクセスがおすすめである。城跡専用の駐車場はないが、林道入口付近に数台分の駐車スペースが設けられている。新名神高速道路「信楽IC」から車で約20分。県道138号沿いにある忍者のイラストが描かれた案内板を目印に東へ進むと登城口に至る。

なお、登城口から続く林道は道幅が狭く未舗装区間もあるため、車での進入は避けたい。麓から主郭までは徒歩15〜20分ほどで、比較的気軽に登ることができる。

小川城は、甲賀地方に多く見られる単郭構造の城とは異なり、複数の曲輪を配した本格的な山城である。現在も遺構の保存状態が良く、戦国時代の山城の姿をわかりやすく観察できる。

また、小川城は単独で存在したのではなく、小川中ノ城や小川西ノ城と連携しながら、一体の防衛網を形成していたと考えられている。時間に余裕があれば、ぜひあわせて訪ねてみたい。


削り込みの主郭と土塁

山頂部を削り整地して築かれた主郭の周囲には、高さ約2メートルの見事な土塁が巡らされている。

土塁の内側には石積みが露出している箇所もあり、土の城を基本としながら石垣技術も取り入れていた戦国後期の築城技術をうかがうことができる。


礎石建物跡

発掘調査では、主郭内部から16世紀後半のものとみられる「四間×五間」の礎石建物跡が確認されている。

山上の城が単なる戦闘施設ではなく、人々が実際に活動し、防衛拠点として機能していたことを示す貴重な遺構である。


背後を守る巨大な堀切

主郭の背後には、尾根を断ち切るように掘られた大規模な堀切が残されている。

山城における堀切は、尾根伝いに攻め上がる敵の進路を遮断するための重要な防御施設であり、小川城でもその迫力ある姿を間近に見ることができる。


主郭からの眺望

標高約470メートルの主郭からは、信楽の町並みや周囲の山々を見渡すことができる。

眼下には伊賀方面へ通じる交通路も広がり、街道を監視する要衝としてこの場所が選ばれた理由を実感できる。徳川家康が「神君伊賀越え」の際に通過したとされる地域を見渡しながら、戦国時代の緊張感に思いを馳せるのも楽しい。


小川西ノ城跡西之城

小川城の西側、街道を挟んだ丘陵上に築かれた支城である。

東斜面には複数の空堀が連続する「畝状空堀群」が残されており、小川城群のなかでも特に防御施設の見応えがある。主城を補完する拠点として重要な役割を担っていたと考えられている。


小川中ノ城跡

小川城から北西へ伸びる尾根の先端部に築かれた城跡である。

比較的広い単郭構造を持ち、小川城本体と連携しながら尾根筋の防衛を担っていたと考えられている。現在も曲輪の形状を比較的明瞭に確認することができる。


歴史好きならぜひ訪れたい山城

小川城跡は、徳川家康の「神君伊賀越え」ゆかりの地として知られるだけでなく、戦国時代の甲賀武士が築いた本格的な山城の姿を今に伝える貴重な史跡でもある。

土塁や堀切、礎石建物跡などの遺構をたどりながら歩けば、戦国乱世を生きた多羅尾氏や甲賀武士たちの息遣いを身近に感じることができるだろう。また、小川中ノ城跡や小川西ノ城跡とあわせて巡れば、中世の防衛システムの巧みさをより深く理解できる。

信楽の豊かな自然に包まれた山上で、家康を支えた甲賀の歴史に思いを馳せながら、ゆっくりと山城散策を楽しみたい。


あとがき

小川城跡には、天守も壮大な石垣も残っていない。しかし、山頂を削って築かれた曲輪や土塁、尾根を断ち切る堀切の数々は、この地が戦国時代の重要な防衛拠点であったことを雄弁に物語っている。

また、小川城の魅力は城郭遺構だけではない。本能寺の変によって運命の岐路に立たされた徳川家康と、その帰還を支えた多羅尾氏や甲賀武士たちの物語が、この城には色濃く刻まれている。

主郭から信楽の山々を見渡していると、四百年以上前に家康一行がこの地域を通過したときの緊張感や、多羅尾氏が担った重要な役割に思いを馳せずにはいられない。

小川城跡は、日本遺産「忍びの里 伊賀・甲賀」を構成する文化財の一つでもある。小川中ノ城跡や小川西ノ城跡とあわせて歩けば、甲賀武士たちが築き上げた巧みな防衛網をより立体的に理解できるだろう。

静かな山道を登り、風に揺れる木々の音に耳を傾けながら城跡を歩いていると、戦国の乱世を生き抜いた人々の息遣いが今なお残されているように感じられる。小川城跡は、歴史ロマンと山城の魅力を同時に味わうことのできる、甲賀を代表する史跡の一つである。

眼下に広がる信楽の里山を眺めながら、家康を支えた甲賀武士たちの足跡に思いを馳せるひととき。小川城跡は、歴史の舞台をゆっくり歩いて味わえる、隠れた名城跡であると言えよう。


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